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【小説】のけものけもの(4)

家族になってから初めての授業参観。しかし雪華はそれを椎菜に渡せずにいて――

上記の話から続く親に捨てられた少女雪華と鎌鼬の椎菜のでこぼこ親子話

 土曜日、尾曾山に呼ばれた。
 あそこに住まう天狗も雪華のことを気にかけてくれていて、週末はよく呼んでくれる。
 年の功ゆえか、老天狗は雪華が四苦八苦するプリントをいとも簡単に解く。そして少なくとも担任よりは教え方が上手かった。
 邪魔はせいぜい権治郎くらい。涼風が気まぐれに頬を撫でるあの時間を雪華は密かに気に入っていた。
 いき方は簡単。彼がくれたお守りを持って木立の中で念じるといつの間にか尾曾山の山頂に立っているのだ。
 だから雪華は今日も公園に併設されたこぢんまりとした林の中で人がいないことを確認してから祈る。
 再び瞼を上げたときには切り立った崖と松、そしてその根元に見慣れた老人がいた。
 ここの空気は恐ろしいくらい澄んでいて重い。人ならざる者が住むためか神秘的で排他的な空気が満たしている。
 雪華は深く息を吸った。清純な空気が肺を満たすと、少しだけ雪華もこの空間の一部になれた気がした。

「そういや雪華、何か椎菜に言うことがあるのではないか」

 老天狗は薄目をあけてこちらを見た。全てを見透かすような瞳を直視できず、雪華は目を伏せた。

「……ないと思う」
「そうか? ならばくずかごの中に放りこんだあの紙の存在を椎菜に教えてやってもいいのだな」
「猿じい!」

 思わず声を荒げる。予想より遥かに大きな声が出て、澄んだ空気に雪華の声がこだました。だが老天狗はほっほっと笑うだけで気にした様子もない。

「いちいちうるさいぞ童」

 天狗の足元で唸ったのはカワウソの権治郎だ。水を滴らせた胴長の獣は艶のない一匹のフナをくわえている。

「今日も大物とれなかったの?」
「う、うるさいわい! 今日は腹が空いてなかったんじゃ」

 権治郎が顔を赤くした。
 自身の背丈を超える巨大なコイやらナマズやらをとると自慢するくせに、権治郎がくわえているのはいつも雪華の手のひらに収まる小魚ばかりだった。

「でもヌシなのに、そんなちっちゃい魚でまんぞくできるの?」
「うるさい、うるさい! そうやってお前も儂のこと馬鹿にしているんだろう! 何にも獲れない口先だけの畜生だと内心馬鹿にしておるんだろう!」

 権治郎は足を踏み鳴らした。

「してないよ」
「ええい、人間のことなど信用できるか。儂の仲間を狩りつくした極悪非道、悪党どもの同類なぞ、年端のいかぬ童でも邪悪な心を持っているに違いないわ」
「そうなの?」

 雪華はちらりと猿じいを見上げた。
 カワウソはテレビで見たことがあるので、絶滅してはいないはずだ。
 猿じいは困り顔を浮かべた。

「そうだとも。自らが犯した過ちすら学ばんのだな人間は」

 権治郎は腕を組んで雪華を睨みつけた。老天狗はいきり立つ獣を宥めながら首肯した。

「そうだな、かつては日本にも獺がいた。だがもう今いるのはここにいる権治郎のみよ。毛皮をとられ、川を汚され、かつて日本全国の川にいたこやつの仲間は皆もういない」
「え、じゃあいま水族館にいるカワウソは……」
「外から来た余所者よ」

 権治郎が吐き捨てた。

「昔はな、それこそたくさんの仲間がいたものよ。川で遊び、人間を化かし、からかい、男を騙して食い殺した者さえいた」

 権治郎の目は遥か遠くを見据えていた。いつも高慢な口ぶりは鳴りをひそめ、波紋一つない水面のように静かな口調だった。

「だが彼奴らは皆死んだ。そして人を化かすどころかろくに魚も獲れず皆から馬鹿にされてきた儂だけが生き残った。
 今はこうして惨めに人目を気にして息を潜めるだけよ。呪おうにも力が足りず、独りゆえ仲間を集めることもできぬ。ああ、なんと虚しき生か!」

