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【小説】のけものけもの(7)

雪華は、身を隠してしまった椎菜の後を追うも、寸でのところでその手は届かなかった。果たして二人は親子に戻ることができるのか。

上記の話から続く親に捨てられた少女雪華と鎌鼬の椎菜のでこぼこ親子話。
これで終わります。ここまでお付き合いくださりありがとうございました。

「やっぱり何のつながりもない赤の他人の子どもを育てるなんて無理なのよ。悪いことに利用される前に離れてくれてよかったじゃない」

 藤子は妹の件もあるせいか、はじめから椎菜のことを良く思っていなかったらしい。
 放心状態で、到底学校に行ける状態でなかった雪華の代わりに学校に連絡してくれ、かいがいしく世話を焼いてくれたことには感謝している。
 だが背を撫でながら、椎菜への毒を流しこむのは勘弁してほしかった。
 スマートフォンには二桁に達するほどの通知がきていた。全て体調不良で休んでいることになっている雪華を心配するものだ。
 梢に淡い桃色の花がついたアイコンが目にとまる。唯一あらかた事情を把握している京花からのものだ。通知の数も一番多かった。

『大丈夫? 椎菜さんと仲直りできた?』

 彼女らしい端的ながら温かみを感じるメッセージ。それを読み終わったときには雪華は立ち上がっていた。

「どうしたの?」
「……がっこういく」
「今から? もうすぐ授業始まるわよ」

 雪華は無言で首を振って鞄を持つと歩きだした。
 藤子が腕をつかむ。雪華はそれを振り払った。何か大きな音が聞こえる。それが藤子の声と理解するまで暫し時間がかかった。

「藤子さんもそろそろ出勤の時間でしょ。私に構わず行ったらどうですか」

 藤子が後ずさった。その目に映る女は能面のような無表情でこちらを見ている。
 雪華は再び歩きだした。
 大きな音がする。だが扉を閉じてしまえば、その音も聞こえなくなった。


「やあ雪華ちゃん。今わの際になって手を切るとは、君もなかなかいい性格してるね」

 雪華は緩慢な動きで振り返ると、店主が扉に背を預けて立っていた。その顔は相変わらず完璧な笑みが作られている。
 彷徨い歩くうちにいつの間にか喫茶店の前まで来ていたらしい。雪華が口を開く前にミケが先手を打った。

「椎菜はここには来てないよ」

 雪華は無表情のまま歩を進めようとした。が、左手が動かず、前のめりになった上体は後ろに引っ張られる。

「まあちょっと寄ってきな。ココア一杯くらい奢ってあげるから」

 そこには胡散臭さすら覚える笑顔が咲いていた。


「なるほどね。なんか顔色が悪そうだと思っていたけど、やっぱり嫌なもの拾ってたんだ」
「わたし、ぜんぜん気づかなかった……」

 雪華は三毛猫柄のカップを握りしめた。手のひらに生ぬるい温かさがじんわりと広がっていく。

「そりゃそうだろ。獣が体調不良を悟られちゃ生きてけないからね。それに獣は独りで死ぬ生き物なんだよ」
「でも椎菜はっ」
「獣だよ。君と同じ人間じゃない。何のつながりもない赤の他人さ。そう突きつけたのは君じゃないか」

 ナイフを心臓にねじこまれたかのようだった。
 たしかに赤の他人と切り捨てたのは雪華自身だ。凍えた雪華の手を温め続けてくれた椎菜の手を、振り払ってしまったのは他ならぬ雪華だ。

「言っとくけど、椎菜から何か聞いたわけじゃないからね。君から椎菜が離れるとすれば、本当の親子じゃないだとか、そんなつまらないことで突き放さない限りありえないだろうと思っただけさ」

