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【短編小説】彼岸の邂逅

どんな場所でも出会いは一瞬、別れは永し。
一人の男と舟守のほんのわずかな邂逅。

 ごとん

 何かがぶつかる音がして、男は目を覚ました。辺りは深い霧が立ち込め、時折思い出したかのように静かな水音が空気を揺らす。水は透明感があるのに黒く、石の隙間に生えた苔が揺蕩う姿はほんの浅瀬しか見ることができない。濃霧のため目をこらしても対岸はおろか、数歩先の光景すら白いベールに包まれたままだ。一歩踏み出すと小石がぶつかる音が響き、丸みを帯びた砂利が足裏にその存在を知らしめる。人の気配は一切なかった。

「ここは……」

 それにしても見慣れない景色だ。それでいてどこか懐かしさを感じさせる。記憶を手繰り寄せようとすれば頭に鈍い痛みが走った。

「気がついた?」

 突然話しかけられ男は飛び上がった。振り向くと、先ほどまでは誰もいなかったはずの場所にくたびれた灰色のローブをまとった人物が立っていた。風もないのに千切れかけた端が揺れる。フードを深くかぶっているため顔はよく見えず、性別も分からない。声を聞くかぎり男だろうか。

「一体ここはどこなんだ?」
「あれ? 覚えていないの?……まあいいや。時間が押しているからそれに乗ってよ。話はそこから」

 彼が指差した方には一艘の舟があった。時代劇に出てくる猪牙舟のような人が数人乗れる程度の小ぶりな木製の舟。どうやら先ほどの音はこれと川底がこすれた音だったらしい。

「いやなんで舟?」

 彼はそれには答えなかった。微動だにせずただ一点を指し続けている。無言の圧だけはひしひしと発しながら。

「はあ、わかったよ」

 仕方なしに男は舟に乗りこんだ。腰を下ろした次の瞬間、舟が左右に傾く。理由は単純。ローブの彼が後ろに続いたからだ。音もなく後端に立った彼のその手には細長い櫂が握られている。いつの間に取り出しのだろうか。先ほどまでは手ぶらだったというのに。

「それじゃあ出発しんこーう」

 間の抜けた声と共に舟は滑り出す。
 正体不明の男に促されるまま舟に乗り込むって一体どういう状況だ。そもそもこいつは操り方知ってんのか。転覆なんてしたらたまったものではない。男の胸中に生まれた不安などいざ知らず、彼は櫂を操っていた。予想に反してその手つきは実に手慣れており、舟は滑らかに進む。大きな揺れもなく、心地よい振動しか伝えないのは、彼の腕前か。それとも川の機嫌がよいだけか。男は黙ってただ前を見つめた。
 ごとん、ごとん。櫂が灰色の水に沈んではまた浮かび上がる。川幅は随分あるようで、まだ対岸の影すら見えない。この間、彼はあの間延びした掛け声以降一言も喋らなかった。

ごとん、ちゃぷり。ごとん、ちゃぷり。

 場を満たすのは櫂が水面を叩く音、そして波の音。それだけだ。妙な静寂は胸が痒くなるような落ち着かない気分にさせられる。男の口が無意識に開いたそのときだった。

「ところで君は今までどんなことをしてきたんだい? なんでもいいから話してよ」
「なんでもいいのか?」

先手を打ったのは彼のほうからだった。もちろん彼が作ったこの機会を無下にする気はない。男は身を乗り出して問う。彼は頷いた。

「そう。なんでも。子供の頃何したとか、初めてできた彼女とか。あっ、恥ずかしい失敗談とかも大歓迎」

わずかに見える口元が弧を描く。

「何で見ず知らずの奴に自分の失敗談とか話すんだよ」
「人の失敗ほどおもしろいものはないってよく言うじゃない」
「じゃあお前が話せよ」
「残念ながら僕は話のネタになるような大したものもっていないんだよ」

 肩をすくめた彼にため息をつく。どこから話せばいいかと尋ねればじゃあ覚えている限り小さな頃から話してくれと請われた。 

「俺がガキの頃の話だって? そうだな――」

そうして男はぽつりぽつりと話し始めた。初対面だというのに自然と言葉が流れ出る。山での虫取りや秘密基地、中学や高校でやったバカなこと、職場のアクシデントや妻との出会い、子育て時代のあれやこれ、子どもの結婚式、老後の生活。そして唐突に記憶が弾けた。

