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【小説】ブレイン・ペット 第1話

十年前、世界を恐怖の渦に陥れた病「空遊病」。それは隕石と共に飛来した寄生虫によるものであり、感染者は脳を侵され最後には死に至る恐ろしい病だった。
しがないサラリーマンの男はある日、根絶したはずの寄生虫に感染してしまう。しかしなぜかそれはこぶとしてとどまったまま、体にも異常はない。
それどころかそれに寄生されてから人生が上向いていく。
男はそのこぶを「ブレイン」と名付けて親しみすら覚えるようになった。
だがある日「宿主を操る寄生虫」の動画を見つけ、果たして今の自分の意思は本当に自分だけのものなのだろうかと疑心暗鬼にはまっていく。
生に向き合う寄生虫×ホラー小説

『世界を恐怖の渦に陥れた恐るべき感染症、空遊病根絶宣言から今日で十年。本日はその恐ろしさとなぜ根絶できたのか。その軌跡に迫ります』
 ビルの大画面に映ったニュースキャスターが真面目くさった顔で原文を読み上げている。
 雨上がりの街は湿気が辺りを覆い、上着を脱いでも汗ばむほどだ。男は袖を捲り上げた。
 滑らかな白い皮膚の上に赤い点がぽちんと座っている。
「蚊か? ったくついてないな」
 まだ痒みはないが、この様子なら家につく頃には耐え難い痒みに襲われることだろう。
 男は嘆息を落とし、雑踏の中へと消えていった。

 意識が浮上する。
 ベッド脇の時計の文字盤はアラームが鳴る五分前。
 空は既に朝の爽やかな青の裾がひらめいているが、太陽はまだ山の向こうだ。男は寝ぼけまなこをこすりつつ、アラームの設定をオフにした。
 日が昇るのが早くなると自然に目が覚めるのも早くなるのは脳の仕様なのだろうか。もしそうであるならば、早急に改善してもらいたい。
 ――いや、元々脳は欠陥だらけか。
 たとえば何気ないところで上司の叱責がよみがえってくるだとか、重要な場面で過去の失敗を思い出し汗が止まらなくなるだとか。
 今にもシーツと密着しようとする背中を無理やり起こし、男は重い息を吐いた。
 何気なく腕を見やると、昨日の点がドーム状に膨らんでいる。しかしその割には痒みがない。
 寝ている間に痒みのピークを越えたのかもしれない。まあどうでもいいことではあるが。
 男は再び嘆息を落として今度こそベッドから起き上がった。

「おい今日までにこの資料完成させとけと言っただろう!」
「大変申し訳ありません。できる限り早急に対応いたしますので」
 バーコード頭が唾を飛ばす。それに対しペコペコ頭を下げるあかべこが自分だ。
 ここで昨日退社寸前に押しつけられた仕事なんて今日の朝一に提出できるはずないだろ、などと口ごたえしてはいけない。
「ったく本当に使えねえよな。お前、うち来て何年目だよ」
「すみません、すみません」
 周囲はのっぺらぼうのように青白いパソコンに向き合っている。時おり投げられる視線は機械よりも温度がない。
「はあ、もういいよ。席戻って」
「すみません。失礼します」
 帰り際、「本当に役立たずだな」と石が飛ぶ。頭に当たる。血が流れる。傷だらけの体を引きずって席に戻る。昨日も一昨日も一か月前も一年前も同じことの繰り返しだ。心臓が握りつぶされるように収縮したが、それもいつものこと。
 擦り切れたテープを繰り返し再生しているように、怒られる、謝る、嫌味を言われるの繰り返し。変わらない日常。少しずつ彩度が落ちていく日々。本日も通常運転。
「ドンマイ。今日課長機嫌悪いらしくってさ」
 隣の加藤がポンと肩に手を置いた。お気に入りのキャバ嬢がすりつけたであろう甘ったるい香水が鼻につく。
 今日だけじゃなくていつもだろ、と悪態つこうとする口を寸でのところで押さえつけ、男は曖昧な笑みを浮かべることに成功した。
「お、その腕どうした?」
 まくった袖の下から赤い点がぽちんと浮かんでいる。
「ああ、蚊に刺されたみたいでさ」
「まさか空遊病じゃないだろうな~」
「そんなわけないだろ。大体、あれがなくなってから何年経ったと思ってんだよ」
 ヘラヘラ笑う加藤に男は眉をひそめた。
「ちょっと、冗談でもやめてくださいよ」
 そこに硬い女の声が割りこんだ。
 事務の佐藤だった。レンズの奥のつり目はきつい光をたたえている。痩せ気味の体にいつもカリカリしているので、社内では密かにニワトリ女と呼ばれている女性だ。
「なんだよ、ちょっとしたジョークだろ」
「それ、空遊病で身内を亡くした人の前でも言えます? 震災を揶揄するのと同じですよ」
 へらりと苦笑する加藤の胸に正論の刃が無情にも突き立てられる。加藤の表情が凍りついた。
 加藤は口をぱくぱく開閉して何か言おうとするも出てくるのは無意味な音だけだ。
 しばらく無言でこちらを見下ろしていた佐藤はそれでは、と靴を鳴らして去っていった。後に残るのは居心地の悪い空気だ。
 しかしこう言っては悪いが、話を切り上げるのにはちょうどよかった。いつまでも油を売っていれば、また課長から雷が落ちる。男はキーボードに指を置いた。
「本当に空気読まないよな、ニワトリ女は。知ってるか? あれ、噂じゃ父親が空遊病にかかったらしいぜ? もしかして、あの女も卵持ってたりして」
 こえ~とわざとらしく身を震わせる加藤に、男は顔をしかめた。流石に人の生き死にをからかうのはやりすぎだ。
「もうやめとこう。お互い仕事あるし」
「ま、そうだな。お前も頑張れよ」
 ひらひらと手を振って加藤もパソコンに向き直る。
 しばらくカタカタとキーボードを叩く音だけが響いた。

