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【山陽バスむかしさんぽ】(2)須磨一の谷

須磨一の谷バス停で神戸市バス81系統の新長田駅行きが発車を待っていました。
ここは須磨の市街地の西外れ、平安時代におこなわれた源平合戦の「一の谷の戦い」の地です。ここから西、塩屋にかけては六甲山地が大阪湾に落ち込む険しい地形の須磨浦の海岸が続きます。

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戦前にこの地には宇治川電気系列の神明自動車というバス事業者が国道2号線経由の乗合バスを運行していました。神戸と明石に跨って広大な路線網をもっていた神明自動車ですが、須磨以東の路線を神戸市交通局へ譲渡し、須磨以西については1943年2月、宇治川電気の電鉄部が独立した山陽電気鉄道へ譲渡して、同年に会社は解散しました。神明自動車の須磨以西の路線を引き継いだ山陽電気鉄道は、先だって1936年に譲受していた垂水駅前~神戸高商前に加えて、須磨駅前〜明石駅前を山陽電鉄バスの「国道線」として運行しました。

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この路線は戦時中、戦況の悪化に伴なって一時休止しますが、戦後の1947年に運行を再開します。山陽バス【公式】Twitterアカウントで紹介された運行当時の路線図を見ると「一の谷」「敦盛塚」「境浜」「東塩屋」と、本線が国道上の併用軌道から専用軌道「西須磨線」に切り替えられた際に廃止された駅と同じ名前の停留所名が記されています。国道線はこうした地域で鉄道の代替をする役目も担っていたのかもしれません。

須磨一の谷から西に向かったところにある山陽電気鉄道本線の須磨浦公園駅。ここには1957年9月の須磨浦ロープウェイの開業と駅移設に合わせてロータリーが整備されて、国道線の山陽電鉄バスが乗り入れていました。乗り入れ開始後の路線図と運賃表も山陽バス【公式】Twitterアカウントで紹介されています。

しかし、その歴史ある国道線も1969年に休止され、そのまま1972年に廃止されました。阪神淡路大震災で山陽電気鉄道本線が不通になった際にここへ代行輸送のバス車両が乗り入れたことはありましたが、今は須磨一の谷から明石まで、国道2号線を走る乗合バスは設定されていません。

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廃線跡調査が一つのジャンルとして成立している鉄道趣味に対して、バス路線は休廃止されればそこはただの道路になってしまいます。そのせいか、「廃バス跡」の調査はバス趣味の世界でもかなりマイナーな分野なのが現状です。しかし、「廃バス跡」の調査からは忘れられ、失われてしまったちょっと昔の町の姿が見えてきます。この「山陽バスむかしさんぽ」シリーズでは、今の神戸や明石を歩きながら、かつて走っていた山陽バスと昔の町の面影を辿っていきたいと思います。

参考文献山陽電気鉄道株式会社『山陽電気鉄道百年史』(2007年)山陽電気鉄道株式会社『山陽電気鉄道六十五年史』(1972年)

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