ルノアール@西東京

フリーライター、田所洋介はその職業柄よくカフェで仕事をする。東京近郊のカフェチェーンや個人経営の喫茶店にいたるまで、ありとあらゆるカフェを利用してきた田所だが、ルノアールに対してはカフェの総本山的な趣を感じている。カフェというのは色々な場所としての役割を包括する場所だ。例えば、スターバックスの利用用途をいくつかあげてみると、こんな感じになる。

・放課後の女子高生が、フラペチーノというスイーツと友達とのおしゃべりを楽しむ場所。
・勉強中の若者が、勉強スペースとして使う場所。
・商談終わりのサラリーマンたちが、会社に戻るついでに立ち寄り、上司についての愚痴を言い合う場所。

このように、ひとえにカフェと言っても、そこを訪れる人々の思惑によってさまざまな場所へと変わるのだ。そんな多面性を持つカフェの中でも、最も多くの表情を持つカフェが、ここルノアールなのだ。

ルノアールについては、もはやカフェとしての定義を超えているかもしれない。田所は、かつてテーブル上に編集機材を並べて映像編集をする若者をルノアールで見たことがあるし、足を延ばして仮眠を超えた睡眠を取っている謎の男を見たこともある。通常のカフェであれば、追い出されるかもしれない客層を、深すぎる懐で包み込む、それがルノアールなのだ。

その昔、俳優の星野源がテレビ東京で放映していたドラマ「去年ルノアールで」に主演していた。毎週豪華ゲストを迎えながら、ルノアールを舞台に”ルノアールでありそうでない”あるいは”なさそうである”シチュエーションを描いたシュールなコメディドラマだ。そのドラマは、いつもこんなナレーションではじまる。

それは、カフェと呼ぶには垢抜けなく、喫茶店と呼ぶには多目的すぎる店。 ルノアール。

そんなナレーションとともに、映し出されるのはルノアール店内にてコーヒーを使って習字をする老人である。普通であれば「真似る人がいるから止めてくれ」と、ルノアールからのクレームがつきそうなものだが、それを許容した上でさらに店内をロケスペースとして快く差し出す、それが会社としてのルノアールの懐の広さを表している。

田所は、ブレンドを一口飲んだ。ルノアールのコーヒーは濃いめだ。少し煮詰めたような味がする。大きめの店舗だと、客の目のつくところに水出しアイスコーヒーの抽出機が、まるで古代の理科の実験道具のように鎮座している。田所はその機材を目の端にとらえながら、やはり水出しアイスコーヒーにすべきだったかと思いながら目を閉じた。

ルノアールへの逡巡。田所が今更ながらルノアールへ思いをめぐらせていたのには、わけがある。まさに今、田所の横で、ルノアールのルノアールにおけるルノアールアイデンティティ的な会話が交わされていたからである。

「そんなこといわれて、わたし、お金ないよ。月曜までー。」
東南アジア風の女性が不器用な日本で言う。ジャングルに咲く熱帯花のようなワンピースを着て、大き目の金のリングピアスをつけている。
「あんたねえ、それは通らないよ。それはね、通らないね、絶対。前々から、月曜にお金振込みなさいよって言ってるだけでしょ、私。」
女性の対面には、おばさんのような小さいおじさんが座っている。髪の毛をポマードでなでつけ、薄い淵のメガネをかけている。彼の高音の声は、どことなく秋の入り口にかぼそく鳴く虫を思い起こさせた。

「だからさー、月曜まで、わたし、お金、ない。何回も言っているよー。」
「あんたねえ、だからさ、さっきから言ってるでしょうが。月曜にお金もらえるんでしょ?そしたら、あなた銀行行って振り込めばいいでしょうが。」
「ちがうよー、月曜、わたし、お金もらう。でも、銀行行けない。振り込めない。」
「なんで振り込めないのよ。おかしいでしょ。月曜に返しますって言ったじゃないの、あなたが。」
「月曜、わたし、お金もらう。でも銀行行けないでしょ。」
「行けなくないでしょうよ。普通にATMでも振り込めるんだから、お金もらったらすぐ振り込めば良いでしょうよ。」
「行けないって、さっきからわたし、言ってるよ。お金もらう、月曜振り込めない。」
「あんたねえ、そしたら火曜日振り込めるでしょ。じゃあ、月曜じゃなくて火曜でいいから、振り込んでよ。」
「火曜もわたし、振り込めない。」
「なんでよ、なんであんた火曜も振り込めないのよ。」
「火曜は、先生のところ行かないと行けない。」
「知らないよ、そんなの。あんたねえ、約束って分かる?日本語分かる?やくそく!」
「知ってるよ、やくそく、知ってるよ。」
「あんたね、わたしにお金借りた。それ、返すって約束したでしょ、ね?約束。約束っていうのは、守るっていうことだから。ちゃんとお金返すっていうことだからね。」
「わかってるよ、やくそく、知ってるよ。でも振り込めないって言ってる、さっきからわたし。」

田所は目をつむったまま、口に含んだコーヒーをのどの奥へと送り込んだ。のどを通過する黒い液体の感触を感じながら、田所の隣で繰り広げられるやり取りを、音楽を聴くように味わっていた。田所は、こう思う。

この手のやり取りは、ルノアールという小宇宙の中で3分に1回は繰り広げられている。

田所は手をあげて店員を呼んだ。ガラナをオーダーする。ガラナー、ブラジル原産の炭酸清涼飲料だ。コーラのように黒い見た目とは裏腹に、すっきりとした南米原産の味わいは、まるでラップのように聞こえてくる、このヴァイブスによく合う。

「だから、あんた言ったYONE!わたしに、返すと言ったYONE!」

「わたしも、あんたに言っている。返すMONEYはNOMONEY」

「HEY YO!聴きな、俺のリリック。返すMONEYはNOMONEY、お前のワックなそのセリフ、チップをもらっても聞きたくねえ」

「HEY YOU!聴きなオーディエンス。MONEYはいつもNOMONEY。これが、わたしの真実さ。あんたの陰湿なそのディスり、チンケなあんたにゃよく似合う。も一度聴きなマイメン、何度も言ってるNOMONEY」

「NOMONEY!」

「SAY NOMONEY!」

「NOMONEY!」

「SAY HOT!」

「SAY HOT!」

「SAY HOT!HOT!HOT!」

「HOT!HOT!HOT!」

田所は目をあけた。ガラナの瓶は空になり、氷は溶けきっている。頭がすっきりせず、数秒の空白の後、ちらりと隣を見ると東南アジアの女性と小さいおっさんの姿は消えていた。夢ー、を見ていたのだろうか。田所の脳裏にそんな疑問が浮かんだが、頭を振って否定した。ここはルノアール、現実と幻想が交錯する都会の魔のポケットなのだ。

「すみませんー、ガラナのお替りを。」

田所は店員を呼び止めた。その店員が本物であることを願いながら。

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