 そう言って、権治郎はおいおいと泣いた。伏せているせいで顔は見えないが、みるみるうちに獣の足元に小さな水たまりができた。

「すまぬな。最後の一人になってしまってこやつも寂しくてのう。昔の話を出すたび泣くのよ」

 湿った褐色の毛を撫でながら猿じいは雪華に視線を向けた。

「ところで話を戻すが、本当に椎菜に知らせなくともいいのか」
「……いいよ。授業なんかみてもつまらないでしょ」
「そうか? 聞いてみないとわからんだろう。椎菜も案外乗り気かもしれんぞ」

 猿じいが片眉を上げたが、雪華の唇は引き結んだままだった。
 椎菜には見られたくはなかった。「普通」以外を弾き出す、あの冷たい空間を目にしたとき、果たして椎菜がどう思うのか。雪華はそれが怖かった。

「なんだお前も儂と同じ除け者か」

 ふいに顔を上げた権治郎がぽつりと言った。除け者という言葉が雪華の心臓を貫く。

「ち、ちがう!」
「何が違う。同族から遠巻きにされ、爪弾きにされ、それを保護者である椎菜に見られたくないだけであろう。気持ちはよくわかるぞ。儂もそうだったからな」

 権治郎の目は揺らぎなかった。まるで雪華の奥底にある卑しい性根を見透かしたような目だった。
 頬がかっと熱をもつ。

「ちがうもん! わたしはほんとうにっ」
「まあまあ雪華も落ち着なさい。お前の口から言うのがためらわれるのならば、あやつから言ってもらうかね」

 猿じいが上を指した。つられて顔を上げると、いつの間にか松の枝に見慣れた黒い塊が止まっていた。それは雪華と目が合うなりウインクを飛ばし、滑らかに地上に降り立った。

「やあ話は聞いたよ雪華。水臭いじゃないか。椎菜が行けないって言うんだったら私が見に行ってあげるのに」

 雪華は目を瞬いた。

「カラスって授業参観にいけるもんなの?」
「窓から覗けばいいじゃないか」
「絶対みんな集中できないと思うけどなあ」

 カラスが窓辺にとまってじっと授業を見ていたら、誰だって気になる。先生だって無視はできまい。

「おお、表情がよくなったな。そのくらいの顔がちょうどいい」

 穏やかに微笑みかけられ、雪華は俯いた。だがその頬はりんご色に染まっていた。


「何? 授業参観? そんなものがあるのかい?」

 くしゃくしゃになったプリントをなるべく丁寧に皺を伸ばして差し出すと、意外にも椎菜は前向きな反応をみせた。

「……行きたいの?」
「そりゃあんたが普段どんな風に学んでいるのかくらい知ったっていいじゃないか」

 菜箸をぎこちなく動かしながら椎菜は答えた。

「獣なのに?」
「なんだい。獣なら授業参観に出ちゃいけない決まりでもあんのかい」
「それはないけど……」
「じゃ、いいだろ。その日は仕事空けておくから見に行くよ」

 雪華は後ろ手に組んだ手に力をこめた。
 母は一度も見に来たことがない授業参観。シングルマザーだった母は日々の生活を凌ぐのに精一杯で来られる余裕もなかったのだ。あの頃の母は優しかったが、いつも金と時間に追われていた。
 今でも思い出す。初めて授業参観のプリントを渡したときの期待と「ごめんね、今忙しいの」の一言で一瞥すらされずに背を向けられた光景を。ゴミ箱に投げ捨てたぐしゃぐしゃのプリントを。
 胸いっぱいに膨らんでいた期待は風船のように弾けてその残骸だけがいつまでも雪華の胸に残り続けた。
 対して慣れぬ人間生活とパートで目が回るほど忙しいのに、あっさりと参加宣言をした椎菜。
 あの日とは違い、しわくちゃのプリントは椎菜の手の中にある。
 唐突にこそばゆい感覚がわき上がり、雪華はぎゅっと体を抱きしめた。そうでもしなければ内側から爆発して自分の体がバラバラになってしまう。そんな気がした。


 転校後初めての授業参観。
 しかし雪華は既に椎菜を呼んだことを後悔し始めていた。

「ねえ雪華ちゃんのお母さんヤバくない?」
「すっごい派手な髪だよねえ」

 ひそひそ。ひそひそ。好奇と警戒が入り混じった視線が二人に突き刺さる。
 椎菜は親たちが並ぶ中央に堂々と立っていた。ただでさえ派手な髪色が黒の中でひと際目立つ。まるで黒羊の群れに迷いこんだ白羊だ。
 クラスメイトたちのむき出しの好奇もさることながら、大人たちの薄いベールで包んだ冷ややかな嫌味の視線も雪華がいたたまれなくなる原因となった。

