ベローチェ@新橋

ベローチェのピーナツサンドが存外に旨いことは、あまり知られていない事実だ。田所洋介は、ベローチェのコーヒーを一口飲んでから、ピーナツサンドを丁寧に咀嚼した。ベローチェ―のコーヒーは、絵の具の黒を溶かしたような味がする。しかし、午後のけだるい時間には、その薄っぺらいコーヒーがマッチする。

田所洋介はフリーライターだ。都内のあらゆるカフェを仕事場にしている。今日は、次の打ち合わせまでの隙間時間を使って、ベローチェで遅めの昼食と取っていた。いつもは朝食に食べることの多いピーナツサンドを、昼食に食べるのは変な気がした。
ベローチェのサンドイッチは、なんといってもパンが優秀だ。ほどよく柔らかく、ちゃんと水分を保っている。カフェチェーンのサンドイッチは皆一様に思われているが、実はチェーンごとにクオリティに差がある。某チェーンのサンドイッチは、いったいいつサンドイッチを包装したのかと疑問を抱きたくなるほど乾燥している。その点、ベローチェのサンドイッチは、噛めばしっかりとパンの弾力を感じる。そして、そのパンをかみ切ったあとに、プツプツと心地よいピーナツの歯触りが感じられるのだ。

「それにしてもさ、さっきの会議でさ、恩田さん、立つ瀬ないよね。」

田所は声のする方向へ顔を向けた。ベローチェの狭い机を2つくっつけ、4人のサラリーマンたちが卓を囲んでいる。年のころは40代中ごろといったところだろうか。1人だけ20代と思われる若い男もいる。

「そうそう恩田さん、立つ瀬ないよねー、あれはねー、三好専務もさ、いじわるだよねー。」

サラリーマンは、ニヤニヤと口のはしを持ち上げて笑う。

「もうさ、あんなんじゃ公開処刑だったよな!完全にメンツ丸つぶれでしょ。」

サラリーマンは、やはりニヤニヤと笑いながら同意する。

「だってさ、親会社はいらない、うちにも戻れないって言ったらさ、どうするのよ。あの人」

サラリーマンは、そうだそうだと頷きながら腕を組む。

「恩田さんどうするんだろうね、結局うちにいるままなの?一応ね、役員までやってた人だもんね。待遇やばいよね。」

サラリーマンは、頭をポリポリとかきながら、隣のサラリーマンにそう投げかける。

「いやー、やばいでしょ。とりあえず、経営企画室付きとか、また分けわからない役職がつくんじゃないの。ほら、前にいたじゃん。」

会話を投げかけられたサラリーマンは、しなやかに会話をキャッチし、そして投げ返す。

サラリーマンたちの会話のキャッチボールはとてもなめらかだ。ここは日曜昼下がりの草原だろうか。サラリーマンたちは、スーツという名のユニフォームに身を包む。そして、会社の政治事情というボールを楽しそうに投げ合う。そのスローイングはとてもなめらかだ。背後には、午後の柔らかい光が射している。いつの間にかボールはあさっての方向に飛んでいく。恩田さんという名のボールが消えたら、今度は経営本部部長付きの三谷さんというボールが登場する。そうやって、次から次へと社内政治という名のボールを懐から取り出しては、極めてなめらかにスローイングしていく。サラリーマンたちによるサラリーマンのための草野球が、ここ、ベローチェで行われていた。

ふとキャップを外して、汗をぬぐう。ひとりのサラリーマンは気づく。先ほどから、この草野球に参加していない存在がいることに。
「中橋、お前もな、今は5年目だっけ。まだな、5年目だったら分からんかもしれんが、そのうち色々とうちの会社のことが分かってくるからな。」

サラリーマンは中橋と呼んだ20代の若い男性に向かって、会社という名の球をスローイングする。

「はい、色々と、あるんですね。」

中橋と呼ばれた若い男は、その球をキャッチしそこねる。

「おい、中橋、色々とじゃねえだろう。お前、若いっていっても5年目だからな。もっとこう、うちの色々をつかんでおかないとだめだよ」

中橋は別のサラリーマンから球の追撃を受ける。

「そうだよお前、5年目だからな。うかうかしてると、そろそろ同期に役職付くタイミングだからな。ぼやぼやしてるんじゃないよ。」

「そうだよ、お前の同期のやつ、出向してるやついるだろ。あいつ、戻ってきたら主査待遇だからな。ほんとに、ぼやぼやしてらんないよ。」

バッターマシンから、次々と剛速球が吐き出され、中橋の体を殴打した。いつの間にか、午後のなごやかな草野球は、放課後の野球部のしごきへと変貌していた。

「は、はい。頑張って勉強します。」

中橋と呼ばれたサラリーマンは、そう球を打ち返した。どうやら、まだユニフォームを脱ぐ気はないらしい。

「まあな、俺らの頃はさ、もっと先輩たちの言い方、きつかったからな。」

そう言ってまたサラリーマンは、自分たちの昔話というボールを取り出した。他のサラリーマンたちも、その球はいたくお気に入りらしく、うんうんとうなずきながら、ボールがこちらに投げ返されるのを待つ。

田所は、ふと我にかえった。手には一口かじったピーナツサンドを持ったままだ。いやいや、といった形で左右に首を振る。サラリーマンたちのテーブルに置かれたコーヒーを見る。もうすでにコーヒーを飲み干して、かなりの時間が経っていることだろう。

田所は思う。自分がフリーライターになって、平日のカフェに出没するようになって分かった事のひとつに、いかにサラリーマンたちがサボっているかということがあった。どう見ても1時間以上、時には2時間にもわたり、喫茶店に居座り続けるサラリーマンや、サラリーマンのグループが目立つ。

彼らは、社内政治と自らの青春時代という球を使ったキャッチボールに興じているうちに、ついつい時間を忘れてしまうのだ。そして、そのキャッチボールに入れない若手を、容赦なくバッターマシンから発せられる剛速球でしごく。

この世には電力などのエネルギーが不足してるというが、

田所はピーナツサンドをかじる。

このサラリーマンの余剰時間をエネルギー化出来たら、エネルギー不足はだいぶ緩和されるのではないだろうか。

田所はピーナツサンドをさらにかじる。

いやいや、そんなことは、くだらない妄想だ。今はこのピーナツサンドを食べることに集中しよう。

田所はピーナツサンドの最後の一口を、口に放りこんだ。

まだ、草野球は続いているらしい。田所はそれを視界にとらえながら、静かに席を立ち、店先の自動ドアへと向かった。

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