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のけものけもの(6)

高校生になった雪華は騒がしくも明るい青春を謳歌していた。そんな折り、とある人物と出会うことで日常は一変する。一方で椎菜にも影がひしひしと迫ってきていて――

上記の話から続く親に捨てられた少女雪華と鎌鼬の椎菜のでこぼこ親子話。次で終わります。

「椎菜、ちょっとわたしのリボンどこにやったか知らない?」
「知らないよ。大方玄関あたりにでも放り出したんじゃないのかい?」
「ないから言ってんじゃん!」
「じゃ、知らないね。恨むなら昨日の自分を恨みな」
「もう時間ないって言ってんのに!」

 荒々しくアイロンを置いて雪華は立ち上がった。まったく今日は髪もまとまらないし、ついていない。

「早くしないと朝飯食べる時間なくなるよ」
「わかってる!」

 飛んできた椎菜の声に怒鳴り返し、雪華は自室を覗いた。床の上に先ほどまでなかったはずのリボンが転がっている。
 恐らく放ったリボンの存在を忘れて布団を敷いてしまったのだろう。布団を畳んだから現れたのだ。頭ではわかっているが、たまった苛立ちは晴れなかった。
 むんずとリボンを掴んで、部屋を飛び出す。騒々しい足音が後を追った。

「今日のご飯なに!?」
「見ればわかるだろ」

 皿の上にはソーセージとスクランブルエッグ。あとは小さなクロワッサンが二個。もう目玉焼きの固さの調節だってお手の物だが、椎菜はこの卵をかき混ぜただけの料理が気に入ったのか出てくる比率は半々だ。

「なんでこうぱぱっと食べれるのにしてくれないの。今急いでんだけど」
「愚痴こぼす暇あるんならとっとと食いな」

 椎菜は一瞥も投げずに米を頬張っている。パンのほうが手軽に食べられるのに、どうしても朝は米がいいらしい。
 朝食を流しこんで席を立つ。早くしなければ朝練に間に合わない。

「雪華、弁当忘れてるよ」

 椎菜が指さしたのは机の端に置かれた雪の結晶柄の包み。それをひっつかんでドアへ向かって全力疾走。

「ありがと! 行ってきます!」
「はいはい気をつけていってらっしゃい」

 椎菜の呆れた声を追い風に走り出す。最短コースは脳内のマップにインストール済み。あとは風にのって走るだけ。

「最近、児童虐待のニュースが多いですよね」
「そうですよね。さきほどの子どもを捨てた母親の事件もそうでしたけど――」

 テレビのタレントたちの声は耳に届くことなく、厚い扉は閉められた。


「本当に足速いね雪華。それで部活の朝練間に合ったんだ」
「でしょ? ま、うち近いからね」

 新しい家は高校に近くていい。今の家なら全力疾走すれば十分でつく。前のアパートならその倍以上かかっていただろう。
 制汗シートで汗をぬぐいながら、ノートにペンを走らせる京花を見た。
 彼女の目とこちらを隔てる硝子の板は存在しない。高校にあがってから、京花はコンタクトに変えたからだ。

「てか今日の数学宿題あったっけ?」
「あるよ。やった?」
「あー……たぶん?」

 曖昧な返答に京花の柳眉がひそまった。

「確認しておいたほうがいいよ。あの先生そういうの厳しいから」
「たしかにー。後で呼び出されたら面倒だし」

 毛先をくるくると回しながらノートを開く。数式が書き連ねられた紙面に目を通すと、最後の一問だけ途中で終わっていた。

(途中で夕飯か、SNSに通知入ったかな)

 やるべきことはちゃんとやれ。そうすれば風当たりは和らぐ。椎菜が口を酸っぱくしていつも言っていることだ。

「なんか雑に見えてちゃんとしているよね雪華って」
「そう? まあ椎菜に似たんじゃない?」
「ああ、あの髪色の派手なお母さん」

 京花がペンを止めて呟いた。
 椎菜の出で立ちは閉鎖的な世界に衝撃を与え、異物に対する敵意は膨れ上がった。
 だがあまりにも椎菜が堂々としているためか、それらは徐々に鳴りを潜めていった。職場の評判もそれを後押ししたのだろう。周囲の評価が変わろうが、椎菜の態度は一貫していた。そんな彼女に似ていると言われて悪い気はしない。