「なんなのあの人。あんな派手な髪色して」
「転校してきた子の保護者らしいわよ。向こうで問題起こしてこっち移ってきたんじゃないかしら」

 大人たちの悪意を鋭敏に感じとった子どもたちは、さらに調子に乗って無遠慮な目を椎菜と雪華に向けてくる。
 椎菜はそれらが聞こえていないのか、腕を組んで真っ直ぐ前を見つめたままだ。雪華は今すぐ教室を飛び出したくてたまらなかった。

「えーそれでは授業をはじめますよ」

 教師がわざとらしい咳払いをした。
 一応皆前を向いたが、やはり意識がこちらに向いていることは明らかだった。
 無数の視線から少しでも身を隠そうと雪華は小さな体をさらに縮こませた。
 教師が黒板にチョークを走らせる。

「はい、それじゃあこの問題わかる人」

 と、突然カアと鳴き声が上がり、皆一斉に窓を見た。そこにはやけに見覚えのあるカラスが一羽、教室を覗きこむように窓のレール部分に座っている。

「カラスだ!」

 一人の男の子が声を上げた。そこでギリギリ保たれていた体裁が一気に崩れた。教室内は珍客の登場に浮き立ち、もはや授業をするどころではない。
 カラスは悠然と教室を見渡すふりをしながら、ちらっと雪華に目をつぶってみせた。
 雪華はもう逃げ出したくてたまらなかった。


「なんで来たの!」

 椎菜が帰宅するや否や、雪華は激昂した。椎菜と二人暮らしを始めてから、初めてぶつけた怒りだった。

「なんでって、前々から言ってたろ。授業参観の日は行くって」

椎菜は事もなげに言い放って、夕飯の準備に取りかかっている。

「にしても人間の授業も面白いもんだ。あんた、いつもあんなことやってんのかい」

また聞いてみたいもんだね、と呑気に次回の参加までほのめかすその態度に、雪華の何かが切れた。

「そんなこと言っている場合じゃない! なんで髪を黒くしてくれなかったの! なんでヤタさん呼んだの! おかげで授業だいなしじゃん! 変な目だち方しかしてないじゃん!」

 幼子みたいに泣きわめいた。溢れ出る感情の赴くままに思いきり叫んだ。
 凶暴な衝動が今にも我が身を引き裂かんばかりに駆け巡っている。それを叩きつけて相手に非を認めさせたかった。理不尽だと心の片隅ではわかっていたが止められなかった。

「なんでって、私の毛は元からこの色だよ。なんで染める必要があるんだい。ヤタに関しちゃ知らないね。私は誘ってないよ。文句はあっちに言いな」

 しかし椎菜は眉を上げただけで、冷蔵庫から半額シールが貼られた魚の切り身を取り出している。その何も気にしていないと言わんばかりの態度が癪に障った。

「でもみんなは黒じゃん。椎菜だけだよ、あんな派手な髪してるの! 普通じゃないじゃん!」
「普通、普通ってなんだいさっきから。他と違うことが罪なのかい。じゃあ外の国からやってきた連中はこの国に入ってきた時点で罪人なのかい」

ぐっと雪華は口をつぐんだが、一度着火した炎はまだまだ燃え盛っており、軽く水をかけた程度では鎮火できるはずもなかった。

「でも椎菜はこの国出身じゃない。海外の人とは話がちがってくるでしょ」
「じゃあ聞くけど、あんたはこの毛が恥ずかしいものだって思ってんのかい」

 今度こそ雪華は押し黙った。
 椎菜のお月様のような毛色は、初めて見たときから好きだった。どんなに体の内でマグマが荒れ狂っていたとしても、雪華は衝動のまま椎菜の問いを肯定することはできなかった。
 椎菜は軽く息を吐いて言った。

「そりゃ私らはどう取り繕ったって普通じゃないさ。まあいつまでも自分の主義を振り回してばっかじゃ、そりゃ嫌われるだろうけどね。でも自分の大事なものを曲げてまでその御大層な“普通”に合わせるのもまた違うってもんじゃないのかい」