『昨日は空遊病根絶宣言から十年という節目を迎えましたが、かつての爪痕は今でも影を落としています』
 社内食堂は古臭いわりにいつも混んでいる。メニューのバリエーションは少なく、味も不味くはないが、やみつきになるほどでもない。当然、季節ごとにメニューを一新するような工夫もなく、化粧っけのないおばちゃんが一人で切り盛りしている。
 A定食と銘打った、ひねりも何もない生姜焼き定食を持って、運よく空いていたテーブルの端に席をとった。しかも一番近くの席の人とちょうど一つ席を挟んでいる。
 すぐ隣に他人がいないので幾分か息がしやすい。ほっと胸をなで下ろして、生姜焼きに手を伸ばしたそのときだった。
「また空遊病の話してるよ。もう聞き飽きたよな」
 隣の椅子に加藤がどかっと腰をおろした。男はさりげなくトレーをずらして、加藤から距離をとった。
「でも実際に大事になったし、有名人だって何人も亡くなっただろう。俺たちの生活にも影響でたし」
「ま、たしかに自粛だなんだって異様な空気だったし、山登りなんてもはや殺人犯みたいな扱いだったけどさ。でももう十年だぜ? 隕石についてきた寄生虫たちはみんな死んだんだ。今さら何を怖がる必要があるんだか」
「怖がるというより当時のことを振り返ってあのとき得た教訓を次に活かそうとしているんじゃないのか」
 そう言うと加藤は心底つまらなさそうな顔をした。
 テレビは地球上初めての犠牲者となったNASA職員の顔写真を映し出している。その右側にもう数え切れないほどみた、ダニのような生物の顕微鏡写真が載っていた。
『アメリカに落ちた隕石から検出されたこの謎の寄生生物は、体に侵入するとき、ドーム状の腫脹を作りますが、これは一般的な虫さされと見分けがつきません』
 アナウンサーが台本通りの台詞を読み上げていく。腕の腫れは少し大きくなっていた。

