布団の中で見えた世界と自分の好きの守り方
さあ寝ようとしてふと思ってしまった。「スッキリ眠れそうだろうか?」
う~ん…としか浮かばなかった。「今日頑張った!やり切った!」感じがしない。ダブルワーク、トリプルワークでたくさん動いているのに。
考えているのは、小さな問いばかりなんじゃないか。
浮かんだのはそんな言葉。
お金、数字、効率化、うまくやること、順序、早さ、いつまでに、何人、いくら、価値、意味、投資、未来。
自分の頭は、日中そんなことばかりな気がする。でも、もっと大きなもの、考えたいこと、考えるべきことがあるのではないか?ありそうな気がしている。
緻密に、厳密に、早く、ばかりじゃなく
ゆったり、ぼうっと、ぐるぐるして、いつか閃くような繋がるような、ずっと持てる問い。
それが無いって飽きているということなのかもしれない。毎日毎日、今日の燃料は何だろうって探す感じ。
人は一日何万回だか判断するらしいけれど、小さな問いでばかり、それを消費しているんじゃないか。
日々のスピードに乗っているだけだと、自分の好奇心ってやつは消耗していくのかもしれない。
どうして自分は今一つ幸せじゃないのだろう。
仕事面は少なくとも教員時代よりずっと好い。自分の今が好きだとも思う時がある。今は過渡期で、その時々で変わっていく。だから今は今でOK。100点ではないけれど悪くもない。
納得度は、ほぼ幸福度。仕事を変えて、家を変えて、「これで幸せになれるんじゃないか」って一つ一つパーツを変えて、幸せ度を確かめている状態なのかもしれない。
どうしてか自分は今一つ幸せじゃない。
それは”幸せ”のイメージはうっすらもっているということ。だから「何かが違う」は分かる。
相反するものが自分の中には常にある。「楽しい」と同時に「つまらない」。「好い」と同時に「きっとこんなもんじゃない」。「頑張りたい」と同時に「何もせずにいたい」。
静かな夜カフェ、落ち着くピアノ曲。この前改めて好きだと気づいたそれらは、純粋に「この時間好いな」に浸っていられるから好きなのかもしれない。ゆったりと、ぼうっと、しっとりと。
漫画とか映画とか、僕なりのよいエンタメの定義は「没頭をくれる」こと。「この時間好いな」は、エンタメではないんだよなあ。没頭とは違う。力が抜けて、自分の輪郭が危うく世界に染み出しそうになるような、そんな感じ。
自分の好きの守り方。
本当は、こんなに難しいはず無いんじゃないかと思う。
思うのに、やりたくて始めたあれこれが純粋な「この時間好いな」で出来なくなっている自分がいる。
時間を計算して、意味だとか考えて、うまくやろうと思って。
気付けば音楽とお笑い以外は倍速再生ばかりの自分。ためになる情報はながら聞きで、効率重視で、スピーディーに。
そんな姿勢と繋がっている気がする。せわしさの代償みたいなものなのかもしれない。
お茶を淹れてお菓子を味わうみたいに、あの夜カフェみたいに、自分の輪郭が溶け出して好きに浸れたら好いのに。
時間だとか、意味だとか、うまくだとか、評価や基準ってそれが叶わないとダメだということで、豊かに広がるあれもこれもその一点で裁かれる。
そりゃあ歪むよなあと思う。
自分は多分ダラダラしたいし甘えたいし休みたいし、何もしないでよいならきっとそうしていたい。
けれどやっている色々が「努力」という言葉に集約されて、しかも「自分を変えるため」が動機だから、どこまで行っても、どこまで行っても…なんだろう。
だから最近覚えた「その努力は自分を変えるためじゃなくていいんだよ」を自分に声かけしたりしている。
ああ、でもやっぱり頬杖をついてぼうと時間が過ぎる感じは、自分は好きだ。孤独の内に好きはあるのかもしれない。
この好きは守れたら好いなあと思う。
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