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新日本プロレス史#1【70年代】

新日本プロレス創成期

戦後の日本人にとって、プロレスは敗戦の傷を癒す娯楽として欠かせないものでした。
日本プロレスの盟主と言えば力道山。
その2人の弟子、ジャイアント馬場とアントニオ猪木によってそれぞれ、1972年に旗揚げされたのが、全日本プロレスと新日本プロレスです。
この頃のプロレスは、そうした社会情勢から、日本人vs外国人が中心でした。
日本人選手が善玉、いわゆるベビーフェイス、外国人選手が悪玉、いわゆるヒールといった構図です。
そのため、日本のプロレス団体は、アメリカの団体と提携を結び、外国人選手に多く来日してもらう必要がありました。
当時のアメリカマット界は、団体規模の順に、NWA、AWA、WWF(後のWWE)が中心で、当時は馬場の全日本がNWA、AWAと提携し、新日本はWWFと提携していました。
今は巨大組織のWWEですが、当時は3番手の団体で、実は新日本と提携していた時期がありました。

試合の方は、当時はリングアウト、反則等の不透明決着が当たり前でした。
また、試合自体も技が少なく、全体的に間を重視したゆったりペース。
投げ技や打撃も少なく、組み合ってのバックの取り合いやグランドでの抑え込みといった、基本に忠実な、まさしくレスリング、といった試合でした。
それゆえ、ボディスラム、ブレーンバスター等の投げ技でも必殺技級でしたし、技の決め手に欠けて60分時間切れ引き分けも多くありました。
そんな決着が当たり前の時代でしたが、当時は、大物外国人選手が見れただけでファンは狂喜し、多くの人が試合結果にも納得していました。

タイガー・ジェット・シン
スタン・ハンセン
アンドレ・ザ・ジャイアント

私が思う、新日本創成期を支えてくれた外国人選手の代表格です。
多くの選手がゆったりペースで試合をしていた中、シンは入場から狂気で会場内を暴れ回る、ハンセンは試合序盤からラフファイトで攻めまくる、アンドレはその規格外の体格で、まさしく怪物でした。
これらの選手達と猪木との絡みは、一言で言えばスリリング!

技が少ない故に、1つの技が決まる=ピンチという殺気めいた雰囲気が試合にありました。
そんな怪物に挑む猪木の姿に、ファンは惚れ込んでいました。

異種格闘技戦

この時期に新日本から外せないのが、猪木の異種格闘技戦。
「格闘技世界一決定戦」と銘打って、当時、ボクシングの世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリを初めとした格闘家との対決は盛り上がりました。
しかし実際は、馬場の全日本に外国人ルートを抑えられた中での、苦肉の策でした。
大物外国人が来日していたとはいえ、提携団体がWWFだけでは、マッチメイクに限界があったの
です。
とはいえ、特にアリとの異種格闘技戦は、以後の新日本にとって大きな分岐点となります。
新日本側がアリの渡航旅費、帯同者の経費から、ルールまでアリ側の要求をほぼ飲む形で実現しました。
試合はというと、アリのパンチを警戒した猪木が寝ながらひたすらアリの脚を蹴るというもの。
後に「アリキック」と言われるローキックの繰り返しで、真剣勝負にありがちな噛み合わない試合で、「世紀の大凡戦」とまで言われました。
そして残ったのは多額の借金。
以後の新日本の経営に大きな影響を与えた一戦でしたが、この「プロレスこそが最強」という猪木の信念が、「ストロングスタイル」という言葉で受け継がれていくことになります。
ストロングスタイルの定義は明確には示されていませんし、私自身も正確に説明出来るものではありません。
ただ言えるのは、このストロングスタイルの理念こそが、以後の新日本を支えていった原動力に違いないということです。

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