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龍谷大学2023年一般入試(1月30日)「平中物語」現代語訳

 さて、この男はその年の秋に、西の京極、九条の近くに行った。その辺りに、築地塀などが崩れてはいるが、そうはいっても蔀などは上げて、簾なども掛け渡してある人の家があり、簾のもとに、女たちが多くいるのが見えたので、この男はただでは通り過ぎないで、「どうしてこの庭は、これほどに荒れているのか」などと、言い入れたところ、「このように言ってくるのはどなたでしょう」と質問してきたので、「道行く人者です」と言い入れた。するとこの女は築地の崩れよりそれを見て、
 人が、秋のため通っていた人も飽きてしまったのでしょうか、庭さえ荒れて、よもぎ草の繁る姿は宿とは見えないでしょうか
と書いて出してきたけれど、男にはものを書くべき道具が無かったので、ただ口移しに伝えた。男は、
 誰が秋になったころに通うのに飽きて荒れてしまった宿なのでしょう。私なら、庭の草は生えさせないようにずっと通うのに。
と言って、そこに長く馬に乗ったまま立って居るのも間がもたなかったので、帰った、男はこれをきっかけに、この家の女ともの言葉をやりとりすることが生まれた。もしこれまでいまは来ていないだけで、本当は男がいるがいる可能性もあると思って、ときどきはのやりとりするくらいにしていた。
しばらくしてまた人を使いに遣ったところ、「ここにいらっしゃった人は、すでによそへ行きました」といわれ、そこには残念なものがただ一人留守を守っているばかりだ。「もし私に使いの人がきたら渡してくださいと、女からこれを頂いております」と言って渡されたちょっとした文があった。使いが「このように留守の者が言いました」と語るので、不思議に思いつつも、もしかしたら行き所が書いてあるかもしれないと急ぎ開けて見ると、ただ次のように書いてあるだけであった。
 私の宿は奈良の都です。男山を越えたあたりに用事があるときがありましたら、どうぞ尋ねてきてください。
これを詠んだ男は、ひどく思い悔しがって、女が住んでいた所に人をやって、留守の者に物品を与え場所を訪ねたが、「だだ奈良へとうけたまわっています、それ以上の詳細は知りません」と言われたので居場所を知る手立ても無くて、しばらくは奈良という手がかりからどうやって訪ねることができるだろうかとあれこれ手段を考えてもいたが、それも忘れてが年月経った。

さて、この男の親がお忍びで初瀬に参詣することがあり、この男もそのお供に初瀬を詣でたのだった。「男山越ゆばかり」と歌にあったのを思いだして、「ああ、そう言った女がいたなあ」と、供の人に話した。そうして、初瀬に詣でた。
参詣の帰りの途中に、あすかもとという辺りに、知り合いの大徳たちも俗人もでてきて、「今日は日も暮れました。奈良坂の辺りには人の泊まり宿は無いので今夜はここにお泊りなさい」と言って、門並びに、家二つを一つにした造りの風情のある家を用意してくれた。男たちはそれでそこに泊まることにしたのだった。おもてなしをし、男たちは、ものを食べて騒がしかったのも静まって、夕暮れになった。この男は、門の方でたたずんで景色を見ていた。この南側の家の門から北側の家までは楢の木というものが並べて植えられていた。「不思議なものだなあ、異なる木がなくて、こればかりが」と言って、この北側の家に入って、さしのぞいたところ、しとみなど上げて、女たちもたくさん集まっている。「どうかしたのだろうか」などと言って、仲間たち集まって、この男の供の人を呼び寄せて、「この、覗いて入らっしゃる人は、この南に宿っていられるのか」と問う。「そうです」「それで、その人は――」など問えば、この男の名を答えたのだった。とっても大げさに、自分たちでああびっくりしたといい、あはれがりて、「わたくし、何時だったか、築地の崩れより一目見たのを忘れない」、それを、ほんのりと聞いていて、この男は、「そうに違いない」と思って、ふしぎなことだなあ、こんなところに、このように宿ったことよ」と思うと、嬉しくもあり、また、男が迎えて住まわせたのかなどと、あれこれと思い乱れていると、このように言いだした。
 くやしくぞ奈良へとだにも告げてける たまぼこにだに来ても問はねば
悔しいなあ。奈良行ったと告げていたのに。便り届ける人でさえ私の道を尋ねて来もしないなんて。
と書いて、差し出したのを見たところ、あの「にはさへ荒れて」と言った人の筆跡である。京都ではなまゆかしくなりゆくので、しみじみと、おもしろい人だなあと思えたのであった。

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