「まてよ、俺はたしか……」
「思い出した?」
「ああ。俺は死んだんだな」

 そう男は確かに死んだはずだった。徐々に意識が遠のく感覚まで鮮明によみがえる。

「じゃあここは……」
「三途の川だね。僕はここで舟守をやっている者さ」

不思議と悲壮感はわかなかった。胸に落ちてきたのは穏やかな納得だけだった。自分の死の間際を思い出したせいなのかもしれない。ただ、ああそうかという月並みな感想以外は何も浮かびはしなかった。

「そうか。あんたは長くここで働いているのか?」
「そうだねぇ随分長いよ。君が生きた年月の十倍以上もここにいるからね」

彼は遠くを見つめながらそう答えた。フードで隠された顔に寂しさがよぎったように見えて男は思わず手を伸ばす。彼はふっと笑みをこぼした。

「そんなに心配しなくて大丈夫だよ。君たちが来るおかげでまあまあ楽しいものだから」
「そうなのか?」
「そうだよ。君たちは千差万別の人生を歩んでいるからね。聞いているだけでもとてもおもしろい」

くすくすと彼は笑った。その声音には嘘は含まれていない。

「それにしても俺も長生きしたもんだと思ったんだが、その十倍以上とはすごいな。見たところあんた以外の舟守も見かけないし、何かの罰でこれをやっているのか?」
「いいや。暇だからやっているんだよ。ここで君たちを向こうに送るときに君たちの人生を聞くことが僕の唯一の趣味でね。この何もないところでは有り余る時間は拷問に等しいんだよ。あっ、そろそろ対岸が見えてきたね」

彼の血色のない指先がすっと前を向く。その先には――
赤、赤、赤、赤
まるで血のように鮮やかな赤が出迎えている。ぼやけた視界の中で、それは壮絶な美しさだった。幻想的とも妖しげともよべるうっすら光り輝く真紅が点々と浮かび上がる様は、一瞬男から声を奪った。

「あ、あれは一体……」
「ああ、あれは彼岸花だよ。綺麗でしょ?」

彼岸花? こんな時期に?
怪訝に思っているのが顔に出ていたのだろうか。男を見て彼は笑いながら言った。

「時期外れなのに何で咲いているんだって思った? あそこでは年がら年中咲いているんだ。現世の彼岸花より赤が濃いのが特徴なんだよ。ただここのは赤しかないから白や黄色はお目にかかれないけどね」

 そうこうしているうちにどんどん対岸の輪郭がはっきりしてくる。岸を彩るのは彼が言ったように、確かに無数の彼岸花たちだった。土も草もくすんだ灰色で染められている中、その赤はいっそ毒々しいほどよく映える。
 ごとん。一度大きく揺らぎ、舟は完全に止まった。

「さあここが終着点だ。君の話まあまあ面白かったよ。でも君の死出の旅路はまだまだ続くから道中気をつけてね」

男を降ろすと彼はひらひらと手を振った。

「あんたも死んでいるんだよな。あんたはずっとここにいるのか? この何もないところでずっと?」

 彼が自ら死者と教えてくれたわけではないが、なんとなく自分と同じという確信があった。彼はこの先に進まないのだろうか。
 彼が小さく息を吞む。顔は隠されているのに、フード下の瞳が大きく見開いたのが見えた気がした。

「……驚いた。そんなこと聞いてきたのは君が初めてだよ。まあ僕はここから動けないからねぇ。心配してくれてありがとう。君が無事に行くべき場所に行けることを祈っているよ。さあもう行きな。あんまり遅れると閻魔様がへそを曲げてしまう」

 彼はかすかに笑って答えた。

「ああ。案内ありがとう」
「どういたしまして」

 男は彼に別れを告げ、灰色の道を歩き始めた。


「さーて、次の“初めまして”は何十年後かな。今回はだいたい百年ほどだったけど」

 どうせここに来るころには覚えちゃいないし。呟いた一言は水音に覆い隠される。そのとき不意に舟守の手が止まった。見えなくとも感じる気配。また一人、ここにいざなわれた者が来たようだ。

「ああ、今日のお客さんは多いね。……ん? あの子は、いやこれまた久しぶりの顔だ」

 水をかき分け舟は進む。小さな影はやがて白の中へ消えていった。

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