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「清和源氏」の歴史⑧

「鎌倉殿の13人」で脚光を浴びている「清和源氏」について書いています。前回は保元の乱、今回は平治の乱です。
1156年の保元の乱で破れた崇徳上皇側についた源為義とその郎党を、後白河天皇及び側近の信西は、許さなかった。そして、源義朝に、京の北郊の船岡山で父為義と自身の弟達を処刑させた。実際に斬首したのは、義朝麾下の相模武将、波多野義通である。
肉身の殺害までやらされたのに、源義朝に対する恩賞が少なかったことが、平治の乱の遠因になったとの説がある。しかし、これはおそらく違う。源義朝は右馬権頭に任じられて昇殿を許され、従五位上に昇任している。勿論、受領として最上位の播磨守を任ぜられた平清盛に対するライバル意識はあったとは推測できるが・・。
1160年に起きた平治の乱は、後白河上皇の近臣達の争いであったが、その背景は複雑でよくわからない。ただ明白なことは、争いの当事者であった貴族が共倒れになり、平清盛が率いる平家一門の台頭を許したことだ。
源義朝は、藤原信頼の陣営につき、緒戦では勝ちを収めたが、藤原信頼が政治の主導権を握れず、賊軍にされ、瞬時に敗者に転落する。
東国で再起を図るべく、息子の義平・朝長・頼朝、大叔父の源義隆、平賀義信、源重成達と東海道を敗走するが、多くが討ち死にし、自らも尾張国野間(現愛知県知多郡美浜町)で、匿ってもらおうとした年来の家人に殺害された。
源頼朝は、先にはぐれて近江国で捕らえられ、京の六波羅に送られた。平清盛の継母の池禅尼の嘆願などにより処刑は免れた。
ただ、平治の乱は、院政(朝廷)における勢力争いであり、武士達が引き起こしたものではない。また「河内源氏」が結束して平家に反抗したわけでもないので、平清盛としても、源義朝の一族郎党を抹殺する積極的な理由はなかったのだろう。
かくして、数え年14歳の源頼朝は、1160年3月、伊豆国へと流された。
(つづく)

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