 事実なだけに雪華は俯くしかない。ミケは片肘をついて、少女を冷めた目で見下ろした。

「それでどうする? 諦める?」
「……やだ。ぜったいやだ!」

 雪華は立ち上がって叫んだ。
 これが今生の別れなど認めない。認められるわけがない。だって自分の唯一の家族なのだから。
 ミケはにんまりと目を細めて口角を上げた。

「じゃ、そんな死人みたいな顔して彷徨うのはやめなよ。君には他にやるべきことがあるだろう?」

 その通りだ。茫然自失している暇はない。
 モノクロの視界が一気に晴れた。

「そうだね、そうだよね。だからミケさん手伝って」
「おや、ヤタや大三郎じゃなくて僕に頼むのかい?」

 片眉を上げたミケに雪華は首を振った。

「違うよ。ミケさんにも手伝ってもらうの」
「僕を顎で使うなんてふてぶてしくなったね。誰に似たのやら」

 雪華は凝り固まった表情筋を上げた。

椎菜お母さんに決まっているでしょ。だってわたし椎菜の娘よ」

 ミケが目を丸くしたまま固まった。と、次の瞬間、笑い声が弾けた。
 聞きなれぬ、己のものより低い笑い声の出どころは一人しかいない。
 見ればミケが体をくの字にして大笑いしている。ミケは作りものの笑顔は浮かべても、素の感情を表に出すことは滅多にない。無論、腹を抱えて笑うなど初めてだ。

「なるほど、いいね。今日は臨時休業にしようか」

 目尻にたまった雫を拭い、ミケは言った。

「え、いいの」
「いいよ別に。どの道今日は休みにしようか迷ってたんだ。それより他には声かけないのかい?」
「じゃあミケさんはヤタさんと大三郎さん探してきてくれない? わたし、猿じいのところ行ってくるから!」

 こうしてはいられない。時間は有限なのだ。今にも駆けだそうとする雪華の腕を茶と白の尾が巻き取った。振り向けば、いつの間にかミケは本来の姿に戻っていた。

「まあちょっと待ちなよ。集合場所はどうする? 猿じいのところがいいかい?」
「ううん。ミケさんのお店のほうがいいと思う。ミケさんたち尾曾山まで行くの大変でしょ」

 ミケの口がぽかんと開いたまま固まった。

(あ、この顔も初めてみた)

 今日はミケの素をよく見る日だな、なんて呑気な感想を抱いていると、ミケが深々と息を吐いた。

「……本当に君って子は。はあ、わかったよ。ここ集合ね。鍵はあけておくから」
「ミケさんありがと! いってきます」

 陽の光が道を白く照らす。その先に月色の塊が見えた気がして、雪華は駆け出した。


「そうか、椎菜がなあ……。それは辛かったな」

 老天狗は大きな手で雪華の頭を撫でた。

「なんだ、椎菜の奴病なんぞに負けたのか。軟弱な奴よの」
「権次郎は黙ってて」

 何年経っても相変わらずこの小心者のカワウソの態度は変わらない。小魚を頬張る権次郎をひと睨みし、雪華は老天狗の裾を掴んだ。

「ねえ猿じい、椎菜の場所がぱっとわかるような便利な術もってない?」
「残念だがそのような術は会得してない。力になってやれずにすまぬな」
「そっか……ありがとう」

 正直あてが外れて残念な気持ちは拭えないが、ないものはないのだ。
 肩を落とす雪華を見かねてか、猿じいはおもむろに口を開いた。

「しかし弱った獣というものは慣れ親しんだ土地から離れぬものよ。案外近くにおるかもしれぬ。もう一度、心当たりのある場所を回ってみたらどうだ?」
「でも心当たりって言ったって……」

 思い当たる場所はここ周辺か、それこそ先日の廃寺くらいしか考えられない。職場にいることはないだろうし、椎菜が弟たちと暮らしてきた場所についてはさっぱりだ。

「少し時間が経てば同じ場所に戻ってくることもあるぞ」

 雪華の考えを読んだように猿じいが付け加えた。

「でももし弟たちと暮らしていた場所に帰っていたら……」
「それはなかろう。椎菜がかつて住んでいたところは少し距離がある。弱った体では途中で倒れるのが関の山だ」

 草木が生い茂る森の中で倒れ伏す椎菜の姿が脳裏に浮かぶ。悪い想像を追い払うように雪華はかぶりを振った。

「まったく情けない奴だ。儂ならたとえ病に侵され、明日の朝日が望めるかわからぬ身でも、故郷の水を浴びるまでは決して足を止めぬというのに」
「故郷も何も権次郎ここから出たことないじゃん。いっつもここにいるんだから、具合が悪くなってもすぐ近くの水瀬川に飛びこめば済む話でしょ。一緒にしないでよ」
「なんだと童!」

