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コンテンツ化する写真

昔、「写真展や美術館て何を見ればいいのかわからない」という愚痴に対して「作品と対話すればいいんだよ」と言っていたのを覚えている。鑑賞者は作品を通して作者の考えや表現を知る事で、新しい価値観やものの見方ができるようになるといいねって。
どれだけ素晴らしい作品だったとしても鑑賞者が見ようとしなければ対話は成立しない。

鑑賞者の責任というと知識や経験などもあるかと思うが、まずは考える事や何かを感じ取ろうと能動的に写真と向き合う事だと思う。
「〇〇が美しかった」等のマンションポエム系キャプションに嫌悪まではいかなくともなんとなしに気持ち悪さを覚えるのは単純に鑑賞者の感じ方を制限することにより思考と感情のコスパが良すぎて鑑賞者の責任を放棄させて思考され、深く読まれる事を求めるはずの写真家が自分の表現を晒すことから逃げているように感じるからだと思う。

写真はどうしてもメディアに依存するモノでSNSというメディアに特化するのは悪い事ではない。今まで沢山の人が試行錯誤しながら築き上げてきた定石、SNSでの現在の最適解が鑑賞者の能動的コストを最小限にする事なんだろうと思う。amazonでおすすめ商品を買ってしまったり、tiktokから自動で流れてくるコンテンツをボーッと見てしまう時代はわざわざ考えなくても沢山の情報が巡ってくる。撮影者と鑑賞者の対話というアート的な文脈から単純に撮影者の提供するコンテンツとそれを享受する責任を持たない鑑賞者という文脈に変わってしまったのかもしれない。


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