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「清和源氏」の歴史⑨

「鎌倉殿の13人」で脚光を浴びている「清和源氏」の歴史について書いています。今回から、源頼朝達が主役として現れます。

平治の乱で賊軍とされ、東国に敗走し、尾張国で家人に殺害された源義朝には沢山の子供がいた。

長男の義平は、頼朝とは途中で別行動を取ったが捕らえられ、京で処刑された。次男の朝長は、頼朝とともに逃避中に受けた傷が悪化して死亡。

三男で若年の源頼朝は、近江国で疲れて脱落したおかげで命拾いした。頼朝の母親の由良御前は、熱田神宮の大宮司の藤原季範の娘であったことから正室とされる。ちなみに乳母は、後に比企尼と呼ばれる女性。母親の血筋が良かった頼朝は、既に2人の異母兄を官位で追い越しており、嫡男とされていたらしい。

まだ子供であった今若(後の阿野全成)、乙若(後の義円)及び牛若(後の源義経)の母の常盤御前は、近衛天皇の中宮(藤原呈子)に仕えていたらしく、高い身分ではなかった。

このため、源頼朝が、この3人の弟を格下に見ていた可能性が高い。また、この3人は、それぞれ別々の寺に預けられ、僧侶になる予定であった。

九男(末っ子)の牛若は、預けられていた鞍馬寺を出奔し、自らの手で元服し、奥州藤原氏宗家の藤原秀衡を頼って平泉に下った。常盤御前の再婚相手の一条長成のツテを頼った可能性がある。

他方、源頼朝は、伊豆国の蛭ヶ小島(現静岡県伊豆の国市)に流されたとされるが、居住地に関する正確な記録は残っていない。この地の豪族の北条時政の娘(後の政子)と結婚し、長女の大姫をもうけたのは、1179年頃と推測される。1160年の平治の乱から数えて20年近く、どこでどのような生活を送っていたのか、不明なのだ。

僧侶にならないまでも、この地方の霊山である箱根権現等で、読経しながら、ブラブラとしていたらしい。どこかから、経済的な支援がなされていたのは間違いないだろう。大河ドラマでは、比企尼からの仕送りがあったように描かれていた。

この源頼朝の空白の青年期は、京での中央政権が、平清盛率いる平家に席巻された時代と重なる。

(つづく)


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