 歯をむき出しにして唸る権次郎に、負けじと雪華も唇を突き出す。尾が地面を叩く。雪華も足を踏み鳴らす。権次郎が何か言えば、雪華は倍以上言い返した。

「ともかく」

 猿じいが大きく咳払いした。二人は言い合いをぴたりと止めた。

「もし椎菜が見つかったらここまで連れておいで。霊気が満たすこの地なら、少しは具合がよくなるかもしれん。ミケのほうも集まったようだし、一度戻りなさい」
「わかった」

 猿じいはふっと微笑んだ。

「儂らのほうでも探してみよう。大丈夫、椎菜は雪華を泣かせたまま放っておくようなものではない」

 雪華はもう一度頷いた。ただし今度は顔を上げられなかった。ぼやけているので見ても見なくても変わらないと思ったからだ。

「ミケの店まで送ってあげよう。きっと見つかるはずだ」

 返事をする前に白い霧が視界を覆った。霧が晴れたときには、三毛の喫茶店の前に立っていた。


「ミケから聞いたよ。大変なことになったね」

 大三郎が気遣わし気に眉を下げた。その姿はいつもと異なり、タヌキのままだ。
 短い手をテーブルに置いて、時おり尻尾を揺らすその光景は、張り詰めていた雪華の心の糸を緩めた。
 雪華は猿じいと交わした会話をかいつまんで説明した。

「それでね、ミケさんや猿じいだけじゃなくってヤタさんや大三郎さんにも探すの手伝ってほしいの」
「もちろんだよ。私も仲間たちに声をかけておいたからね。なあに、心配しなくてもすぐ見つかるはずさ。仲間たちは森にも街にもたくさんいるんだからね」
「ありがとう大三郎さん! 頼りになる!」

 胸を張る大三郎に雪華は歓声を送った。

「捜索に夢中になりすぎて車にひかれないようにね。君たちどんくさいんだから」

 ミケは盛り上がる二人にちくりと釘を刺す。だがその目にとげはない。
 そのとき、ある声が和んだ空気を一変させた。

「……べつに無理に探さなくてもいいんじゃないのかい」
「ヤタさん!?」
「おい、ヤタ!」

 声の主は今まで沈黙を守ってきたヤタだった。その表情は見たこともないほど硬い。

「椎菜が離れたってことは自分の最期を悟ったってことだろう? 雪華もそろそろ独り立ちできる歳だし、椎菜はちゃんと親の役目を果たした。獣の最期はあんたらもよく知っているだろ。それに私らだって潮時だ」
「潮時? それってどういうこと?」

 ヤタは雪華と目を合わせずに、周りの妖怪たちをじっと見据えている。

「いつまでも雪華の周りに居座れないことくらいわかってんだろ。私らは人じゃない。いい加減、お互いあるべき場所に戻らなきゃならない。ちょうどいいじゃないか。もう世話してやらなきゃならない幼子でもないんだしさ」
「ちょっと待ってよ! なに、椎菜だけじゃなくてヤタさんたちとも別れなきゃいけないってこと!?」

 雪華はテーブルを叩いて立ち上がった。大三郎は気まずげに口をつぐみ、ミケはつまらなさそうな目をヤタに向けた。

「そんなに神経質にならなくたっていいだろうに。昔と違うんだから。それに雪華ちゃんはちゃんと世界に馴染んでる」
「猫やカラスとつるむのが普通ってんならね」

 ヤタは吐き捨てた。ミケの瞳に剣呑な光が浮かんだ。

「ヤタ、やりたくなきゃ降りなよ。僕らだけでも椎菜の捜索はできる。にしてもずいぶん非情だね。雪華ちゃんを引き取ろうって最初に口出ししたのは君だろう? それなのにある程度育ったら、ポイっと捨てて終わりかい。鳥ってものはもっと情のある生き物だと思っていたんだけどね。長い間生きてると情まで失うらしい」
「べつに私は何も最後まで雪華をみようって主張したわけじゃない。子離れは必要なことだ。それに雪華はようやく普通の道を歩き始めたんだ。私らがいつまでも纏わりついてちゃ足を引っ張る。引き際を見極められないなんて、あんたも堕ちたもんだねミケ」