「あ、あとでちょっとわからない問題きいてもいい?」
「いいよ。暇があればね」
「それいけたらいく並に信用できない言葉じゃんー」

 京花は再びノートに目を落としてペンを走らせ始めた。

「無駄口聞く暇があればやったら?」
「あ、なんかそういうところ椎菜に似てる」
「それ褒めてんの?」
「褒めてる褒めてる」

 予鈴が鳴る。雪華は広げたノートやペンケースを素早くまとめて、自分の席に向かった。


「ミケさーん!」
「いちいち叫びながら入るなって毎度言っているんだけどね。営業妨害で出禁にしてあげようか」

 ドアを蹴破らん勢いで駆けこんできた雪華を一瞥した店主の目は笑っていなかった。
 相変わらずの塩対応に雪華は密かに笑った。
 本当にミケは出会った当初から変わらない。掴みどころのないミステリアスな店主のままだ。

「だってミケさん見たらつい愛を叫びたくなっちゃうんだもん」

 ミケは常連であろうとも雪華を特別扱いしない。これ以上しつこくすれば本当に店からつまみ出すだろう。
 甘い空気は毛ほども出さず、しかしやはり最初のココアは無料のままだ。それがなんだか懐かない野良猫のようで、いっそう心をくすぐられる。スマートフォンの写真フォルダが猫で埋め尽くされたのも、ミケの影響がないとは言えない。

「はあ……。出会った当初はこんな子になるとは思わなかったよ。昔はずいぶん大人しい子だったのにねえ」
「え、ミケさんこんなわたし嫌い?」
「ああ、嫌いだね」

 小首をかしげた雪華にミケは一度も視線投げることなく吐き捨てた。

「えーミケさんのいけずー」
「はいはい。注文もしないなら帰った帰った」

 ミケがひらひらと手を振る。雪華は最後の一口を素早く、だが味わうようにすすって、三毛猫柄のコップを置いた。そして高らかに宣言した。

「じゃ、コーヒーひとつ!」
「カフェオレじゃなくていいのかい?」

 にんまりと細められた目にはからかいの色が浮かんでいる。雪華は口を尖らせた。

「もうミルクも砂糖もなくても飲めるんだよミケさん」
「おや、じゃあ大人な雪華ちゃんにはもうココアはいらないねえ。だって甘いココアは子どもの飲み物だからね」
「え!? それとこれとは話が違うんじゃん。わたしミケさんのココア好きだよ」

 顔色を変えて必死に言い募る雪華を見、ミケは吹き出した。

「そうかい。そんなに僕のココアを好いてくれて嬉しいよ。でも今日は帰りな。あんまり通い詰めていると、椎菜がいい顔しないからね」
「え、椎菜は気にしなくない?」

 たしかに椎菜はミケを毛嫌いするような態度をとるが、それは気安い友人に対する一種のお約束のように見える。本気で嫌悪しているのならば、いくら雪華がいたとしても交流を続けるはずがない。

「いやいや気にするよ。この前なんか、私の娘に粉かけてんじゃないよって思い切り睨みつけられたし」
「えっ、椎菜そんなことする?」

 ミケは頷いた。その顔は人あたりの良い、真偽のつかめない笑顔だった。
 しかし店主にこうも宣言されてしまえば、一介の客である雪華は従う他ない。
 雪華はすごすごと鞄を持って店の外に出た。


「……雪華?」

 真夏のアスファルトに垂れた一滴の雫のように、呟かれた一言はほとんど空気に溶けかかっていた。
 だが幸か不幸かそのときは一台の車も通らず、通行人もいなかった。雪華は足を止めて振り返った。そこには一人の女が立っていた。
 化粧っ気のない、生真面目そうなスーツ姿の女だ。一つにまとめた髪が風に吹かれてはらはらと揺れた。
 しかし見覚えのない顔だ。空耳かと雪華が再び歩きだそうとしたそのときだった。

「雪華よね、やっぱりそうよね」

 女がいきなり雪華の右腕を掴んだ。制服の生地にささくれた指が食いこんだ。

「えっと、わたしは雪華ですけど、あなたは一体……」

 左手にスマートフォンを握りしめ、顔をしかめた雪華を見、女は慌てて力を緩めた。

「ごめんなさい。そうよね。私とあなたが最後に会ったのはまだ赤ちゃんの頃だったから覚えていないわよね。私、藤子とうこ。桃華……あなたのお母さんの姉よ」

 雪華の心臓が跳ねた。
 雰囲気はまるで違うが、たしかに目元が母と瓜二つだった。
 車が一台通り過ぎた。白の軽自動車。
 暗闇に消えていく車の後ろ姿がよみがえり、雪華の体は勝手に震えた。
 忘却の彼方に追いやっていた母の影が大きく膨れ上がって目の前に立ちはだかる。