 虫さされの腫れは三日経ってもなかなかひかなかった。しかし痒みも痛みもないものだから、男はその存在をすっかり忘れていた。
「大丈夫ですか」
 顔を上げると佐藤が気遣わし気に覗きこんでいた。無愛想な彼女にしては珍しい。だが一体何が大丈夫でないのだろうか。
「腕です、腕」
「腕? ……うわ」
 腕を見れば、ドームに縦線が一本入っている。それは底まで到達していないものの、皮膚がきれいに裂けて、表皮の隙間から肉が垣間見えていた。
「もしかしたら蚊にさされたところ、気づかないうちに何かで切ってしまったのかもしれませんね」
 ははは、と笑ってみせたが、佐藤はピクリとも口角を動かさなかった。SF小説に出てくるアンドロイドよりも無表情に男を見下ろしている。
 感じが悪い。もしかして傷を見るのが嫌だから早くしまえとでも言いたかったのだろうか。いやだが今まで気づかなかったのだから不可抗力というものじゃないか。なぜ自分が責められなければならないのか。
 困惑が怒りに変わりかけたそのとき、目の前に細長い楕円形が差し出された。
「よかったらこれどうぞ」
 それは一枚の絆創膏だった。男はぽかんと口を開けたまま固まった。きっと間抜けな顔を晒していたことだろう。
「傷、あんまり放置しちゃだめですよ。ばい菌が入るかもしれませんから」
 返事を返したときには、彼女の背が扉の向こうに消えていくところだった。無論、引き留める暇もない。
「おいおい、いつのまに佐藤さんといい感じになってんの~。……ってマジでキモいことなってんな。大丈夫そ?」
 腕を回して下品な笑みを貼り付けた加藤は傷口に目をやった瞬間、露骨に顔をしかめた。
 まあたしかに血管やら体液で濡れた真皮やら、普段皮膚で覆い隠されている己のナカが見えるたびに、一種のグロテスクを感じて目をそらしたくなる気持ちはわかる。特にまじまじと見たいものでもない。
「痛みはないし、見た目よりは平気だぞ」
 男はそう言いながら、隠すように絆創膏を傷口に貼り付けた。人工的な茶色の離れ小島が肌にぽつんと浮かんだ。
「ふうん。てか佐藤さんといい感じになったら教えろよ~? 同期のよしみだろ?」
「残念だがそんな展開は一生こないだろうな」
「またまたぁ~。意外とあるかもしれないじゃん?」
 しつこく絡んでくる加藤を雑にあしらいつつ、男はパソコンに向き直った。
 仕事は山とあるのだ。ただでさえ目をつけられているというのに、能天気にお喋りに興じている姿を見られたら、何を言われるかわかったものではない。
 キーボードの軽い音が響き始めると傷も絆創膏も佐藤のことでさえ、あっという間に流れ去ってしまった。