 ヤタが羽を逆立ててくちばしを鳴らす。ミケも尻尾を膨らませて牙をむき出した。

「ああ、もう今日はとりあえず解散にしよう! 私とミケは椎菜の捜索。ヤタは雪華ちゃんを送ってきなよ」

 大三郎が大声を上げた。短い手を叩いても猿じいのような迫力はなかったが、彼の必死さに自ずと三人は従った。

 空は燃えるような赤だった。
 店を出てから会話はなかった。雪華は京花を始めとした面々に心配をかけた詫びと礼、明日は学校に行く旨を送信したが、それが済めばやることもない。
 ヤタの羽ばたきがする以外は無音だ。視線は相変わらず合わない。
 雪華はついに意を決して話しかけた。

「あの、ヤタさん」
「雪華は本当にいいのかい」

 被せるようにヤタが言った。やはり大粒の黒真珠は雪華を見ない。

「せっかく血のつながりのある女と家族になれる機会だろ。多分、山場を脱したとしても椎菜はもう人間にはなれないよ。ただのイタチだよ。老いたイタチ一匹持ち帰っても迷惑をかけるだけさ。椎菜だって望まない」

 ヤタの目に茜がきらめく。

「生き物の一番大事な使命はさ、次世代に繋げることなんだよ。子を育て、自分の存在を未来に託す。自分の親がやってきたみたいにね。そこから外れちまったものが、私らみたいな妖怪になるのさ。雪華、あんたのおかげで椎菜は元の環の中に戻れたんだよ。だからもう――」
「わたしはやだ」

 雪華は強い口調で遮った。初めてヤタと目が合った。

「それが普通の幸福だとしても、わたしはやだ。わたしは最期まで椎菜といたい。もし人間じゃ椎菜たちといられないっていうのなら、わたし妖怪になるよ」

 ヤタは目を大きく見開いたまま固まった。

「……あんた、それが何を意味するのかわかってるのかい?」

 雪華はヤタの目を真っ直ぐ見つめたまま頷いた。

「なり方は知らないけど。でもそれでみんなと一緒にいられるのなら、わたし、なるよ」

 ヤタは道端のブロック塀の上に腰をおろして、雪華をじっと見つめた。雪華も視線をそらさなかった。遠くでカラスの鳴き声がする。傍らの電柱の防犯灯が青白い光を灯した。
 ヤタがふいに苦笑を浮かべた。

「やめときな。雪華にはあんな醜い生き物なんて似合わないよ」

 そして突然声を張り上げた。

「あーあ! まったくしょうがない子だね。いいよ、カラスの本気みせてあげる。私らの情報網はすごいんだから。明日には見つけているよ」
「ヤタさん、情報通だもんね」

 雪華は再び歩きだしたが、ヤタは動かない。首をひねる雪華に、ヤタはちらりと道の先を指し示した。視線の先を辿って、雪華はああ、と納得した。
 あと一つ角を曲がれば駅に着く。駅は人通りが多いので、ついていくことはできても会話は無理だ。

「流石に無賃乗車はできないからね。心細いなら見送りするかい?」
「いいよ。そんな年じゃないから」

 雪華は手を振って、駆けだした。
 ただ電車が動き出してもしばらくは一羽のカラスが並走するように飛んでいた。


「雪華、大丈夫?」

 顔を見るなり駆け寄ってきた京花に雪華は微笑んだ。

「うん、心配かけてごめんね」
「ばか、いいよ」

 そう言って京花はぎゅっと手を握った。小刻みに震えるその手を見、昨日の藤子を思い出した。
 顔を見るなり抱きしめてきた彼女の声は濡れていた。震えながら心配と謝罪を繰り返す彼女の姿に罪悪感を覚えなかったかと言われれば嘘になる。
 多分、愛されてはいるのだと思う。少なくとも産みの母よりは。
 だが彼女を母と呼ぶ日はあるまい。なぜなら雪華の母は既にいる。