「……それを、証明するものはあるんですか」

 固まった舌を動かして、なんとか絞り出した声はかすれていた。
 女は悲しそうに眉を下げた。

「そうね。信じられないのも無理はないわ。でも本当なの。……ここで話すのも何だから、時間ある? ファミレスかどこかで話をしたいのだけど」

 女が良からぬことを考えているようには見えない。だが油断は禁物だ。
 雪華は掴んでいた手を振り払い、硬い表情で頷いた。

「……話だけなら」
「ありがとう! たしかこの辺りに一軒あったわよね。そこに行きましょうか」

 女はぱっと顔を輝かせて歩きだした。再び女の指が触れそうになって、雪華は身を引いた。
 気まずい沈黙が落ちる。雪華は女から数歩距離をとって歩きだした。


「それであなたったらね、私の指ぜんぜん掴んだまま離してくれなくて」
「え、ぜんぜん覚えてない」
「覚えていたら怖いわよ」

 藤子は本当に母の姉であった。彼女が持参した写真には若かりし頃の母や赤ん坊だった自分とそれを抱く母などが映っていた。
 藤子は母とは対照的な人生を歩んできた女性だった。ある企業の事務に就職して、堅実な生活を営んでいるが独身だ。もちろん夜の雰囲気はどこにもない。
 同じ血をわけた姉妹なのに、こうも違った生き方になるのは奇妙なものだった。
 母の面影を持ちながら荒れ果てた彼女の空気を持たない藤子の雰囲気に、徐々に目が離れなくなっていく。雪華ははっと首を振った。

(いけない。母さんの姉だからなんだっていうの)

 大粒の汗をかいたグラスを握りしめる。直にくる冷気が雪華をあるべき場所にとどめてくれる。そんな気がした。
 にこにこと笑っていた藤子がふいに真剣な顔つきになった。雪華も自然と姿勢を正す。

「それでね、本題に入るんだけど、この前あの子……あなたのお母さんのところに用事があって顔を出したんだけど、どうみても子どもがいる部屋じゃなかったから、問い詰めたらあなたを森に捨てたっていうじゃない」

 藤子の持つグラスの水面が細かく揺れている。

「それって……」
「もちろん犯罪よ。その場で通報すればよかったんだけどね。やっぱり情が残っていたのかな。後日一緒に出頭しようってその場ではあの子も頷いたんだけど……後日訪ねたら、ね。あの子がどこにいったのか誰にもわからないままなのよ。昔は本当に優しい子で……。どうしてこんなことになったのやら」

 雪華はグラスを置いた。背の高いグラスには半分ほどアイスティーが残っている。落としでもしたら、大惨事になるだろう。
 母はあのかび臭い部屋にずっと一人でいたのだろうか。雪華が椎菜や妖怪たち、友達と楽しく日々を過ごしている間、ずっと一人で。
 暮れゆく夕焼けをぼうっと眺める母のシルエットが脳裏に浮かんで、雪華は唇を噛んだ。

「その後時間の許す限りはあの森に通ったわ。せめて遺骨だけでも……と思って。今日は何となくそのまま帰りたくなくて、適当に降りた駅の周りを散策していたんだけど、まさかあなたに再び会えると思わなかったわ」

 そういう彼女の目は潤んでいた。雪華はその目を直視できず、手元のグラスに視線を落とした。

「雪華、あなた今までどうやって生活していたの?」

 それは予想できた問いだった。
 だが真実を話すわけにもいかない。言ったところで信じてもらえないだろう。養母が鎌鼬などどんなおとぎ話の世界だ。たとえ実情がパート務めで安アパートの一部屋暮らしの、メルヘンの欠片もない生活だったとしても。

