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ドッグイヤーなら70 年 (『INTAP ジャーナル』 No. 63、2002年8月)

インターネットとの出会い

 1992年に仕事上の必要があってインターネットを使い始めた。当時、電子政策課に勤務しており、通商産業省の技術開発プロジェクト、RWC (Real World Computing) 計画の一環として進められていた「日米合同オプトエレクトロニクスプロジェクト(JOP : U.S.-Japan Joint Optoelectronics Project)」の進め方について米国との意見交換を電子メールで行うためである。朝、メールボックスを開くと米国からの意見が届いている。これを日本の関係者に転送し、意見を求める。電子メールで返ってきた意見をまとめ(多少の調整は必要だが)米国に送り返す。すると翌朝には米国からメールが届いている。多少の誇張はあるが、こうしてJOPの実施計画はまとめられていった。おそらく電子メールがなければ、日米間の意見交換はもっと時間がかかったに違いない。

 当時はまだブラウザソフトはなく(マルチメディア対応のブラウザであるMosaicが爆発的に普及するのは93年の後半である)、電子メール以外で利用していたツールは gopher や anonymous ftp であったが、それでも米国の情報がいともたやすく取り出せるのが驚きだった。

 そんな経験があったからこそ、インターネットが電話、FAXに次ぐ、新しいコミュニケーション基盤になるという確信が持てたのかもしれない。インターネットについては、電総研から隣の課(電子機器課)に出向していた田代秀一氏、東京大学の石田晴久教授、慶應大学の村井純助教授、NTTソフトウェア研究所の後藤滋樹研究部長などから様々なことを教わった。それらの知識とインターネットから得られた情報などをベースにして、当時のインターネットの現状と将来性について30ページほどのレポートをつくり省内外に配布した。後で知ったことであるが、お隣の郵政省でもインターネットの勉強用資料として密かにコピーが出回っていたそうである。

マエガワレポート

 94年5月から97年6月まで米国に駐在した。日本貿易振興会(JETRO)ニューヨーク・センターの産業用電子機器部長と(社)日本電子工業振興協会のニューヨーク駐在員を兼務しており、米国の情報産業動向や米国政府の情報技術関連政策の動きをレポートにまとめ、日本に伝えることが仕事の一つだった。

 当時、毎月2種類のレポートを書いていた。『電子工業月報』向けの「ニューヨーク駐在員報告」と日本貿易振興会向けに書いた「産業報告」である。前者は「ネットワーク技術と暗号技術」のように適当なテーマを選び、米国のIT産業動向や米国政府のIT関連政策の動向を分析したもので、後者はニューヨーク・タイムズ紙やウォール・ストリート・ジャーナル紙などの新聞に報道された1ヶ月分のIT産業関連ニュースをそれぞれ数行にまとめたものである。

 94年夏に、この2種類のレポートを米国赴任前にお世話になった方々に近況報告代わりとして電子メールで送り始めた。当時、米国のインターネット事情を伝える日本のメディアが少なかったこともあったのだろう、いつの間にか読者が増え「マエガワレポート」と呼ばれるようになった。発行回数こそ月に2回であるが、その後流行したメールマガジンの一種だったのかもしれない。

インターネットの爆発的な普及

 米国に駐在していた3年間は、インターネットが爆発的に拡大した時期であった。インターネットの規模を示すインターネット接続ホストコンピュータ数(全世界)を見ると、94年1月には222万台であったが、3年後の97年1月には2182万台と約10倍に増加している。

 この爆発的に拡大するインターネット上で様々なビジネスが始まったのもこの時期であった。求人求職情報サイトのモンスターボードがネット上で求人情報を提供し始めたのが94年4月であり、同業のキャリアモザイクがウェブサイトをオープンしたのも94年7月である。物販では、インターネット・ショッピング・ネットワークの開設が94年4月、双子のオリム兄弟がペンシルベニア州の両親の家の地下室で音楽CDを販売するCDNowをスタートさせたのが94年8月である。

 少し変わったところでは、94年8月にピザハットがカリフォルニア州のサンタクルーズでインターネット経由でピザの注文ができる「ピザネット」の試験サービスを開始しており、94年11月にはPCトラベルがインターネット上でトラベルサービスを開始している。