「それで、椎菜さんとはどうなったの?」

 休んでいた分のプリントを差し出しながら、京花はささやいた。

「体崩したみたいで、しばらくは親戚の家にいることになるかも」
「えっ、大丈夫?」

 声をひそめながらも、彼女の声は上ずっている。雪華は頷いた。

「大丈夫。でもまた溜まってきたら相談するかも」
「そんなのわざわざ頼まなくても聞くよ」

 ふと窓を見れば、空に鳥の影が映る。
 はっと立ち上がった雪華は、京花が呼び止める声も気にせず、窓から顔を出した。
 だがカラスはちらりと雪華を一瞥しただけで、あっという間に頭上を超えて今いる校舎の向こう側に消えてしまった。
――まさか、見間違えた?
 心臓は冷水を浴びせられたようにさっと冷え、対照的に頬に熱が集まった。

「どうしたの、急に窓から顔出して」

 京花が不安げに問いかけた。他の生徒たちもちらほらと視線を向けている。

「ごめん、なんか気になるものがあったから」

 下手くそな笑いを貼りつければ視線は散っていく。ただ京花だけは眉をひそめた。
 背後で何か硬いものがぶつかる音がした。振り返ると木の実らしき物体が飛び跳ねて窓枠の外に消えていく。
 当然校舎の上に木などあるはずがない。ではどこから?
 再び顔を出すと何かが降ってくる。咄嗟にキャッチすると、羽音と共に影が飛び去っていくのが見えた。

「なにそれ? 汚いけど、ガチャガチャのボール?」

 京花が覗きこむ。手の中にあったのはゲームセンターなどによくあるカプセルトイの球だった。プラスチックはひび割れ、長らく外に放置されていたのか酷く汚れている。

「そうみたい。空から降ってきたけど」
「じゃあカラスの悪戯かな。光る物とか持ちだすし。……これのどこに惹かれたかはわからないけど」

 予鈴が鳴る。はっと二人は顔を見合わせた。

「そろそろ授業だから席つこうか」

 教師の間延びした声とチョークが黒板を叩く音がする。
 周囲の目を盗み、雪華はカプセルに手をかけた。
 回すたびに隙間に詰まった砂利が音をたてる。どうか教師に気づかれませんように、と祈りながら慎重に開くと、一枚の紙が入っていた。
 そこには、

『ホウカゴ スグ キッサテン』

 と、だけ書かれていた。

 心臓がどっと跳ね上がる。やはり先ほどのカラスはヤタだったのだ。
 椎菜は見つかったのだろうか。それとも――
 教師には悪いが、もはや授業など一ミリも入ってこなかった。

 ホームルームが終わるや否や、雪華は飛び出した。部活は既に休む旨を伝えてある。元々体調不良で一週間休んだことになっていたのだから、あっさりと希望は受理された。
 見慣れた街を駆ける。駆ける。駆ける。
 ドアを叩きつける勢いで雪華はミケの店に飛びこんだ。

「派手なご登場だねえ。壊れたら全額請求しようかな」
「椎菜は!? 見つかった? 大丈夫!?」

 掴みかかる勢いで詰め寄る雪華を、胡散臭そうな笑顔でミケは宥めた。

「まあまあ落ち着きなよ。肺炎だってさ。でも薬で良くなるって。よかったね、厄介な病気じゃなくて。今は点滴中じゃないかな。まあちょっと長く続いていたし治療は長引くかもしれないけど」
「そっか。よかった……」

 どっと力が抜けて、雪華はそのままへたりこんだ。

「あんだけ啖呵切っておいて結局見つけたのは私じゃないか。まったく情けないね」
「あそこまで絞りこめたのは猿じいや私たちのおかげだろう。じゃなきゃもう少しかかっていたよ」
「でも見つけたのは私さ」

