シャノアール@駅近のビル

田所洋介は静かに愛用しているVAIOを閉じた。コーヒーを一口飲む。コーヒーチェーン、シャノアールのコーヒーは評定平均3のような味がするコーヒーだ。悪くはない、そして特別良くもない。そしてその中間的な味わいが、喧噪に追われる日常にフィットしていように思える。

シャノアールは、関東近郊を中心に展開するカフェチェーンだ。スターバックスのような駅前や駅中の一等地に立っていることは少ない。駅を降りて、商店街の入り口の地下にひっそりとたたずんでいたり、何十年前に建てられたか分からないローカルなショッピングビルの3Fに入っていたりする。
田所は駅近くのビルの3Fにあるシャノアールの一席を陣取っていた。

先ほどから田所はパソコンの画面に集中しようと格闘していたが、それを阻害する要因が絶え間なく彼に押し寄せ、とうとう観念してVAIOを閉じたのだ。
仕事を妨げてきた要因、それは周囲の雑音だった。雑音といっても、ただの雑音ではない。田所はフリーのライターというその仕事柄、もっばら仕事場は都内近郊のカフェとなる。カフェたるところ、雑談や商談などが絶えず行われており、普段であれば田所は雑音など気にしない。
しかし、今、このシャノアールから生み出される雑音は、それ以外のカフェにおけるそれはとは、全く異なっていた。

田所が座る席の隣では、老婆とその娘と思われる娘による会話が繰り広げられていた。テーマは、老婆に金をせびってくる近所の友達について、である。
老婆は、近所に住む友達(近所からは敬遠されているらしい)から、ことあるごとに数万円単位のお金を貸してほしいと持ち掛けられているらしい。老婆の悩みに対して、娘はその友達とは縁を切るようにと延々と諭し続けている。

田所は、どうしてもその会話の応酬が耳に入ってきてしまい、作業に集中することが出来ないのだ。
今日は選択を誤ったな。田所はそう思った。田所は、シャノアールのことを心の中でこう呼んでいた。

ババアゾーン。

何もシャノアールをさげすんでいるのではない。中年をはるかに超えた女性たちが集まってくる場所の総称として、ババアゾーンという呼称を掲げているのだ。ババアゾーンはシャノアールを包括しているが、シャノアールはババアゾーンの一部である。そして、ババアゾーンの特徴して、以下のようなことが挙げられる。

・2人ないし8人程度の集団で訪れる
・店内の別のグループに、だいたい知り合いがいる
・6人以上のグループになると、1人以上のジジイが含まれることが多い
・借金などのパーソナルな情報を話す
・おしなべて声が大きい
・ババアゾーンの定義は簡単にくつがえらない

「ババアゾーンの定義は簡単にくつがえらない」というのは、一度ババアゾーン認定を受けると、ババアたちが日参し続けることを意味する。
昔、最寄りの駅の高架下に喫茶店があり、ババアゾーンを形成していた。しかしある時、再開発の波が押し寄せ、高架下の喫茶店はイートインがついたチェーンのパン屋へと変わった。田所はさすがにこれでババアゾーンも解除されるかと思いきや、イートインスペースに相変わらずババアたちは通い続け、まるで喫茶店のようにパン屋を使っていたのだった。一度、店を訪れている老婆が電話で話している相手に「そうそう、今喫茶店にいるから」と、パン屋のことを喫茶店と呼称していたのを聞いたことがある。

ということで、一度ババアゾーン認定を受けたスポットは、再訪率の高い顧客を獲得出来ることになる。しかし、ババアゾーン認定されたスポットは、上記の特性があるゆえに、若者やビジネスでの商談などには使われなくなる。スターバックスなどは、ババアゾーン認定されないための、あらゆる施策を行使してきたに違いない。あの魔法のように長いオプションの注文や、サイズをSやMではなく、わざわざショート、トールなどと呼ばせるのもその一環かもしれない。

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田所は、心の中でそうマントラを唱えた。

「だからね、お母さんはそうやって人が良いから付け込まれるのよ。」
娘は、コーヒーゼリーの上に乗ったソフトクリームをスプーンですくいながら言った。
「そうはいってもねえ、やっぱり、阿部さんとのね、付き合いもあるしね。」
老婆の方はコーヒーをすすっている。

