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著者と読む『ダイエット幻想ーやせること、愛されること』読書会(第9章「世界を抜けてラインを描け」, おわりに)

昨日で終わってしまったこの読書会の感想を、記憶に新しい順に遡っていこうと思う。いやそれ最初からコツコツやっときゃよかったじゃん、みたいなことは自分には合わない。書きたいと思ったときが書くべきときなのである。知らんけど。

つまりそういうことである。

当時、僕は洗濯物をコインランドリーで回していたのだが洗濯機から乾燥機への移行がままならず、この読書会の時間までに終わらせねば…と思いながら、けっきょく時間切れとなってしまって洗濯機の中に洗濯物が放置されていた。そのため、あゝ、あいつら臭くなってないかな、また洗濯機回すの嫌だな、後から来た人が出しちゃってないかな…などと考えていた。最終的に読書会終了を待って乾燥機に入れた。一部は自宅の浴室乾燥にぶち込んだ。

この週末で無事、洗濯ができて良かったと思う。ここに僕の衣替えが終了したのであった。

さて、自分の一番のお気に入りの章。そして最近よく考える「目的は手段を正当化しない」「真摯さとは何か」「大切にすべきこととは何か」というような問いへのヒントが幾つもあるので、個人的に楽しみだった。

世間を優先するのか、自分の内なる善を優先するのか、という話が出た。他者の声を内面化している人は前者になりがちで、そうでない人は後者になりがちなのだろう。換言すれば、世間に合わせて”うまくやって”成り上がる成功体験をアイデンティティにしている人は前者で、そうでない人は後者、と言えるのかもしれない。

僕は前者のような考えになることの方が多い人間であり、世間の間違いを間違いと認識していてもそれに立ち向かう勇気のない弱い人間であると自覚している。こうした志向性は出世や報酬を得ることにはポジティブだろうが、その権力勾配に甘えて他者との関わりをショートカットして自分の思い通りにすることにしか目が向かなくなると、もうお終いなんだろう。

お終いだ、と思う理由は、自分のなけなしの誠実さがゼロになる瞬間を認識するからだと推察する。僕は自分を独りでに信じられない質だから、企業や組織(≒世間)に属するし、そのルールを内面化しようと試みている。しかし、それ自体が裏目に出てしまっていて、それすら逆効果だったのだとすると、割と死にたくなるんだろうな。自分はこの世にいていいんだろうか?という疑問に言を俟たなくなる未来が手に取るように見える。

自らの内なる善を、超自我の声を大切にしようと思う。それは耳をかたむけねば聞こえないものだろうし、すぐに忘れてしまうものだし、だんだんと聞こえなくなっていくものだろうだから。

そうだよなぁと思う。「タグ」じゃない人そのものに目が向くような関係になっていること、それを続けようと(意識的に思うことなく)思っている状態それ自体が貴重なものなのだと思う。

「タグ」は自分自身に付くものだけれど、「踏み跡(ライン)」は他者との間にあるもの。だとするならば、"自分"というものも他者との間にあるものであり、自分の中に"自分"は存在しない(≒自我は自分の中にあるが、しかし自我を構成するものは自分の外の世界に存在する)ものなのかもしれない。ハイデガー的な世界観と言えば、そうなのかも。

ニュースとかTwitterとかでしばしば炎上する(というか大体炎上してる)のを見るに、でもこの人たちそのものと自分は向き合った訳じゃないんだよな、と最近は思う。リアルタイムな週刊誌を見るようにタイムラインを眺める時間を過ごして他人の失敗を娯楽として消費しているぐらいなら、お前がもうちょいマシな人間になろうとする努力に時間を使ったらどうだ。

一方で「総理大臣が」「緊急事態宣言下でも」「東京五輪をすると発言」したとか、「東京都は」「運動会すらできなかったこどもたちに」「“コロナ前”に策定された東京都内の公立小・中・高校などの生徒ら約81万人が観戦する計画を(現時点で)撤回する予定はない」という事実に、自分は立ち向かう勇気を出すべきなんじゃないか、と思う。ここはきちんと考えて、然るべきことを為したいと思う。

翻って、自分の毎日のコミュニケーションで人に見せる姿は「タグ」でしか話していないのではないか、見ていないのではないか、と思う。

自分に真摯に誠実でありたいと思う一方、勝ち馬の「タグ」を持つ存在とつながっておかないと、自らの仕事をやり抜くことができない…というダブルスタンダードの中で、モヤモヤすることは多い。