「その、森を彷徨っていたら親切な人に出会って、いろいろあってここまでやってきたって感じ」
「そう……。それは良かったわ」

 言葉のわりに藤子の顔はこわばっていた。だがその理由を聞く前に藤子は笑みを作り直していた。

「ねえ雪華、もしあなたがよければなんだけど、またこうして話してもいいかしら」

 こちらを窺うような控えめな笑みだった。それに「私にはあんたしかいないのよ」と縋る母の影が重なる。

「まあ話すくらいなら……」
「ありがとう。それじゃ、連絡先交換しましょう」

 薄い長方形の硝子にQRコードが映っていた。流れ作業のように雪華は己のスマートフォンをかざす。表示されたアイコンには立派な藤の花が垂れ下がっていた。

「気をつけて帰るのよ」

 忘れたはずの母の声が反響する。とっくの昔に置いてきたはずの過去が手招く。
 雪華は小さく頷いて背を向けた。


「最近いいことでもあったのかい」
「どうしたの急に」

 箸を止めて雪華は椎菜を見た。椎菜は味噌汁を一口すすって言った。

「やけに嬉しそうな顔をするようになったからね。学校でいいことでもあったのかと思って」
「学校じゃないけど、まあ最近仲良くなった人がいて」

 何となく、藤子のことを言うのは憚られた。椎菜はふうんと頷いて、唐揚げに箸を伸ばした。が、口から咳が飛び出し、箸から肉塊がぽろりと落ちた。

「椎菜、風邪でもひいた? 咳ずっと続いてるよね」
「別にこれくらいなんともないさ。それよりあんた、数学のテストとやらは大丈夫なのかい」
「嫌なこと言わないでよ。考えないようにしてたのに」
「目そらしたってなくなりゃしないんだから、言い訳してないでさっさとやんな」
「はーい」

 間延びした返事にやれやれと首を振って、椎菜は立ち上がった。まだ数個残った唐揚げは皿ごとラップに包んで冷蔵庫にしまう。

「もういいの?」
「年をとると油ものが腹にくるんだよ」
「えっ、椎菜ってもうそんな年?」
「馬鹿言っている暇があったら手を動かしたらどうだい」

 はあいとやる気のない返事を返し、雪華は自身の唐揚げに口をつけた。噛むたびに滲む肉汁は旨みたっぷりだが、なるほどたしかに腹にたまる。
 椎菜も油ものがきつくなる年か、と雪華はこのときは呑気に考えていた。


「それだけでいいの?」

 藤子は首をかしげた。雪華の前には氷を浮かべた紅茶とティラミスが置かれている。対して藤子の前には雪華と同じグラスとチーズケーキが座っていた。
 空はどんよりと曇っていて、透明感のある橙の液体はいつもよりくすんで見えた。

「いやもう十分ですよ! これ以上食べたら太っちゃう」

 藤子は眉を上げた。

「そう? 遠慮しなくてもいいのに。育ち盛りなんだからちょっとくらい大丈夫よ」

 藤子は何かにつけて雪華に奢ったり、物を贈ろうとしたりしてくれた。
 蒸発した妹に振り回された雪華への同情心と罪悪感であることはわかっている。しかし藤子が差し出してくる気持ちにこそばゆさを覚えるのも事実だった。

「いいじゃない、姪に奢るくらい。普通よ」

 藤子が目を細める。その面差しは優しかった頃の母とそっくりだった。
 藤子はかなりまめに連絡をくれ、月に一、二回は喫茶店で顔を合わせるようになった。とはいっても藤子が振ってくるのはとりとめのない雑談ばかりで、椎菜のことを探ることはおろか、母の話題すら出さなかった。
 意外にも女子高校生の恋愛事情に前のめりになったり、逆に仕事の愚痴をこぼしたり、椎菜や他の妖怪たちとも違う、年の離れた従姉のような席に、藤子はいつの間にか座っていた。

「ねえ雪華、今度うちに泊まりに来ない?」

 雪華はひゅっと息をのんだ。たたみかけるように藤子は言葉を並びたてる。

「もちろんあなたの保護者が許可してくれたら、の話だけど。泊まりがハードル高いのなら遊びに来るだけでも構わないわ。この前実家に行ってアルバムをとってきたの。桃華、あなたのお母さんの写真ももっとたくさんあるし……。ね、少し考えてみない?」

 藤子の目が雪華をとらえた。
 グラスの氷がカランと揺れた。

「母の、写真ですか……」
「ええ。今まで見せてきた写真の倍はあるわ」

 興味がない、と言えば嘘になる。むしろこの場で頷きたかった。だが椎菜の顔がちらついて、どうにもあと一歩踏み出すのはためらわれた。

「あの、少し考えされてもらってもいいですか」
「ええ、もちろん。いい返事期待しているわね」

 藤子はにこりと笑みを作った。雪華はふいに母が猫なで声で「お願い」をするときの顔を思い出した。


「あのさ、椎菜。ちょっと話があるんだけどいい?」
「おかえり。なんだい話って」

 椎菜が椅子に腰かける。雪華もその真向かいの椅子を引いた。

「あのさ、友だちのうちに泊まりに行ってもいい?」
「ああ、あんたがよく口に出す京花ちゃんのところかい?」

 そこで素直に頷いていれば、穏便に収まったのだろう。だが雪華はそれほど世渡りが上手いわけでも、演技が得意なわけでもなかった。
 頷くまでに不自然な間があいた。あいてしまった。