 大三郎の反論を一蹴し、ヤタは雪華に向き直った。

「それで、その後はどうするんだい?」
「しばらくは猿じいのところで体力回復してもらおうかなって。藤子さんにもお願いしてみて、無理ならわたしこっちの家に帰ろうかなって」
「働いてもいない癖に馬鹿なこと言うんじゃないよ。誰が家賃を払うのさ。椎菜はもう働けないし、君の新しい保護者だって二部屋分の家賃払い続けるのは負担が大きいだろうよ。さっさと荷物まとめてあそこを引き払うのが一番さ」
「それは、そうだけど……」

ミケの言葉に雪華は俯いた。

「それに、病院代のこともあるし。動物の治療費って知ってる? 保険きかないから万札は軽く飛んでくよ」

 雪華は顔を青ざめた。
 今あるお小遣い全てあわせても一万円にすら届かない。
 どうしよう、どうしようと出口のない問いがぐるぐる回る。

「お金なら私たちで何とか工面するしさ、雪華ちゃんは気負わなくていいからね」

 大三郎が慰めるが、雪華の顔は晴れない。

「ミケさん」
「なんだい」

 ミケの切れ長の瞳に、悲壮な顔つきの少女が映った。

「あの、お金は必ず返すので、治療費だけでも貸してくれませんか」

 深々と頭を下げる。
 ミケはにっこり笑った。

「いいよ、元よりそのつもりだったし」
「ちょっと雪華をいじめるんじゃないよ、この性悪猫!」
「私らも協力するから、それはやめにしないかい」
「あいにく僕は慈善事業をしているわけじゃないんだ。ま、雪華ちゃんなら踏み倒すなんて恩知らずな真似はしないだろうし。ねえ?」

 ミケの口元が弧を描く。ヤタや大三郎がぎゃあぎゃあ騒ぎたてるが、ミケは涼しげな顔で雪華に手を差し出した。

「さ、そろそろ治療も終わっていることだし、一緒に病院行くかい? 雪華ちゃん」

 雪華は考えるまでもなくその手をとった。

 病院はベージュの壁に暖色の照明があたって柔らかな印象を与えるが、どこか落ち着かない。恐らくそれは目の前でけたたましく吠えるチワワのせいだろう。あるいは先ほどからじーっと見つめたまま動かない黒猫のせいか。
 病院に入った瞬間から、ペットたちの目はミケに釘付けだった。恐らくミケの正体が自分たちと近しいものであることを見抜いているからだと思う。
 すみません、とチワワのリードを持ったまま謝る女性に、ミケは人好きのする笑みを返している。女性の目がとろんとしたのを認め、雪華はミケの横腹を小突いた。
 ミケのことは好きだが、目の前で哀れな被害者が生まれるのは避けたい。

「三毛さん、お入りください」

 幸か不幸か受付の人がミケの名を呼んだ。雪華は引っ張るようにミケを診察室に押しこんだ。
 部屋にいたのは眼鏡をかけた四十代くらいの男の人だった。
 そして診察台の上には椎菜がいた。ただし、その体は雪華の指先から腕ほどくらいの大きさだったが。
 声を上げそうになった雪華の口をミケが押さえた。訝しげに眉をひそめた獣医にミケが申し訳なさそうな顔を作った。

「すみません、この子が世話していたので、ちょっとショックを受けちゃったみたいで」
「ああ、なるほど。それはたしかに辛いですよね。でもちゃんと薬を飲めば症状は改善すると思いますので」

 椎菜の黒い瞳が信じられない、とでも言いたげに見開いた。だが先生がきちんと保定しているので、動くことはできない。ましてや話すなど。

「椎菜ちゃんについてですが、肺炎ですね。レントゲン写真を見てもらえばわかると思いますが、肺の部分が白いでしょう? 恐らく年をとって免疫力が下がったためにかかったのでしょう。ちょっと長い間咳をしていたのが気になるので、これからは定期的な検診をおすすめします」