クラウドファンディングなどでは社会的信用のおける人やソーシャルメディアのフォロワー数の大きな人をブランディングの一環でコメントを貰ったりすることが寄付金額の増大に繋がる。其の方法論はひろく使われていて、無自覚に、それじゃあこの人とこの人にコメントを貰いましょう、という話をしている自分がいる。

せめてビジネスライクに「あなたの勝ち馬的要素(≒「タグ」)に期待しています」と表明する方がまだマシなのかもしれない。失礼のないように、という社交辞令にエゴを隠し忍ばせて自分の思い通りになるように話す自分のことを誇ることはできない。

今、まさにそのようなことを考えながらサポートしてきたクラウドファンディングが始まろうとしている。「やろう」と思えばできた、影響力のあるファンドレイジングを、意思を持って「やらない」ことにした。この園を運営する鳥取こども学園の方々の人となりをそのまま表現することの方が、瞬間風速の影響力を持たせることよりも大切だと思ったためだ。

果たしてどこまでいけるか。自分自身も楽しみにしている。

最後に、「弱者を救おう」「自分らしく生きよう」「おせっかいな助け合いをしていこう」と言ったりしている人や組織が強者の権力勾配で利益を得てたりハラスメントをしていたりする、という話。

これは医療・福祉・教育といった業界、官公庁の官僚や公務員(パブリックセクター)、NPO・NGOのソーシャルセクターに通底する寄付労働仮説(≒社会的意義の高い仕事をする者は精神的充足を糧に仕事をすべきで、経済的利益を得ることを欲しない/欲しないべき、という説)信奉も相まって、割とよくある話であるように思う。人格破綻した起業家や経営層の率いるベンチャー企業でもしばしば聞く話だろう。低賃金労働とセットで使われることが多いため、やりがい搾取と云われることもある。

自分にも、そういう一面がある。僕の搾取しているものが労働力なのか、その人の大切なものなのか。前者だけだと思いたいが、後者の何かを搾取しているとすれば、それは恐怖だ。したがって、1on1などの機会に何度も周囲に確認する必要があるだろう。

他者としての同僚やクライアント先との関係性。そこに報酬・待遇などの経済的利益や仕事内容・人間関係などの精神的充足はあるのだろうが、それを与えているのは自分ではなく会社である訳で。もっともらしい理念や目的を挙げても、人を人として扱うことなく自分の思い通りに仕事を動かすための道具かのように扱うような業を正当化できることはない。

あくまで組織に属することの利益を享受しているだけ、そのビジョンに基づいて従事しているだけであると、自覚しなければならない。

10年来続けるNPO(海外向けにマイクロファイナンス事業、国内向けに児童養護施設とその退所者・里親・母子生活支援施設などへの支援や難民支援をしてます)は、みんな本業があったり主婦・主夫でありボランティア、という組織です。
お互い同じような境遇と価値観、(歴の長さや年齢、立場に関係なく)フラットな対話のできる人たちの集まりで、丁寧な合議制で運営されているので、いいコミュニティだなぁとよく思ってます。

という様な話をチャットで投稿した。

このところ、この団体にいて良かったと思うことがとても多くなった。ここでの経験は、未熟な自分を少しでも世間にアジャストするために必要なことばかりだったと今になって思う。創業者、現代表をはじめとする皆には感謝してもし切れない。10年続けてきた今現在であっても、これからのキャリアや人生において大切なヒントを与えてくれている。

自らの真摯さに、もっとひたむきになる時間を持ちたいと思った。

自分の世の中に与えられる影響と自らの悪影響がバランスしているだろう、±0もしくは若干マイナスぐらいだろう、と判断できる内は努力するつもりだ。与えられた能力を、機会として与えることのできる人として。自分のようなクズ人間が生きることの許される交換条件とは何なのか。この問いにひたむきに向き合うということが、今は足りていない気がする。


貴重な時間のなか、拙文をお読みいただき 有り難う御座いました。戴いたサポートのお金はすべて、僕の親友の店(https://note.mu/toru0218/n/nfee56721684c)でのお食事に使います。叶えられた彼の夢が、ずっと続きますように。