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「時間軸」は絶対じゃない

日本語会話をしていると、中国やベトナムの人はよく動詞の過去形を間違えます。というのも、中国語やベトナムには、過去や未来を表す時制がないのだそうです。時制がない言語で、どうしたら会話が成り立つんだろう?と不思議でなりませんが、「昨日」「今日」や、時を表す副詞を使って表現するようです。

一方、アメリカ人に日本語を教えている人は「それはいつから続いているのか?」「いつ終わったのか?」など、時制に関して厳密な表現を求められると聞きました。(現在完了、過去完了の発想ですね。。。)どうも言語によって、時間の感覚はかなり違うようです。

そこで思い出したのが、以前読んだ、佐々木俊尚氏の「時間とテクノロジー」。この本によれば、アフリカの伝統社会には「未来」という概念はなかったそうです。またアメリカやニュージーランドの先住民族のイメージでは、「未来」は後ろにあって「過去」は前にあるそうな。アマゾンの奥地にいる少数民族には過去も未来もない、と紹介されています。

大量に情報が飛び交う先進国(便宜上そういう表記にします)の社会と違って、彼らは自分の生活圏で経験したことがすべて。「自分ごと」として強く認識されることは近く感じられ、重要じゃない記憶は遠くに押しやられる。「今、ここ」に集中していれば、過去や未来はどうでもいいことだったのかもしれません。

そういえば、時差を決める変更線もよく見ると、かなりいびつです。中国は広くて、シンガポールとすごく遠い北京は、どちらも時差は日本と1時間。一方、シンガポールと近いタイの時差は2時間です。

せわしない日常を送りながらも、せめて頭の中は時間に縛られずにいたいなぁと思いつつ、「そこは過去形ですよ~」と指摘する日々なのでした。


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