 椎菜は冷蔵庫から麦茶を取り出して雪華のコップについだ。

「私の毛は私にとっちゃ大事なものさ。……あの子たちとの唯一のつながりだからね」

 椎菜の目がふいに遠くを見た。かつて一度だけ見かけたどきりとするほどの憂いが影を落としていた。

「ほら叫んで喉が疲れたろ。これでも飲んどきな」

 コップを押しつけて、椎菜は背を向けた。
 その背中に母の後ろ姿が重なった。まだ優しかった頃の、日々の雑事に忙殺されながらも雪華のために夕飯を作ってくれたあの姿。
 同時に人間を嫌うような素振りを見せた出会った当初のことがよみがえる。一人ぼっちになったと泣く権治郎の泣き顔や大嫌いさと言い放ったミケの目も。
 彼らは何を見て、何を思い、人間と付き合ってきたのだろう。雪華を見てきたのだろう。

(わたしは、椎菜のなにを知っているんだろう)

 自分は何も彼らのことを知らない。知ろうともしていなかった。
 知りたい。彼らのことを。
 雪華は強く思った。


 雪華は学校の図書館を訪ねた。初めて足を踏み入れた図書館は、僅かに埃っぽかった。
 静寂が部屋を満たし、利用する子は本にしか目を向けない。話し声は教室よりもずっと密やかだ。開け放たれた窓からは真昼の陽光が穏やかに降り注いでいた。

「えっと、かまいたちだから妖怪の本かな」

 怪談コーナーに足を向けるとまず目に入るのは血のように真っ赤な本。がらんとした棚の壁に一、二冊ほどが背を預けていた。
 まさか既に貸し出されているのだろうか。ひやりと背筋に冷たいものが走った。
 どくどくと存在を主張し始めた心臓をおさえて本棚の下に目を走らせる。幸いにもまだ怪談コーナーは続いているようで、少女マンガチックな怪談集から重厚な装丁のシリーズ小説までぎっしりと詰まっていた。その端に妖怪の文字がタイトルに入る数冊の本が雪華の目にとまった。
 雪華はほっと息をついて一番最初に目についた本を手にとった。
 その本は表紙を覆い尽くすようにおどろおどろしい異形がひしめいている。人の恐怖をかきたてるためにわざと醜く描かれた妖怪たちの後ろに作者の考えが透けてみえたような気がして、雪華は眉間に皺をよせた。

「椎菜たちはこんなんじゃない」

 背板に押しつけるように本を元に戻した。重苦しい息を吐き出して次の本を手にとる。
 次の本は可愛らしい絵柄で親しみやすかった。これならまだ彼らに近いだろう。
 雪華の口から安堵の息が漏れた。
 雪華は本を脇に挟むと早足で貸出カウンターに向かった。


 雪華は駆け足で教室へと舞い戻った。教師がこのときの雪華を見かけたならきっと呼び止めて叱っただろうが、幸いにも雪華は教師と出くわすことなく教室までたどり着いた。
 ピタッと話し声が止んで全員の視線が雪華に突き刺さる。が、雪華はペースを落とすことなく、自分の席につくや否や本を開いた。

「えっと、かまいたち、かまいたち……あった」

 本の鎌鼬の欄には三匹の鎌鼬が描かれていた。本によると鎌鼬は三匹で一組らしく、一匹が転ばせ、一匹が鎌で切り、最後の一匹が薬を塗るという。
 しかし椎菜は一匹だ。同族の影すら見たことがない。

『私の毛は私にとっちゃ大事なものさ。……あの子たちとの唯一のつながりだからね』

 椎菜の寂しげな横顔を思い出す。あの子たちというのはもしかして彼女の仲間を指していたのだろうか。
 こういうのはやはり本人に尋ねるのが一番いいのだろう。しかし雪華は今一歩踏み切れないでいた。
 椎菜は母ではない。家族ではない。ただの、成り行きで雪華を預かることになっただけの他人。しかも人間ですらない。
 雪華は己の環境に踏みこまれるのは苦手だ。ヤタは相変わらず母が探しに来たという報せは持ってこないが、雪華の心の隅には未だ母が迎えに来てくれるのではないかという希望がしつこい油汚れのようにこびりついている。
 彼女の心にも取り去れない染みがあるのだろうか。それが頭をよぎるたび雪華の足は動かなくなってしまうのだ。
 彼女の心の一番やわい部分に無遠慮に踏みこんでしまうのがとても恐ろしい。彼女が自分の激情を静かに受け止めてくれたように、自分が彼女の大事な部分を汚さずに受け止めきれる自信がなかった。
 では誰に尋ねるべきか。昔から椎菜のことを知っていそうで、雪華でも頼れる人物。当てはまる人物は一人しか思い浮かばなかった。


