ハマスと山上徹也

しばらくぶりの更新となります。前回、豊浜トンネル崩落事故のことを書くと宣言してからというもの、何から書いたらよいものかと考えあぐねてしまい、仕事の忙しさも手伝って書くのを逡巡しておりました。ちょっと情けないですね。豊浜トンネル崩落事故については、かつて一冊本を書いたことがあるのですが、それくらい手元に情報がありすぎて、私にとってはつらつらと書くには重たすぎる、系統立って書かなければならないテーマでして……ということで、豊浜トンネルのことはいったん棚上げして、この1か月半にわたり、新聞・テレビのトップニュースとして報じられてきたイスラエルによるガザ攻撃について感じていることを簡単に記しておきます。

圧倒的な戦力を誇るイスラエルによるガザ地区への「10倍返し」には、激しい憤りを覚えます。何の罪もない子供たちが大量に犠牲になっている現状に、いてもたってもいられなくなります。第二次世界大戦後のユダヤ人入植によりパレスチナ人居住者が強制的に排除される事態(ナクバ)があって以降、70年以上にもわたり、イスラエルがパレスチナで行ってきた非人道的な施策がどれほどひどいものであったか。ガザはそもそも普通の都市ではなく、難民が寄せ集まって自然発生的にできた、いわば難民キャンプです。彼ら、彼女たちはここに身を寄せる以外に行き場がない状態で生きている。事ここに至るまで「先住民」を追い詰めてきたのはどこの国だったのか。

米国をはじめとする西側諸国はそのイスラエルを支援し、黙認してきたわけです。ロシアによるウクライナ侵攻が始まって以来、米英をはじめとする西側諸国や日本はウクライナへの支持を表明し続けてきましたが、国連決議を無視したイスラエルによるパレスチナへの長きにわたる浸食にはずっと目をつぶってきました。これはダブルスタンダード以外の何物でもありません。

イスラム武装組織ハマスから見れば、突然のイスラエル攻撃と人質の獲得は、じわじわと真綿で首を絞めつけるようなイスラエルの仕打ちに我慢しきれず、国際社会に訴え出るための非常手段だった、という論理なのでしょう。

しかし、正義と信じることを達成するためならば、手段を選ばない、多少の犠牲は仕方ないのだということがまかり通ったならば、世の中はどうなってしまうのでしょうか。相次ぐ復讐の連鎖により血で血を洗う戦禍が世代を超えて続いていくことになるでしょう。そこが極めて難しいところです。

こちらは国内での出来事ですが、思い起こしてほしいのは、昨年7月に奈良県で発生した安倍晋三元首相銃撃事件です。その場で逮捕された山上徹也被告は、旧統一教会への寄付によって家庭が崩壊したことへの復讐のため、教団とつながりがあった安倍元首相の殺害を計画、実行したとされています。山上と同様、旧統一教会への寄進が原因で家庭を壊された人たちからすれば、教団の悪質さにスポットライトが当てられ、社会の非難を後ろ盾に旧統一教会への解散命令が出されたことに感謝する人がいるかもしれません。では、そのために安倍元首相は殺されて良かったのか。もちろん、それは絶対に許されることではありません。それはそれ、これはこれ。明確に分離して考えなければならないことです。

パレスチナ問題、旧統一教会問題のいずれにも共通するのは、マスコミ=ジャーナリストたちが日頃からもっともっと高い問題意識を持ってそのテーマを追い続け、世界中の世論を喚起し続けなければならなかったということです。かつて強引な勧誘とあくどい霊感商法が告発されていた旧統一教会も、一部の気高いジャーナリスト以外はその後の状況を追ってこなかった。オウム真理教ほどに社会による監視の目が続いていたならば、彼らの政治家への接近はなかったに違いありません。

何か事が起きると、こぞって同じテーマを追いかけて大々的に報じる。しかし、時が過ぎると扱い方は極めて荒くなり、フェードアウトしていく。今回のパレスチナ紛争だって、休戦になったらマスコミはいつまできちんと追いかけるか、知れたものではありません。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」のことわざは、何よりマスコミに向けられるべきものとなっています。

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