 それからミケと先生が話を進め、あれよあれよという間に雪華たちは病院を後にしていた。チワワは最後まで吠えていた。

「ま、余命一年もつかとか言ってたけど、そもそも想定しているものが違うし、薬飲んで猿じいのところで過ごしたら、それなりにもつんじゃない?」

 ミケは軽やかに歩いていく。雪華はキャリーバッグを抱きしめながら、その後をついていった。

「ちょっと話が違うじゃないか。送り迎えはあんただけって言ってただろ」
「僕が送り迎えするとは言ったけど、雪華ちゃんを連れてこないとは言った覚えはないね」
「このクソ猫め」

 鼻に皺を寄せる椎菜にしれっとした顔でミケは答えた。

「椎菜はわたしが来ちゃだめなの?」

 椎菜は途端にばつが悪そうな顔でそっぽを向いた。

「そりゃああんな別れ方になったからねえ。気まずいっちゃ気まずいもんだろ。まあでもあんたの世話になるつもりはないから安心しな」
「……なんで」

 声が落ちた。ただしそれは嵐の前の静けさのように不穏な響きをはらんでいる。
 椎菜が顔を上げ、ミケも歩みを止めた。
 瞬間、雪華の目の中に炎が躍った。

「なんでそんなこと言うの!? わたしたち家族でしょ? それともなに? 椎菜にとっちゃその程度のつながりだったわけ?」
「あんたが赤の他人だって言ったんじゃないか」

 面食らった椎菜がぼそぼそと呟いた。
 雪華は口をつぐんだ。炎は灰の中に埋もれたかのように見えた。

「……そうだよ。たしかにわたしが言ったよ。椎菜とは赤の他人だって。ごめん。言っちゃいけないこと言った」

 雪華はバッグを持ち上げて、椎菜と目線を合わせた。その目に再び強い光を宿して。

「でも、わたしはもう一度椎菜と家族になりたい! 身勝手なことを言ってるのはわかってる! でもわたしは椎菜じゃなきゃ嫌だから!それとも椎菜はもうわたしのことどうでもいい?」

 椎菜の喉からくぐもった音が漏れた。しばらくもごもごと口を動かしていたが、結局何も言わずに目を伏せてしまった。
 キャリーバッグごと抱えるのではなくて、そのまま抱き上げて帰ればよかった。
 バッグだと椎菜の温度が感じられない。自分たちを隔てる布一枚が今は邪魔で邪魔で仕方がなかった。

「けど私は人間になる力は残ってないし、一緒に暮らすっていったって、あんたの伯母もいきなりイタチ連れてこられちゃ困るだろう」
「姿なんてどうでもいいよ。もし一緒に暮らすのが無理だっていうのなら、わたし、毎週末猿じいのところ通うもん」

 椎菜は雪華をじっと見つめていたが、やがて大きなため息を落とした。

「……まったく親離れもろくにできないのかいあんたは」
「そうだよ。わたし、まだ親離れぜんぜんできない子どもだもん」

 キャリーバッグを抱きしめたまま、雪華は幼子のように声を上げて泣いた。だが二人はそんな雪華を泣き止ませようとはしなかった。


 一定のリズムを刻み、電車が走る。
 車内は閑散としていて午後の光が柔らかく照らしていた。遠くに見える山々はまだ雪の冠をかぶっているが、平地では長い冬を乗り超えた若芽が頭を出している。
 スーツ姿の女はキャリーバッグを膝に乗せ、ぼんやりと流れる景色を眺めていた。

「独り立ちしたってのに、まだ親離れできないのかい」
「いいじゃない。今どき母娘おやこ二人暮らしなんて珍しくないもの。あと新しい家の近く腕のいい獣医さんいるらしいよ。フェレットもみてくれるって」

 鼻先が網の隙間から覗く。つつくと引っこんで、軽く指先をはたかれた。ごめんごめんと謝り、雪華は手を膝の上に戻す。

「流石に医者の目は誤魔化せないんじゃないのかい。そのふぇれっととやらとイタチは違うだろ」
「ええ? 前の先生は大きめのフェレットだって言ったら信じてくれたし、フェレットってイタチの仲間だからばれないよ」
「本当かねえ」

 母の声は呆れていた。

「まあなんとかなるでしょ」
「その適当さ、誰に似たのやら」
「母さんに決まってるじゃない」

 電車は走る。母娘を乗せて、春の道をただ走っていく。


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