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「本の福袋」その20 『人形のBWH』 2013年2月

 2012年10月13日、丸谷才一が亡くなった。大好きな作家の一人である。小説家として有名であるが、評論家、翻訳家、エッセイストでもある。最初に読んだのは『笹まくら』(1966年発表)だったか『年ののこり』(1968年)だったか、よく覚えていないのだが、大学生の時だった。
 発表された小説はほとんど読んでいるし、『忠臣蔵とは何か』などの評論、『大きなお世話』などのエッセイも全部ではないが、かなり読んでいる。『文章読本』は少なくとも通しで5回は読んでいる。パラパラと開いて目を通した回数まで数えると20回以上になるに違いない。そのわりに文章が下手だなと思われるかもしれないが、それは先生(文章読本)のせいではなく、生徒(私)に責任がある。
 
 小説家としての丸谷才一は、著名な割に寡作である。長編小説は7、8作しかない。しかし受賞歴は素晴らしい。1967年に『笹まくら』で河出文化賞、1968年に『年の残リ』で第59回芥川賞、1972年『たった一人の反乱』で第8回谷崎潤一郎賞、1988年『樹影譚』で川端康成文学賞、2003年『輝く日の宮』で泉鏡花文学賞を受賞している。
 この他に、1974年に評論『後鳥羽院』読売文学賞を、2000年に評論『新々百人一首』で大佛次郎賞を、2010年にジェイムズ・ジョイスの『若い藝術家の肖像』の翻訳で読売文学賞(研究・翻訳賞)を受賞し、2011年には文化勲章を受賞している。まさに文壇の大御所である。
 
 丸谷才一の作風を一言で言えば「知的」である。評論は当然のことであるが、小説もエッセイも知的である。村上春樹のエッセイは夜眠る前にベッドで読むのに適しているけれど、丸谷才一のエッセイはベッドでは読めない。試したことはないけれど、たぶん眠れなくなってしまうような気がする。
どう説明すれば適切なのかは分からないけれど、内容が知的な刺激に満ちていて、たぶん脳が覚醒してしまうのではないだろうか。内容が知的であっても、、文章が難解であれば、自然と眠りについてしまうことも考えられるのだが、残念なことに丸谷才一のエッセイはとても読みやすい。読みやすくて知的で刺激的である。村上春樹のエッセイが、モーツアルトのディベルティメントだとすると、丸谷才一のエッセイはベートーヴェンの交響曲のようだ。
 
 これは、二人の小説についても同じことが言える。丸谷才一の小説は極めて知的である。内容もさることながら、構成も設計図があるかのようにきちんとしている。石造りの宮殿のように頑丈である。一方の村上春樹の小説は、自然の樹木に似ている。バランスがとれていて美しいけれど、設計図に従って作られたものではなく、自然に伸びた枝ぶりが美しい。
 ただ、二人には似通ったところがある。それは欧米の文学に強い影響を受け、近代日本文学に根付く(暗いイメーシのある)私小説とは最も遠い存在であるところである。丸谷才一はイギリス文学、とくにジェームズ・ジョイスの研究でよく知られており、ジョイスの翻訳もある。一方の村上春樹はアメリカ文学の影響を強く受けており、レイモンド・カーヴァーやスコット・フィッツジェラルド、レイモンド・チャンドラーなどの作品を翻訳している。
 
 二人は表面的には似ていないのだが、根底の部分で似通った部分があるように思う。その一つの証拠が、丸谷才一が村上春樹の才能に早くから注目していたという事実である。村上春樹は芥川賞を受賞していないが、処女作『風の歌を聴け』が芥川賞候補になったとき、村上春樹を強く推した審査員の一人が丸谷才一であったと言われている。
 偶然だけれど、今回取り上げた『人形のBWH』の中にも、村上春樹が登場する。ちょっと引用しておこう。これは「人間と犬」というタイトルのエッセイで、アメリカとイギリスの犬の名前ベスト10を紹介し、そこにスヌーピーという名前がないことを指摘し、スヌーピーが登場する漫画『ピーナッツ』を解説している部分である。(文庫本だとp.297から)

 えーと、主役のチャーリー・ブラウンで有名なのは、いつも失敗ばかりしてゐることですね。たとへば草野球でエラーをするとか。そしていつも彼の口癖は「やれやれ」といふので、これは原語ではGood Grief(パートリッジの俗語辞典によれば「あらゆる目的に使われる間投詞」)ですが、村上春樹さんの作中人物がときどきこの間投詞を発するのは、このアメリカの小学生の影響ではないかと私は推測してゐます。

出典:丸谷才一『『人形のBWH』

この短い引用部分だけでも、漫画『ピーナッツ』の主役のチャーリー・ブラウンはよく失敗をしていて、口癖が「やれやれ」だということ、それは英語では“Good Grief”であって、あらゆる目的に使われる間投詞であり、村上春樹の小説の登場人物も「やれやれ」が口癖であるという事実、それがチャーリー・ブラウンの影響ではないかという丸谷才一の推測を知ることになる。
この数行を読むだけでも、丸谷才一の文章の凄さがわかる。平易で分かりやすい短い文章でこれだけのことを伝えるのは容易なことはない。まだ、丸谷才一のエッセイを読んだことがないのであれば、是非、適当な一冊を選んで読んでいただきたい。ただし、寝室で読むことはお薦めできない。
 
 
 【今回取り上げた本】
丸谷才一『人形のBWH』文春文庫、2012年5月、695円+税
 
 

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