「それで儂のところまできたというわけか」
「ごめんなさい。だめだった?」
「いや、いや。まさか儂が誘わなくとも雪華が訪ねに来てくれて嬉しいとも」

 ほっほっとくちばしを鳴らして猿じいは笑った。

「ふん、この権治郎を頼るとは少しは見る目があるではないか童」
「権治郎はべつにいいんだけど……」
「なんだと!?」

 顔から湯気を出す権治郎を軽くあしらいながら、雪華は老天狗を見上げた。

「わたし、権治郎はともかく、みんなのこと全然知らないから。椎菜のこともそうだけど、いつも気にかけてくれるヤタさんとか大三郎さんとか、人間のこと大嫌いなのにカフェやってるミケさんとか、みんなのこと知りたいの」
「ふむ、まあそれこそ本人たちに聞いたら喜ぶだろう……と言いたいところだが、ミケや椎菜は話が話だ。椎菜はともかくミケははぐらかすだろうな」

 顎髭をさすりながら猿じいは言った。
 椎菜も答えてくれないのではないかと思ったが、それを口に出すより先に話に首を突っこんできた者がいた。

「なんじゃミケの奴、未だに亡き飼い主の店を守っておるのか」
「え、ミケさんに飼い主さんいたの?」

 目を丸くして雪華は権治郎をまじまじと見た。権治郎は鼻を鳴らして首肯した。

「そりゃそうだろう。彼奴は元々飼い猫だぞ。だから人間のこともよく知っておる。ま、飼い主が亡くなってから散々人間の醜さを見たらしく、今や筋金入りの人間嫌いだがな。そのくせ思い出を捨てられず、売りに出された店を取り戻してまで、あの家を守る哀れで孤独な獣よ」

 暖色の明かりに包まれた店内にぽつりと佇むミケの横顔を思い出した。磨きぬかれたカウンターの木目と、埃一つ積もっていない猫の置物たちを思い出した。大嫌いさ、と吐き捨てた目の奥に一抹の懐旧と柔らかい光が揺らいでいたのを思い出した。

「ミケさん飼い猫だったんだ……。なんか想像つかないね」

 ミケの本来の姿は一度も目にしたことがない。椎菜曰く猫又らしいが、雪華が目にするのはいつも掴みどころのない笑みを浮かべるカフェの店主だけだ。

「そうだろう、そうだろう。昔から可愛げのない奴でな、敬意をもって接するのは飼い主か儂くらいなものだったからな」
「そっか。飼い主さん以外心をひらかないタイプのねこだったんだね」
「その通りだ。……おい待て。なぜ儂をごく自然に外した」
「だってミケさんなら権治郎なんて相手にしないとおもうし」

 ミケが誰かに敬意を払う姿なんて想像できない。ましてや権治郎相手ならば足蹴にするほうが似合っている。どう転んでも敬うということはあるまい。

「本当にお前は失礼な奴だ。椎菜を呼んでこい! 此奴の躾について物申してやる!」
「また椎菜にかるく流されて終わりじゃない?」

 あの日以降もこのカワウソは変わらない。いつも通り大口ばかり叩いて、痩せた小魚を頭からかじっているのだ。それが存外気楽だった。絶対に口には出さないが。

「雪華も権治郎の扱いわかってきたのう」

 老天狗は二人のじゃれ合いをにこにこと眺めている。

「猿じいもそこで見ておらんで何とか言わんか!」

 権治郎が吼える。老天狗は笑みを絶やさぬまま、上手く言いくるめて怒り狂う獣を傍に座らせた。

「それで話を戻すが、椎菜の過去か。まあ儂は知っておるが……それは本人に聞いたほうがよかろう」
「なんだ、椎菜の話なら儂が……」

 無粋な獣の口を乾いた手が押さえた。権治郎が騒いでも岩のような手は微動だにせず、言葉の輪郭をぼやけさせる。
 権治郎が大人しくなったのを見、猿じいは穏やかな目を雪華に向けた。