「あのねえ、阿部さんが過去にどんなにお母さんに優しくしたってね、お金返さない時点で終わりなんだから。ね!友情なんかね、その時点で終わっているからね。」

娘は「ね!」のタイミングでアイスクリームスプーンを母親に向かって向けた。

「でもねえ、阿部さん、やっぱりほら。榊さんとも中が良いからねえ。」

老婆は、灰色のスカートのすそを指でつまんでいじっている。

「お母さんね、そうやっていつも1万とか2万とか借して、阿部さん何に使ってるか分かってるでしょ。パチンコだよ。おとといも榊さんがパチンコ屋で会ったって言ってたじゃない。」

「そうねえ、阿部さん、パチンコやるからねえ。」

「だいたいね、お母さん人を見る目がないのよ。わたしね、今の職場でもちゃんと人を見て仕事してるからね。やっぱり、リーダーの田中さんはね、放っておくとやりたい放題だから。こないだもね、言ってやったわよ。わたくし、バイトの分際で僭越ですが、やり方がおかしくないですかって。ね、だからね、お母さんもちゃんと言う時は言わないとだめ。」

田所は横眼でちらりと隣の親子を見た。灰色のスカートを履いた地味な老婆は、終始自信がなさそうにスカートのすそをいじっている。対して、娘は自信満々に若干肥満気味の体を揺らしながら、自分の母親にご高説を披露していた。

田所が終始集中出来ないのは、この親子の会話が「阿部さんのパチンコ消費による借金」というセンセーショナルな内容であるからというわけでもなく、単純に娘の声が大きいからというわけでもなかった。問題は会話のプロセスにあった。先ほどから、親子の会話はどうどう巡りなのだ。娘は阿部さんと縁を切れと言う。母親は、切れないと言う。娘は職場での武勇伝をはさみながらやはり縁を切れと言う。先ほどからこのプロセスを既に6回は繰り返している。

この会話のプロセスが延々続くことにより、まるで宇宙的なフラクタルが形成されるような気がした。もしくは、メビウスの輪かもしれない。あるいは、エッシャーの無限回廊かもしれない。

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田所はふたたび、心の中でマントラを唱えた。

反対側の席には、テーブルを3つほどつけて、8人ほどの老人グループが座っていた。どうやら、中央に座って先生と呼ばれる女性は絵を教えており、まわりに座っているのは生徒であるらしかった。先生は、生徒の一人が描いたと思われるスケッチブックを掲げてこう言った。

「これね、もう本当に素晴らしいですね。このカーネーションの赤の色、花びらの広がりね。まさにこの絵の生命力を感じさせる色彩になっていますね。」

生徒たちは拍手をする。絵を描いたと思われる女性は、皆に向けて軽く会釈をする。

「でもね、もう一つだけ注文をつけるとすると」

先生がそう言って、一同を見回す。

「ここがせっかく綺麗な暖色系の色を使っているのに、うしろの背景の塗りが1色になっているでしょう。ここね、すごくもったいないんですよ。もし、ここにもうちょっと手前で使っている暖色系の色を、混ぜてみたらどうなりますか?」

「印象が明るくなります。」

男性が手を挙げて言う。先生は、うなずく。

「うん、そう。そうね。印象が明るくなるというのもあるんだけれど、絵がね、全体に統一感が出るんですよ。せっかく生命の広がりみたいなものを感じられるお花を描いているからね、背景も統一感を持たせると、もっとその主張がね、広がって、良いと思います。」

生徒たちは、うんうんと頷く。先生は続ける。

「でもね、本当にけいこさん、こないだの作品よりもずっとずっと成長されてるんでね、私もびっくりしました。みなさん、けいこさんに拍手しましょうね。」

みんな、にこにこしながら、拍手をする。けいこさんは、はにかんで会釈をする。

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田所は再び、心の中でマントラを唱え、それからコーヒーを飲み干した。

反対側の親子の会話は、無限回廊の8週目に入ろうとしている。田所はVAIOを鞄にしまうと、伝票を持って席を立つ。レジで会計をして、店を一歩出た瞬間に、自分の致命的なミスに気付く。

集中して仕事をしたいと思っていた田所が、なぜシャノアールに来たかと言えば、レシートと交換で、グラスに飾れるねこーふちね
こを集めていたからである。その目的のためだけに、シャノアールに来たのにも関わらず、レシートをもらわずに店を後にしてしまった。やれやれ、と思いながら田所は口に出してマントラを唱えた。

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