 95年1月にはワインのネット販売を行うバーチャル・ビンヤーズや、カーディーラーに自動車購入希望者を紹介するオートバイテルがウェブを開設しており、95年3月には、旅行予約システムのCRSを運営するセーバーグループが航空券、ホテル、レンタカーの予約が可能なサイトを、サウスウェスト航空が独自の航空券予約販売サイトを開設し、95年7月には100万種類の書籍を取り扱う「地上最大の書店」としてアマゾン・ドットコムが登場している。ちなみに、95年8月には、ネットスケープが株式を公開した。新規公開価格は28ドルであったが、いきなり71ドルで寄付き、75ドルまで高騰し、最後は58ドル25セントで引けた。これによって、同社の株式の2.7%を保有する技術担当副社長のマーク・アンドリーセンは5800万ドルの資産家になった(当時彼は若干24歳である)。また、同社の会長ジム・クラークは、26.5%の株式を保有しているため、約5億6000万ドルの資産を手にしたことになる。今から思えば、これがネットバブルの始まりだったのかもしれない。

 ともあれ、インターネットの持つ可能性に魅せられたネットフリークにとって、まさに最良の時期に最良の場所にいたことになる。そんなこともあって、ニューヨーク駐在員報告は結果的にインターネット関連の話題が多くなってしまった。

ネットバブルの崩壊

 インターネットを利用したビジネスを立ち上げて、その会社の株式を公開すれば大金持ちになれるという安易な考えが広まったのは97年くらいからだろうか。確かにいくつかの企業経営者はそうして億万長者の仲間入りをした。例えばアマゾンの創業者のジェフ・ベゾスは、97年の株式公開によって(元手は1万ドルなのに)約2億ドルの資産家となり、株価がピークをつけた99年末には資産額は100億ドルを超えた(ちなみに、現在でも10億ドル以上の資産家である)。

 しかし、バブルはそう長くは続かない。2000年3月に5000ポイントを超えた米国のナスダック総合株価指数は、その約1年後には1600ポイント台にまで下落した。ドットコム企業の株価は暴落し、いくつもの上場企業が破産し、それ以上の数のネット系ベンチャーが新規株式公開の夢を実現できないまま姿を消した。

 たとえば、アマゾンの株価は99年12月に113ドルの最高値をつけた後、2000年を通して下がり続け、その年末には約15ドルまで下がってしまったし、逆オークションで有名になったプライスラインの株価も2000年3月には80ドル以上あったのだが、2000年末には2ドル以下まで下落した。また、マスコミにも良く登場したディズニー系列のオンライン玩具店のトイズマート、ペット用品を扱っていたペッツ・ドットコム、オンラインスーパーのウェブバンといった企業がインターネット上から姿を消した。

 米国の調査会社ウェブマージャーズが毎月発表している統計によると、ドットコム企業の倒産や閉鎖はナスダック指数の下落が始まった直後から急増し、2000年11月から2001年6月まで毎月50件〜60件という高い水準で推移した後、2001年下半期になって減少に転じ、2002年に入ってから20件以下で推移している。この数字をみる限り、ドットコム企業の倒産はようやく一段落したようである。

10年はひと昔

 インターネットに出会ってから10年になる。10年はひと昔と言うけれど、振り返ればこの10年の変化はひと昔というにはあまりにも大きい。大学や研究所の研究者のネットワークが家庭にまで広がり、インターネット利用者は10年前の100倍以上になった。普通の主婦がインターネット上で食品を買ったり、株式の売買を行うようになると10年前に誰が予想しただろう。米国の消費者がオンラインショッピングに使う金額は数兆円にたっしている。また10年前に、いずれ多くの企業がインターネットを使って取引をするようになるだろうと言っても誰も信用してくれなかったに違いない。私もCNNのニュースを見たいときにパソコンで見られるようになるとは思っていなかった。また、インターネットの未来を信じていた人でも、携帯電話で電子メールのやり取りをし、最新のニュースをチェックするようになるとは考えていなかったに違いない。

 インターネットが爆発的に普及しつつあった頃にドッグイヤーという言葉が流行した。我々が1つ歳を取る間に犬が7つ歳を取るのと同じように、カレンダーの1年はインターネットの世界では7年に相当するくらい変化が激しいという意味で使われる。10年はドッグイヤー換算すれば70年である。

 さて、次の10年も同じように大変化が起きるのだろうか。もしそうだとすれば、それはとても楽しみなことである。

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