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『太宰治』の足跡を探して~桜桃忌編


はじめに

  6月19日、三鷹、晴れ。何故今になってこんな記事を書こうと思い立ったのかというと、8月20日、『太宰治展示室 三鷹の此の小さい家』で行われている企画展、『「杏の実」から「オリムポスの果実」へ─田中英光の開花、太宰治という師』にて、未発表資料が公開されるというので見てきたからである。書こう書こうと思って先延ばしにしていたのだが、せっかくなので今書いてしまおうと思う。

この記事の位置付け

 まず、この記事は昨年の『ふらっと神保町』読書会の記事の派生とも言ってよい位置付けであり、

 また、このアカウントの記事では、
 ↓これの続編で、

 ↓これは直前の出来事(腹ごしらえ編)である。

 また、今回の記事は『桜桃忌編』と称している通り、1回目の三鷹来訪、6月19日の出来事について書いている。8月20日のことについては次か、その次の記事に期待してもらいたい。

本題

 さて、『中華そば 向日葵』で食事を終え、一息ついた私は、店を出て日傘を差し、太宰の墓のある禅林寺へと向かった。幸いなことに、店から禅林寺までの道のりは至極簡単で、大通りに出たら、あとはひたすら真っ直ぐ、看板が見えるまで歩き続ければいいのである。蒸し上がる熱さの中、日傘を差し、アスファルトの上を進む。すると、段々と人通りが見えるようになってきて、禅林寺に着く頃には、境内が人で賑わっていた。

禅林寺

禅林寺

 禅林寺には、太宰治と、森鴎外の墓がある。これは、もともと鴎外の墓だけがあったのが、太宰の短編小説、『花吹雪』で、

この寺の裏には、森鴎外の墓がある。どういうわけで、鴎外の墓が、こんな東京府下の三鷹町にあるのか、私にはわからない。けれども、ここの墓地は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかも知れないと、ひそかに甘い空想をした日も無いではなかったが、今はもう、気持が畏縮してしまって、そんな空想など雲散霧消した。私には、そんな資格が無い。立派な口髭を生やしながら、酔漢を相手に敢然と格闘して縁先から墜落したほどの豪傑と、同じ墓地に眠る資格は私に無い。お前なんかは、墓地の択好みなんて出来る身分ではないのだ。

太宰治『花吹雪』

 と、鴎外の墓のある禅林寺に埋められたいという願望を吐露していたのを、汲んだかたちになったためである。

 禅林寺の墓所に入ると、太宰の墓を中心に、たくさんの人がいるのが見えた。墓前には既にたくさんのお供えがされ、花束を持ってきた人もいる。忌日の名前にもなっている桜桃は、墓前に置かれるどころか名前の掘られた場所にまで詰め込まれ、墓前にある分も含めると10パックはあった。私も花の1つや2つ持ってくればよかった。それくらい、墓前が賑やかなのである。
 私は墓前に立つと、太宰の冥福を祈り、そっと手を合わせた。1分くらいそうしていたと思う。私の後にも、次々と人が墓参りに来て、中には小学生くらいの子供もいた。

太宰治の墓

 偶然会話になったある人が、「太宰の作品は読みやすい」と言っていた。私は、それは多分、芥川龍之介や井伏鱒二をはじめとする、彼が尊敬する作家たちの影響なのではないかと思う。
 芥川龍之介と、井伏鱒二。この2人は、作品の推敲に命を懸けるタイプの作家である。芥川は『羅生門』、井伏は『山椒魚』の改稿がそれぞれ有名であるし、芥川は自分の文章について、『文章と言葉と』でこう述べている。

文章は何よりもはつきり書きたい。頭の中にあるものをはつきり文章に現したい。僕は只それだけを心がけてゐる。それだけでもペンを持つて見ると、滅多にすらすら行つたことはない。

芥川龍之介『文章と言葉と』

僕は誰に何といはれても、方解石のやうにはつきりした、曖昧を許さぬ文章を書きたい。

芥川龍之介『文章と言葉と』

 加えて、太宰自身も推敲や言葉の使い方、文章の組み立てなどに力を入れるタイプなのである。口述筆記で記された『駆け込み訴え』などの例外を除けば、原稿を見ると何度も手直しした跡があるし、弟子の田中英光の私小説、『生命の果実』によれば、彼の代表作『オリムポスの果実』の校正を行った際には、まず題名を変え(当初の題は『杏の実』)、作中に登場する言葉の中で、少しでも下品な描写や言葉遣いがあれば、改めさせた。

 これは後の話だが、重道は、会社の友人と横浜の磯子という三業地に遊びにゆき、夜中に(シツコイ)と若い芸者から怒られ、簪をぬき、追廻されたことがある。この話を、やはり暫くぶり逢った鳴海と一緒に、津島さんの前で、喋りだしたら、津島さんは(女の簪)という一語だけで、(もう話は分った。そんな不潔な話は止めろ。)と、怒ったこともある。
 だから、重道の、その長編処女作に、婬売屋というような露骨な言葉が出てくると、それらも顔をしかめ、訂正するよう勧めてくれた。

田中英光『生命の果実』

 読みやすいということは、作品を読むのに邪魔となるノイズがないということだと思う。そして、ノイズなく読める文章を作るためには、ごちゃごちゃして曖昧になってしまった描写を思いきって削ってみたり、ストンと読み進められるように、言葉一つ一つを何度も遂行したりといった、果てしない、繊細且つ大胆な作業が必要になる。太宰治は確かに天才であるが、それ以上に、彼の並々ならぬ努力と工夫が、長く愛される所以なのではないかと思う。

太宰治文学サロン

 さて、墓参りを終えた私が次に向かったのは、三鷹駅から程近くにある施設『太宰治文学サロン』である。ここには太宰やその関連人物に関する様々な書籍が展示されており、お土産を買ったり、飲み物を飲んだりすることもできる。本来は定休日の予定だったのだが、桜桃忌ということで特別に開館されていた。
 長い間炎天下を歩いていたことで疲労が頂点に達した私は、そこで青森のリンゴジュースを買い、一気に飲み干した。その日に限ってはあまり長居することができなかったのだが、ここには会期を終えた展覧会の図録や、普通の書店では購入することのできない書籍なども置いてあるので、太宰について知りたければもってこいの場所である。
 日によっては、ここで朗読会などを行うこともあるそうなので、是非確認してみてほしい。

太宰治展示室 三鷹の此の小さい家

 さて、ここからが本命である。私はこれを見るために三鷹にやってきたのだ。

企画展示『「杏の実」から「オリムポスの果実」へ ─田中英光の開花、太宰治という師』

 太宰治の弟子で、元オリンピック選手。そしてそのセンセーショナルすぎる最期で有名な田中英光であるが、何を隠そう、私はこの作家が、ひいては、太宰と田中を中心とした文士たちの関係性がまとめて大好きなのである。
 なので受験勉強を始める前は主に彼らの評伝を読み漁っていたし、今でも本当は読みたくてしょうがない(我が家には、東大文科の赤本くらいある分厚い『田中英光辞典』がある)。
 それほど大好きな田中英光であるが、普段はほとんど展示会などでは紹介されない。そのため、この企画展が発表されたとき、私に行かないという選択肢はなかった。
 展示スペースは撮影禁止のため、写真をのせることはできない。しかし、展示室には太宰や田中の初版本や書簡、それから、田中が結婚したときに太宰から贈られた色紙なども展示されていた。

次回へ続く。

 太宰と田中の詳細な関係については、後編・未公開資料編にて紹介しようと思う。
 読者の皆様はそれまで楽しみに待っていてほしい。

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