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龍谷大学2017年公募推薦入試「風姿花伝」現代語訳

赤本に載っていないため、2023年龍谷大学の一般入試の現代語訳を作りました。
本文全体の理解のしやすさを優先しているため、細部の解釈違いはあるかと思いますが、その点はご容赦下さい。
リクエスト(原文込み)がありましたら作成いたしますので、気軽にコメントにてお伝えください。

問う。申楽の勝負の立合の戦略はどのようにするのがいいか。
答え。これは肝要である。まず、能の演目の数を増やして、敵人の能とは違う風体を違うかたちで演じるのがいい。 風姿花伝の序で述べた「歌道を少したしなめ」とはこのことである。芸能の作者が別であるなら、どんな上手も思った通りにはならない。自作であれば、台詞も振る舞いも自分の考え通りにできる。そして、能を演じられるほどの者で和歌などの才能があれば、申楽を作るのも容易だろう。これはこの道における命である。したがって、いかなる上手も、自分の能を持たぬ為手は一騎当千の兵であっても、軍陣に兵具がないことと同じである。
敵方が色めいた能を演じたときは静かな雰囲気に変えて山場で魅せる能をするのがよい。このように敵人の申楽と趣を変えて演じれば、いかに相手の申楽がよくともそれだけで負けることはない。もし能がよく出来れば勝つことは必定だろう
そして申楽の実演においても、能に上・中・下の差があるはずだ。能を作る際に基づいた書物が正しく、珍しく幽玄で面白いところがあるようなものをよい能というべきだ。よい能をよく演じてしかも会心のものを第一としなさい。能はそれほどでもないが出典に忠実で失敗もなくよく演じて出来たものを第二しなさい。能は不出来であっても、出典の悪いところを逆手にとって、苦労してよく演じたものを第三としなさい。

 問う。この競演の勝負において大きな疑問がある。既に熟練の為手でしかも名人を相手にまだ若い為手が立合に勝つことがある。これが疑問なのです。
 答え。これこそ先に述べた「三十以前の花」である。老練の為手がもう花も失せて古めいてきた時分に若手ならではの珍しい花によって勝つことがある。真の目利きは見抜いているだろう。それならば目利きとボンクラの批評の勝負になるのだろうか。
しかし例外がある。五十歳過ぎまで花が失せないような為手には、どんな若い花であろうとも勝つことはあるまい。ただしこれは、よほどの上手が花の失せたが故に負けることがある。どんな名木であろうとも花が咲かない時期の木を見るだろうか、いや見ない。犬桜の一重といえども初花の色とりどりに咲くのを見るのではないだろうか。こうしたたとえを考えてみれば一時の花といえども立合に勝つのは当然である。
つまり肝要なのは、この道はただ花が能の命であるのに、花の失することも知らずにかつての評判ばかりをよりどころとしている、それが古い為手の重大な誤りである。数々の芸を似せたところで花の有り様を知らなければ、花が咲かない季節の草木を集めて見ることのようだ。万木千草において、花の色はみんな異なるけれども、素晴らしいと見る心は同じ花である。芸の数は少なくても一方の面の花をきわめた為手ならば、その一体の評価が長く続くだろう。しかし、本人は心では「随分花はある」と思っていても、人の目に見える公案がなければ、田舎の花や薮の中の梅などが好き放題に咲き匂うのと同じである。
また、同じ上手といっても、その程度にさがあるだろう。たとえ随分きわめた上手や名人であったとしても、この花の公案をないような為手は、上手としては通用しても、花が後まで残ることはないだろう。公案をきわめたような上手は、たとえ能は衰えたとしても、花は残るはずだ。せめて花だけでも残るならば面白いところは長くあるだろう。こういうわけで、真の花の残る為手にはいかなる若い仕手といえども勝つことは決してないのである。

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