「雪華、本当は友達のところに遊びに行くんじゃないね。本当のことを言いな」

 椎菜の目が刃物のように鋭くなる。こうなれば洗いざらい吐くまで椎菜は引いてくれないだろう。雪華は渋々口を開いた。

「その、えっと昔の知り合いの人にね、この前たまたま出くわしてから、仲良くなって……」
「あんたの母親かい」
「違う!」

 思わず声が上ずった。それを見逃してくれる相手ではない。

「じゃあ言えるだろ。言いな」

 雪華はぐっと口をつぐんだ。椎菜の目がこちらを射貫く。

「雪華」
「……お母さんの、お姉さん」

 か細い声が部屋に落ちた。椎菜の目が細まり、鋭利な光はいよいよ肌を切り裂く空風からかぜのようにその切っ先を尖らせた。

「その自称あんたの伯母とやらは信用できるのかい? 赤の他人が良からぬこと考えてあんたに近づいたんじゃないだろうね」
「ちょっと藤子さんのこと悪く言わないでよ!」

 雪華は椅子を蹴って立ち上がった。

「別にいいじゃん! 椎菜に止める権利ある? 何のつながりもない、イタチの椎菜に! 藤子さんはお母さんの姉だもん。むしろ赤の他人って言うなら椎菜のほうでしょ!」

 雪華は肩で息をしながら、椎菜を見、そのまま凍りついた。
 椎菜の顔には怒りはなかった。どんな激情もありはしなかった。ただ凪いだ夜の海のような哀しみがそこにあった。

「そうだね。私とあんたの間には何のつながりもない。それは事実さ。悪かったよ。ついあんたの母親気取りで余計な口を聞いちまった」

 椎菜は立ち上がった。

「待って、しい」
「ちょうどタイミングもいいことだし。さて、赤の他人の私は退散しようかね。雪華もどこへなりとも行けばいい。私は止めないさ」

 伸ばした指先は空をきって、虚しく虚空をかいた。少しして母が出ていくときと同じ音がした。
 雪華は冷たい床にへたりこんでしばらく閉じたドアを呆然と見つめた。


「雪華」
「なに」

 雪華は視線だけを京花に投げた。京花は珍しく意を決した顔で、重々しく口を開いた。

「雪華の問題だと思ったからさ、言うのためらっていたんだけど、もう看過できないから言わせてもらうね。雪華、椎菜さんと何かあった?」

 雪華の肩がびくりと跳ねた。

「……別に、何も」
「うそ。だって最近雪華の口から椎菜さんの名前出てこないじゃん。一日一回は聞いていたのに、ここ一週間一言も椎菜さんのこと口にしないもの。喧嘩でもした?」

 口調は淡々としているのに、覗きこむ顔はどこまでも案ずるものだったから、雪華の視界はあっという間にぼやけていった。

「場所かえよっか」

 暖かい手が背をさする。雪華は俯いたまま首肯した。


「ここなら滅多に人こないから大丈夫」

 京花が案内したのは使われているところを見たこともない空き教室だった。物置と化した空き教室には使わなくなった机やら段ボールやら丸められた大きな画用紙やらが雑多に積まれていた。足を踏み入れると、埃が舞った。
 軽く床を払って京花は腰を下ろした。そして横をぽんぽんと叩く。

「話せそう?」

 雪華は一度だけ頷いた。
 あの後、雪華は一晩待った。椎菜は帰ってこなかった。雪華はちっとも変わっていなかった。森に放り出されて一人べそをかいていた子どもから何も変わっちゃいなかった。
 一人で迎えた朝は寒くて、耐えらなくて。結局雪華が頼ったのは藤子だった。
 不幸中の幸いというべきか、藤子の家は数駅離れたところにあり、高校に通えない距離ではない。いくらか早起きしなければならなかったが。
 そのようなことを感情がとっちらかった頭で話した。要領は得ないし、声は嗚咽が混じって聞き取りづらいことこの上ない。だが京花は一度も遮らず、ただずっと背中をさすっていた。

