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【短編小説】灰色の晴天 裏

前作「灰色の晴天 表」とつながっています。
どんなことをしても彼を救いたかった青年の話。

 青年は雨の残り香が漂う街中を歩いていた。ふいに青年は道の内側に寄る。次の瞬間、盛大な音を立てて泥水がはね上がった。運悪く被害にあった者達が通り過ぎた車に悪態を吐く。

 お気の毒に。しかしそれを気に留める時間などない。青年は早足で人混みの中を縫う。そしてあるビルのところで足を止めた。そこから続く裏路地に入る。ゴミが散乱し、下卑た落書きが書かれている薄汚い小道へと。
 青年は角を一つ曲がり、隅にかけられた染みだらけの布をはぎ取る。そこには警戒色で彩られた板が鎮座していた。

「さてと、これでよし」

 青年は引きずって小道の入り口の中央にどんと置く。
 これで彼がこの道を通ることはないだろう。看板を無視して無理矢理通るような人ではないから。

「仕事の変更はさせた。運搬の邪魔をしたからビルの頂上で鉄骨を運ぶこともない。この道も通らない。よし、後やるべき事はただ一つだな」

 指折り数えて確認する。もう失敗は許されない。これで終わりにしなければならないのだ。あまり緊急性のない仕事をわざと緊急性があるように依頼人を脅し……ではなく説得して彼の会社をせっつかせたので急いで来た彼は肩透かしをくらう羽目になるだろうが、赦してもらいたい。
 これで最後になるはず。否、最後にするのだから。

 青年は足早にとあるビルに向かった。大きく『工事中!』と書かれたビルを見上げる。上には何も載せていないクレーンが物寂しげに佇んでいるだけだった。青年はほっと息をつく。

 青年はそのビル近くのコーヒーチェーン店に入った。一番安いブラックコーヒーを頼んで窓側の席を陣取る。店に置いてあった適当な雑誌を広げながら、時折窓の外を眺めた。薄くて安っぽい香りを漂わせる液体を飲みながらじっと待つ。

 大丈夫。絶対に彼は通る。今回は何も間違えていない。きっと“前回”と同じくここを通る。

 流れていく時間が泥の中を進んでいくような歩みに変わった気がした。時計の針を見ればまだ十分ほどしか経っていない。青年の中ではもう丸一日経ってしまったような感覚だと言うのに。

 窓の外をもう一度眺めたそのとき、探し求めていた銀髪が目に入る。彼だ。間違いない。青年は一気に残りの液体を飲み干すと慌てて彼の後を追った。

 カランコロン。

 軽やかな音が店内に響く。こぢんまりとした空間には白髪まじりの店主と彼しかいなかった。

 嗚呼、彼はまだここにいる。それを知覚した途端、思わず涙ぐんでしまいそうになった。“今回”会うのは初めてだからここで泣き出したら完全におかしい奴だが、こればかりはしょうがない事だと思う。

 相席を請えば予想通り訝しまれた。当たり前だろう。誰だって知らない奴が、しかも他の席も空いているというのに自分の前に座ろうとすれば警戒する。本来ならば適当な席に座るべきだ。しかし青年はそれができなかった。

「あっ、すみません。コーヒーとティラミス一つもらえますか」

 無理矢理彼の了承を得ると注文をする。いつものように慣れ親しんだメニューを。

「構わないが、なぜ君は新しく開発したデザートの名前を知っているんだね? 私の記憶の限りでは君がここにきたのは初めてだし、誰にも言っていなかったはずなんだがねえ」

 しまった。まだティラミスはメニューにも載っていなかった。すっかり失念していた。

 青年は曖昧に誤魔化す。ますます彼の瞳に不審の色が増したが、致し方無い。これは完全に自業自得だ。
 気まずい沈黙が落ちる。

 彼の顔をまじまじと見ると今度こそ席を立たれそうなので青年は周りを見渡した。どこもかしこも見慣れたものばかりだ。
 年季の入った蓄音機も丹念に磨かれた手挽きミルやドリップポットも、暖かみのある木目調のカウンターも何もかも。全部彼が連れて来てくれなかったら知りもしなかっただろう。

『お前こんなところで何をやっている?』

 何もかも無くして路地に座り込んでいた孤児に差し伸べられた手。あの温度を忘れたことなどない。彼のおかげで暗く湿った道から陽だまりの世界へ行くことができたのだ。

 ことん。カップが机の上に置かれる音で青年は思い出に耽るのを中断した。すましたベテラン女優のような洋菓子を見つめる。何度も食べた洒落た菓子。何度も彼が気に入るだろうと夢想した、甘さの中にほろ苦さを含んだ大人の菓子。青年は男の前に皿を押しやった。

「これ、差し上げます」

「どういうことだ? お前が頼んだものだろう」

 青年は緩やかに口角を上げた。元々彼に食べて欲しくて頼んだものだ。

「今日、俺とても良い事があったんです。だから貴方にもお裾分けしようと思って。きっと貴方が好きな味ですよ、これ」

 そう。今日はとても良い日だ。最後に彼に会えた。こうして話すことができた。彼にこの洋菓子を渡すことができた。

 ちらりと壁掛け時計に目をやれば、もう別れの時間だ。これから最後の大仕事をやらなければならない。

 一気にコーヒーを飲み干すと青年は立ち上がった。深みのある独特な香りが鼻を通り抜けていく。

「それでは、お元気で」

 ありがとう。そしてさようなら、俺の恩人。脳裏に彼の姿を焼き付けた。

 扉を開けると湿った空気が纏わりつく。青年は早足で駆けた。この先の路地裏でもうすぐならず者達の争いが起こる。
 そしてその凶弾が当たって彼は――

 青年の脳裏にある光景が浮かぶ。色のぬけ落ちた世界に赤だけが、彼の赤だけが地面を鮮やかに彩っていたあの光景。

 やめよう。今回はあの洋菓子を食べている分、前のように鉢合わせすることはないはずだ。前はあの店まで辿り着いたことに安心して外から見守るだけにしたのがいけなかった。
 また以前と同じ失態は犯さない。それに正解は既に分かっている。辿り着くまでに随分時間がかかって何度も何度も失敗を繰り返してしまったが、もう誤らない。

 青年は懐から鈍く光る金属の塊を取り出した。

 大丈夫。もう仕事先に行く途中で車に突っ込まれることも、路地裏で狂人に刺されることも、鉄骨の下敷きになることも、その他数え切れない不幸たちが訪れることもない。
 少しばかりついていなくて、みょうちきりんな男に絡まれただけの一日。時が経てばどこにでもある日常の一つとして記憶の海に沈んでいくだろう。

 青年はそれでも良かった。例え以前のような関係を築けなかったとしても。例え彼にとって自分が赤の他人となったとしても。

 ただ終わりのない悪夢に終止符を打ち、彼に明日を届けたかった。そして彼の明日が来た時、ようやく自分の明けない夜にも幕を下ろせるのだ。

「嗚呼、今日は本当に良い日だ」

 青年はふわりと微笑む。それは晴れわたった青空のような、そんな笑みだった。

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