「雪華にならきっと話してくれるだろう」
「そうかな。椎菜はわたしのおかあさんじゃないし、家族でもないのに」

雪華は目を伏せた。足元に落ちた影はいつもより濃かった。

「血が繋がってなくとも家族にはなれるぞ。逆に血が繋がっていても、残念ながら家族になれぬ者もいる。縁は誠に不思議なものよ」
「わたしとおかあさんは家族だよ」

 想像以上に硬い声が飛び出た。
 僅かに見開いた濡れ羽色の奥にぽつんと石ころのようなさめざめとした光が浮かんだ。憐れみとも怒りともとれぬ、触れ難い複雑な色が。

「……ああ、そうだな。お前と母は家族だ。だが椎菜とお前も家族だ。雪華には少し難しいかな?」
「よくわかんない」

 首を振ると、猿じいはふっと苦笑して雪華の頭に手を置いた。

「いつかはわかる。そういうものだ。どうしても気後れするというのならヤタか大三郎に尋ねるといい」
「わかった。ヤタさんか大三郎さんに聞いてみるね」

 老天狗は笑みを深めた。骨ばった手が雪華の頭をかき混ぜる。雪華は黙ってその手を甘受した。


 家に帰るとベランダに黒い塊がちょこんと座っていた。

「あ、ヤタさんちょうどいいところに」

 雪華が声をかけるとそれはびくりと体を震わせた。いつもは呼ばれなくとも勝手に上がりこんでくるくせに、今日はベランダの柵にとまったまま動かない。

「どうしてはいってこないの? そこ暑くない? ほらどうぞ」

 初夏の陽光は既に真夏の凶悪な灼熱の片鱗が垣間見える。おまけにヤタは全身真っ黒だ。雪華の肌ですら汗ばむのに、漆黒の羽毛コートを着こんだヤタなら余計に日差しが堪えるはずである。だがヤタは瞳を揺らしただけで、未だその場から動かない。
 雪華がもう一度同じ文句を繰り返してようやくヤタは部屋の中に滑りこんだ。しかしそれも遠慮気味で、常のようなふてぶてしさは鳴りをひそめている。

「ごめんねえ。つい張り切りすぎて、せっかくの雪華の晴れ舞台を台無しにしちまったよ」

 雨に打たれた毛布のようにヤタはすっかりしょげていた。時が経ったからか、それとも椎菜に思いきりぶちまけたからか、雪華の胸には小火すら上がらなかった。

「ううん、もういいよ。それより聞きたいことがあるの」
「なんだい? なんでもいいな。この前の詫びだ。どんなことでも調べ上げてあげるよ」

 意気ごむヤタに雪華は尋ねた。

「椎菜ってなんで一人なの? かまいたちって三びきで一組だよね? 昔からそうなの? それとも昔は誰かいたの?」

 ヤタは目を瞬いた。

「椎菜から聞かなかったのかい?」
「うん。家族でもないのにそういうこと聞かれるのいやかなって思って」

 私もおかあさんのこといろいろ言われるの好きじゃないし、と最後の言葉は口に出さなかったが、ヤタの目はそこまでお見通しだったのだろう。
 ふっとヤタの表情が緩んだ。子どもの些細なやらかしを苦笑しつつも受け止める母親のような顔だった。

「そうさね、たしかに昔はもう二匹いたよ。椎菜の弟たちがね。私から言えるのはこれだけさ。後は椎菜の口から聞きな」
「え、教えてくれないの?」

 先ほどは何でも答えてやると言ったのにあっさりと覆されて、雪華は唖然とした。

「雪華が聞いたってべつに椎菜は怒ってあんたを頭から食いやしないよ。逆に私伝いに聞いたと知ったほうが気分を害すだろうさ」
「でも」
「雪華、自信を持ちな。あんたは既に椎菜の懐に入っているんだからさ」

 口から出かけた数多の言い訳を遮ってヤタは言った。
 黒真珠のような双眸が雪華を射貫く。聞きなれない言葉だったが、なんとなく猿じいが言い聞かせてくれた言葉と同じ意味のような気がした。

「知りたいって思ったんだろ? もっと椎菜のことを理解したいって思ったんだろ? じゃあ怖がってちゃあ駄目だよ。怖がってちゃあ椎菜も腹を割って話せないじゃないか。あんたに足りないのは覚悟だけさ。それがあれば恐れることなんて何一つありゃしないのさ」
「……わかった。きいてみる」

 雪華が小さく頭を上下に振るとヤタは満足気に笑った。

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