「そっか。でも一度戻ってみたら? 椎菜さんも戻ってきているかもよ」
「そうかな……」
「そうだよ」

 そのとき予鈴が鳴った。はっと雪華は青ざめた。

「時間やばくない? 授業始まっちゃうから早く戻りなよ」

 このままでは京花まで授業に遅れてしまう。雪華の顔は到底人前に見せられないからここにとどまるとしても、真面目な京花が無断欠席などすれば、教師たちは目をむくだろう。

「いいよ。授業なんかより雪華のほうが大事」
「わあ、京花が優しい。明日は雨かな」
「下手くそな冗談で誤魔化すくらいなら、その顔なんとかしたら?」

 埃っぽい床に小雨が降った。寄り添う温度は暖かかった。


 流石に午後の授業全部をすっぽかさせるわけにはいかず、何とか京花の背を押し、雪華は一人ぼんやりと空を眺めていた。立てつけの悪い窓を開けると涼風が頬を撫でて、泣き疲れた頭を冷やす。
 そのとき黒い点が切り取った青に入りこんできた。それはどんどん大きくなってついに目の前までやってきた。

「やっと見つけたよ。雪華、あんた他の人間のところに行くって本当かい?」
「ヤタさん……」

 涙にぬれた雪華を見、ヤタは大きく目を見開いた。

「なんか訳ありみたいだね。でももう椎菜も限られた時間しかないんだから、何も今離れようとしなくたっていいじゃないか」
「待って。ヤタさんいまなんて言ったの」

 不穏な言葉にぎょっとすると、ヤタは目を瞬いたがすぐに苦笑した。

「おや、何も言ってなかったのかい。まあ椎菜も意地っ張りだからね。言わないか」

 そのまま飛び立とうとするヤタの足を雪華は掴んだ。

「ちょ、ちょっと足は止めておくれよ」
「待って。限られた時間しかないってなに」

 ヤタは必死に羽をばたつかせていたが、雪華がなんとしても離さないと見るや、桟に足をつけて大人しくなった。

「だってどうみてももう椎菜の体は限界じゃないか。なんで人間の形保ってんだか不思議なくらいだよ」
「そんな、嘘よ! 冗談にしてもきついよ!」

 声を荒げる雪華をヤタは静かに見つめた。

「私が雪華に嘘言うわけないじゃないか。それに心当たりあるんじゃないのかい」

 長く続く咳と残すようになった飯。
 いやでも椎菜は大丈夫だって。だっていつもと変わらない顔で言っていたじゃない。
 まさか。まさか――

「あるみたいだね」
「ヤタさん、椎菜どこにいるの!?」

 小さな体を揺さぶって雪華は叫んだ。

「この前みかけたときはあの廃寺にいたよ」
「ありがと!」

 そろそろホームルームが始まる時間だが、そんなことに構ってはいられない。雪華ははじかれるように駆けだした。

 初めて会ったときは何もかもが大きくて目に見える全てのものが恐怖の対象だった。でももう今はその正体を知っている。お化けだなんだと怖がることはない。
 それでも道なき道を進むのは骨が折れた。しかも記憶はおぼろげで、覚えているとは到底言えない。
 だからほとんど倒れかけの構造物が現れたときは奇跡だった。

「椎菜!」

 静かな森に雪華の声がこだまする。返ってくる言葉はない。
 まさかもう離れてしまったのだろうか。雪華の心にひたひたと冷水が迫ってくる。そのときだった。
 物陰からお月様色の塊が飛び出た。月光に輝いていた毛はすっかりくすんで、体も目に見えてやせていた。

「椎菜!」

 しかし彼女は振り返ることなく森の中に消えていく。

「ちょ、ちょっと待ってよ! ねえ椎菜」

 獣の足は止まらない。二人の距離はどんどんひらいていく。

「ごめんなさい! 赤の他人だなんて思ってないから!」

 その名称は自然に口から滑り出た。

「お母さん!」

 獣の足が止まった。ぐっと歯を嚙みしめるかのように顎の筋肉が盛り上がった。

「なんでこんなところまで追いかけてくるんだい。どこへなりともお行きと言ったじゃないか。聞き分けのない娘だね」

 そう呟くと再び茂みの中に消えていく。

「まって、まってよおかあさん。ねえ、おかあさんってば」

 必死に走った。草で肌を切られようが、構わなかった。転んで膝をすりむいても、制服が汚れても構わなかった。走って走って走り続けて。
 その手が月色の毛をつかまえることは、なかった。


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