歌舞伎座裏の喫茶店@東銀座

「だからさ、お前に聞いてるのは、なぁ、1日あたりの出荷がどのくらいあるのかって、聞いてんだよ。」

中年という年代から10年ほど経過しているであろうか、初老といっても良い年代にさしかかった男は、目の前に座る40代と思わしき男にそう告げた。テレビ画面に映る砂嵐のような色のグレーのスーツを着ている。
40代の男は、暑い盛りだというのに黒いスーツを着ているが、スーツはやや日焼けしており、色あせている。黒いスーツの男は、膝の上で手を固く握りしめている。人間の緊張というものは、手に出るのだ。

フリーライター田所洋介は、ノンフィクションライターだ。人間の観察には長けている。田所の席からは、黒いスーツの男が握りしめたこぶしから、緊張感とともにグレーのスーツの男に対する怯えが伝わってくる。グレーのスーツの男も、その怯えをもちろん感じているのだろう。グレーのスーツの男は、黒いスーツの男に対して、まるでありんこのような扱いをしている。自分よりはるかに力のないありんこをいたぶる、それがいじめの構図なのだ。そして、と、田所は思う。

50を過ぎても、人をいたぶって、いじめる男がいるとはな。

田所は後悔の念を感じていた。今日は、歌舞伎座近くにある出版社にて、この後打ち合わせの予定だった。打ち合わせまであと35分、会社の受付にて時間をつぶすには長すぎ、お気に入りの喫茶店に入るには足りない時間である。出版社裏のドトールに入ろうとしたが、僅差で歌舞伎座帰りと思われるご婦人方に席を取られてしまった。しょうがなく、その近所にある初見の喫茶店に入ったのだが、田所の後に入ってきた集団は、田所の横の席を陣取り、延々と冒頭のようなやり取りを続けているのだ。

「なぁ、ところで何時に出ればいいんだ。」

グレーのスーツの男は、隣に座った20代中ごろと思われる女性に聞いた。パンツスーツを着た女性は、やや濃いめのアイシャドウをつけており、ただでさえ釣り目に見える瞳が、さらにきつく見える。しかし、その気の強そうな女性も、グレーのスーツの男に対して緊張しているのが、こちらにも伝わってきた。

「はい、15分には、出れば大丈夫かと思います。」

パンツスーツの女性がそう答えると、40代の男は、じゃあ、あと一本吸えるなと言って煙草に火をつけた。そのしぐさを確認してから、パンツスーツの女性も煙草を取り出して火をつける。息を吸い込んで、勢いよく煙を吐く。白い煙が空気の流れで田所のところまで漂ってくる。田所は手ではらおうと思ったが、止めた。これで何か言われては割りが合わない。そもそも喫煙可の店に入ってしまった自分が悪いのだ。そう、言い聞かせて、書きかけだったメールの続きに戻る。30分の間に3通のメールに返事をしようと思っていたのだ。

「だからさ、まだ答えを聞いてないんだけどね。1日あたりの出荷数だよ、出荷数。」

出荷数、と言いながら、グレーのスーツの男はテーブルをドンと叩いた。

「は。えーと、そうですね、資料には、あるんですけれども」

黒いスーツの男が、蚊の鳴き声のような、かぼそい声を出す。

「は?資料にはある?お前が作った資料なんじゃないの?」

「はい、自分が作った、資料ですけれども」

「お前さ、自分が作った資料の数字も言えないわけ。なんだよそれ。ダメじゃん。全然ダメだって、自覚今あるのお前?お前さ、部長になってから何年経つんだっけ。」

「は。」

「は、じゃなくてさ。何年経つんだよお前。」

「は。3年めになります。」

「あ、そう。3年目でさ、それでさ、1日の出荷数も頭に入ってないわけ。それで、今までやってきたんだ。へー。すごいね。」

グレーのスーツの男は、煙草の先を黒いスーツの男に向ける。そして、パンツスーツの女に向き直る。

「部長になって3年経っても、こんなやつがいんだよ。覚えときな。悪い見本としてな。」

黒いスーツの男は、は、とまた返事をする。田所はそっと彼の膝に置かれた手を見る。手はわずかに振動している。さきほどよりも強い力で握りしめているのだ。

田所は諦めてVAIOの画面を閉じる。とてもメールに集中していられる気分ではなかった。

パンツスーツの女がせわしなく煙草に唇をつけて、息を吸い込む。そして煙を吐き出す。組んだ足を組み替える。黒いスーツの男のひざで、小刻みに揺れる握りしめられたこぶし。グレーのスーツの男は、漫然と煙を吐き出す。

喫茶店は、細長い長方形の形をしている。田所は、長方形の長辺を背にして座っている。その隣にある4人席のテーブルに、3人組が腰をかけている。田所の対面にも、テーブルのセットが並んでいる。そこには、まるで双子のように見える男が2人、こちらを向いて座っている。まるで一卵双生児のようだが、連れではないらしい。2人は壁を背にして、こちらをじっと見ている。いや、田所の方を見ているわけはないのかもしれない。3人組のやりとりを観察しているのかもしれない。いずれにせよ、その男たちのぎょろっとした目を、こちらの方向に向いたまま、微動だにせず固まっている。
まるで、現代の前衛美術家が描いたシュールな絵画のようだ。

田所は、店の奥にあるカウンターに目を向ける。店が狭いがために、奥に作られたカウンター席もとてもせまい。カウンターの中にいる店員と、カウンターに座る客は、ほぼ向かい合わせのような形になる。カウンターの中では、男性の店員がグラスを洗いながらカウンターの客と話している。カウンターの客は小太りな中年の女性だった。いや、たぶん中年だと思う。花柄のシャツに黒いスパッツ、幅の広いストローハットをつけているため、年齢が分からないのだ。おそらく中年の女性は、スマホを取り出して自撮りをしている。ピースサインを作って顔の横に添える。カウンターとの距離が近いせいで、自撮りをする中年の女性と男性店員の間は、数十センチ程度しか空いていない。

下北沢の小劇場で、名もない劇団の名もない脚本家が書いたシュールな劇の一幕のようだ。

田所はため息をついた。フリーライターである田所にとって、喫茶店とは仕事場であり休息の場であり、人間観察の場でもある。しかし、この喫茶店のように、何から何まで自分にそぐわないオーラをまとった喫茶店もあるのだ。少し待ち合わせの時間には早いが、田所は店を出ることにした。田所が会計をしようと、財布に手を伸ばした瞬間、おもむろにグレーのスーツの男が口を開いた。

「おい、お前会計してこいよ」

パンツスーツの女にそう命じ、女は店奥のカウンターに会計をしに向かった。

やれやれと田所は思った。何から何まではタイミングが合わない日だ。会計をして戻ってきた女は、領収書をグレーのスーツの床に手渡す。3人は、連れだって店を出ていく。去っていく黒いスーツの男の背中は、座っている時よりももっと小さく見える。

さて、俺もそろそろここを出よう。お会計、といって手をあげる。田所は心の中でほんの少しだけ黒いスーツの男に同情をしたが、店を出て打ち合わせを終えることには、きっと忘れていることだろう。

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