 帰宅すると体が重くなる。一日の疲れがどっと押し寄せてきて、毎度玄関にベッドがあればいいのにと思ってしまう。帰った直後に柔らかな毛布に包まれて眠ることができればどんなにいいか。
 だが腹は減る。食べ物を入れなければ体は動かない。
 時間も余裕もないのに、わざわざ食事という行為のための余力を割かねばならないのは一種のバグではないだろうか。
 コンビニで買ってきた弁当を開ける。冷え切ったそれらをつまもうとしたそのとき、ふいに膨らんだ絆創膏が目に入る。
 そういえば傷口は塞がっただろうか。
 男は純粋な興味でウレタン不織布をめくってみた。
「うわ、なんだこれ」
 男は思わずのけぞった。そこにあったのには癒合しかけた一本の線などではなかった。
 ぷっくり膨らんだこぶに走る無数の線。肌に刻まれた切り口からは薄っすらと細かい血管が走っているのが見える。その姿はまるで脳みそのような――
『まさか空遊病じゃないだろうな~』
 ぞわりと怖気が走った。
 いやそんなはずはない。あの病は根絶したはずだ。そもそもあれは侵入後すぐに血管にのって脳に向かう。皮膚にとどまるなど聞いたこともない。
 でももし空遊病だったら?
 まず間違いなく殺される。かつて世界を震撼させた恐ろしい病が未だ残っているとするならば。そしてそれが今、自分の身に宿っているとするならば。
 政府は何が何でも存在を抹消しようとするだろう。まだ初期段階なら宿主ごと殺してしまえば、感染の危険もない。
「い、いや他の病気かもしれないし、たまたま弱くなった皮膚に傷がついてこんな模様になったかもしれないし」
 そうだ。そうに違いない。
 男は震える手でパソコンの検索バーに単語を打ちこんだ。
「空遊病 症状 肌」と。
 即座に厚生労働省のホームページが現れる。
 クリック。
『空遊病は20××年を最後に地球上から消え去り、その後2年の監視期間を経て、WHOが――』
 つらつらと並ぶお堅い文面に目をすべらせる。
『虫さされのような腫れが数日続き、原因生物が血管を通じて脳に移行すると、一か月~半年をかけて徐々に高所を好む、ぼーっと上を見上げることが多くなる、空を泳ぐような仕草をみせるなどの症状が表れます。末期には項に瘤ができ、それが破裂することにより虫体が周囲に飛散し、罹患者は出血多量で死亡します』
 もはやそらで言えるほど覚えのある文面だ。一時期、ニュースで毎日のように報道されていたからだ。十年経った今も、あのときの異様な緊張感は昨日のことのように思いだせる。
 感染すれば致死率百パーセントの、宇宙より飛来した寄生生物による未知の感染症と世界規模のパニック。
 初動が悪かったのも災いした。最初の感染者が亡くなったのは観光名所としても名高い大渓谷で、突然倒れた彼を救助しようと集まったのは博愛精神あふれる人々。だが皮肉にもその善人たちが次の犠牲者となった。
 最悪は続く。
 病理解剖からその未知の生物から検出されるまでの数日間の間に、感染者の一人が献血を行い、感染が拡大。
 ただし、このときはダニ似の新種生物が発見されたものの、この生物が死因を作ったのすら定かではなかった。
 最初の犠牲者が奇怪な死を遂げてから一か月後。とある患者が奇妙な仕草をみせるようになった。天に向かって両手を広げ、躍るような、泳ぐような見たことのない動きに、看護師たちは首をかしげたが、微笑ましいものを見る目で見守った。
 その患者があまりにも楽しそうだったからだ。
 彼は病を患ってからずっと塞ぎこんでいた。誰も見舞いに来ない真っ白な病室で一人きり。入院した当初は三十代くらいの、まだまだエネルギーあふれる顔つきだったのに、無味乾燥した日々を過ごすうちにすっかり老けこんでしまい、もはや死にかけの老人のようだった。
 そんな彼が今、恍惚を浮かべて空に手を伸ばしている。
 幸福だけを塗りたくった表情で笑うその様は、穢れを知らぬ無邪気な稚児によく似ていた。
 しかしその平穏は薄氷の上にできたまがいものだった。
 突如項にできた腫瘤を看護師が発見したその日。その患者は屋上で鮮血を散らして亡くなった。
 その後も立て続けに同様の不審死が複数の州で発生。全ての遺体から謎の寄生生物が認められたことから、ようやく世界はこの恐るべき死神の存在を知ったのだ。だが対策を施すにはあまりに遅かった。
 感染者の一人は観光客で、帰国してから発症。複数の医療従事者や、感染者の家族、感染者が亡くなった場所に居合わせた人々、また亡くなった場所に訪れた人々にも感染者が現れた。
 低確率とはいえ、血中に含まれた虫体を蚊が媒介することものちになってわかった。
 最も最悪だったのは隕石から流れついたがゆえに耐久性が凄まじかったことだろうか。普通の消毒程度では虫体は死滅しない。脳で増殖しているときは別だが、彼らを殺すには純度ほぼ百パーセントの純水が必要だった。
 感染者は各国で確認されるようになった。ウイルスのように馬鹿みたいに病原体をまき散らすわけではないので、感染者が爆発的に増えるわけではないが、如何せん発症すれば必ず死ぬ不治の病。世界が恐慌をきたすのは至極あたり前のことだった。
 それはもちろんこの国も変わらない。初めこそ対岸の火事と悠長に構えていた国民たちも海外旅行者の一人が発症してから一転した。
 連日、連日流れるニュース。二転三転する事実。錯綜する情報。SNS上では自称医者やら有名インフルエンサーやらが噓か真かもわからない真偽不明の噂を垂れ流し、フェイクニュースに踊らされ、虫さされ薬を買い占める人々や感染者が高所を好むという性質から登山控えや登山者狩りというものまで起きた。草むらに潜伏することが多いという情報を真に受けて近所の山に火を放った者までいた。
 原因生物の由来が米国に落ちた隕石由来だと判明したのは、既にパニックが始まった後だった。
 正式にその寄生生物に名がつけられ、和訳した名前――たしか脳網虫だったか――も報道されたが、マスコミが勝手に命名した「空遊病」が既に世間に浸透していたため、定着することはなかった。
 様々なサイトをクリックしてもやはりどのサイトも似たようなことしか言わない。ページをめくるにつれてどんどん真偽定かではない情報も増えてきた。
「やっぱり変な虫にさされたか、こすれて傷ができたかどちらかなんだろ」
 ニュースや加藤のせいで頭が変に関連づけただけなのだ。きっときのせいに違いない。明日も仕事がある。
 パソコンを閉じようとしたそのとき、あるサイトが目に入り、男は固まった。
 それはある研究論文を記載したもので、その題名はこのような言葉で綴られていた。
『脳網虫が皮膚表面にとどまった一症例についての報告』

第2話

第3話

第4話

第5話

第6話

最終話


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