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“出口の無い物語へ溶ける” 宿 神倉書斎

紀伊半島の南端に位置する和歌山県新宮市は日本神話の伝説が生き通っている街であり、イザナミやカグツチが祀られる花の窟神社は日本書紀の記載によると日本一歴史の古い神社とされている。

その東側に広がる七里御浜は22km続く日本一規模の大きな砂礫海岸であり、敷き詰められた石たちは太平洋の大波に削られ、角が取れまるまるとした趣だ。

神倉書斎は新宮市の中心街近くに位置し、民家を改装した二階建ての一棟貸し宿泊施設である。細長い路地の先にあるその外観はありふれた民家と変わらず、「留守番」のナミカワさんに迎えにきていただけなければ場所の見当もつかなかっただろう。路地には散りかけた梅が植えられ、姿は見えないが猫の声が聞こえた。

神倉書斎は宿という概念とは少し異なる。それは「泊まれる小説」と銘打っている通り、一つの物語に迷い込むような芸術的体験に近い。

物語は神倉書斎を改装する前に住んでいたお婆さんと、1年間居候をしていた地質学者の話。主人公は神倉書斎のオーナー自身で中学生の頃の思い出を語ったものと思われる。その物語は短編小説ほどの長さで、居間の壁面にキャプションのように飾られていた。

特徴的なのは、物語に登場する居候の地質学者(物語の中でAさんと設定されており、以下Aさんとする)の部屋であった2階がAさんが居た時のまま残されていることだ。研究史料と思われる石やスケッチ、Aさんが用いたであろうカメラなどがきちんと置かれ、小説の中の舞台がそのまま空間として存在している。Aさんの日記と思われるものが2階のデスクに置かれており、主人公の秘密基地としていた押し入れには、当時書き留めたAさんの観察記録が子どもらしい字でそこにあった。

居間の壁面にある小説を30分ほどかけて読み終え、かつてこの家で当たり前に流れていた時間に思いを馳せながら、部屋をまわし見る。
そして、なんとなしに2階へ行き、Aさんの部屋にあった日記を読み始める。

日記では新宮に存在する架空の存在について語られていた。居間の小説を読む限り、この物語は過去に実際に起こったことだと想像していたが、その存在の出現により、自分がどの次元に置かれているのかわからなくなる。自分はいつから異郷に迷い込んでいたのだろう。ナミカワさんと出会った時か、それとも七里御浜で石拾いをしていた時か…。目の前に確かにある空間、新宮自体が本当に現実のものなのか。軽やかに次元を超えた。

Aさんの視点を通して見た新宮の景色は非常に魅力的であった。早朝の海の煌びやかさや、海沿いを走る電車の愛らしさ、新宮のお土産のことまで、全てが愛おしく感じる。小説を通して、新宮を旅する経験が重なったような、そんな時間を過ごした。

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