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【小説】のけものけもの(3)

二人暮らしを始めるため、数駅離れたミケを訪ねにいった椎菜と雪華。ようやく始まった二人暮らしだが、雪華の顔は浮かなくて――

上記の話から続く少女と鎌鼬のでこぼこ親子話。

 電車内の人はまばらだった。雪華は背の高い椎菜の影に隠れるように扉付近のスタンションポールを掴もうとしたが、椎菜は有無を言わさず、一番端の座席に座らせた。そしてその横にどっかりと腰を下ろした。手触りのよいシートとほのかな温もりが雪華を包む。
 やせすぎの少女といかにも素行の悪そうな女の二人組はさぞ目立ったことだろう。しかし厄介事に巻きこまれたくないのか、はたまた椎菜の眼光に圧されたのか誰も声をかけることはおろか、訝しげな視線を投げることすらなかった。
 数駅ほど過ぎたあたりで椎菜は電車を降りた。看板には「木天蓼駅」とある。降りたのは雪華たちの他に数人だけだった。
 駅前にはコンビニと飲み屋が数軒立ち並んでいる。空が徐々に茜色に染まっていっているが、まだ営業時間には早いためか、コンビニを除いて皆明かりを落としていた。その先には商店街もあったが、多くはシャッターを下ろし、閑散とした空気が漂っている。
 椎菜は駅を抜け、商店街を抜け、いくつかの角を曲がった。周囲はもうほとんど住宅街で窓にはぽつりぽつりと明かりが灯り始めていた。
 ふいに椎菜が足を止める。雪華もつられて足を止めた。
 家々の中にそれは自然に溶けこんでいた。周囲の白いコンクリートの肌とは異なる落ち着いた煉瓦の肌。艶やかな黒い扉には、昼寝をする猫をかたどった看板がかけられていた。
 「カフェ 猫又」。柳の葉ように流れるような細い字が猫の胴体に描かれている。

「あいつに借りをつくるのは死んでもごめんだったんだけどねえ」

 椎菜の口調は苦々しい。店の扉を見据える眼光が剣呑なのは気のせいではあるまい。

「えっと、ごめんなさい」
「謝るんじゃないよ。謝ろうが謝らなかろうが、やることは変わらないんだ」

 気まずい沈黙が落ちた。こういうときに限って通りがかる人はいない。
 肌をさす沈黙に耐え兼ね、雪華はドアノブに手を伸ばした。が、その手はドアを押す前に止まった。
 扉にはめこまれたガラスの先に「close」の文字が躍っている。雪華は眉を下げて椎菜を見上げた。
 椎菜は鼻を鳴らし、荒っぽくドアを叩いた。

「おいいるんだろ。相変わらず嫌味ったらしい真似してないで、さっさと姿を現したらどうだい」

 すると何の前触れもなく扉が開いた。椎菜が抱き寄せたおかげで迫ってきた板に鼻先をぶつけずに済んだが、雪華の心臓は飛び上がった。

「やあ待っていたよ椎菜。ずいぶん面白いことになったそうじゃないか」

 顔を出したのは中性的な面立ちの人物であった。流れる長髪を一つにまとめ、涼やかな切れ長の目の下のほくろが妙に色気を誘う。
 果たして男か女か。雪華には判別できなかった。声は低いが、椎菜もわりと低めの声であるし、かと言って女特有の柔らかさがあるかと言われればそうでもない。というより身にまとっているのは白シャツに黒いエプロンと、体のラインを強調するような服ではないので余計に判断がつかなかった。
 その霞を掴むような謎めいた雰囲気がいっそう色を煽るような艶がある。無意識のうちに雪華は唾を飲みこんだ。
 真意のつかめない微笑を口元に浮かべ、その人物は片膝をついた。右手が差し出される。

「で、君が雪華ちゃんか。大三郎から聞いているよ。僕の名前はミケ。これからよろしくね」
「え、あ、はい」

 どもりながら握手に応じようとしたが、それが叶うことはなかった。椎菜が雪華の手首を掴んで強制的に引きはがしたのだ。

「御託はいいから中に入らせな。まだ日が落ちたら冷えるんだ。雪華の体が冷えたらどうするんだい」
「ふふ、これは驚いた。あの椎菜がねえ。そんなにこの子のことが大事?」

 じろっと椎菜が睨みつけると、ミケは肩をすくめた。

「ああもうそんなに怒らなくてもいいだろうに。久しぶりの逢瀬じゃないか。それとも椎菜は僕と顔を合わせるのはきらい?」

 小首をかしげてミケが椎菜を上目づかいで見た。普通の人がやればあざといと顔をしかめられる、下手をすれば引かれかねない仕草でも、ミケがやると妙に似合う。だが椎菜は盛大に顔をしかめてしっしっと手を振った。

「気色悪い言い方するんじゃないよ。逢瀬だなんて使う間柄じゃないだろう。あんたと番になった覚えなんぞないよ。見てごらん、鳥肌がたった」

 椎菜が腕を突き出す。なるほどたしかに肌が粟立っていた。
 ミケはにっこりと笑顔をつくった。

「いやあやっぱり律儀に反応してくれる椎菜はからかいがいがあるね。ヤタはしつこくすると流すし、大三郎はあそこまで人が好いとからかうのもためらわれてね。椎菜が一番いい塩梅だ」
「褒められてもまったく嬉しくないね」
「まあとりあえず中に入りなよ。そこで説明しよう」

 真鍮の呼び鈴が軽やかに二人を迎い入れた。


 温かな橙色のランプがカウンターを照らす。店内は至るところに猫の置物やら猫モチーフの小物たちがひしめいていて、それは食器も例外ではない。雪華の前に置かれたのはちょうど三毛猫が座っていて、持ち手のところが尻尾に見えるように描かれたカップだ。
 湯気がたつ茶色の液体は甘い芳香を漂わせている。しかしその水面に映る雪華の顔は浮かないままだった。

「既に部屋はおさえてあるよ。よかったね、アパートの大家さんが僕の店の常連で」
「はあ、一応お礼だけは言っとくよ」

 椎菜がこめかみに手をあててため息をついた。

「まあそれはいいとしてだ。椎菜、君どうするの? まさか子ども一人育てるのに職一つ就かないわけじゃないよね。うちでよかったら一人くらい雇えるけど?」
「冗談じゃないよ。あんたの下について働くなんてごめんだね」

 ミケはおやおやと袖口で口元を隠した。

「それじゃどうするんだい? 一応猿じいのおかげで君の戸籍はできたわけだけど、職歴はゼロだよ。その見た目で雇ってくれるところはなかなかないと思うけどねえ」

 椎菜の強い光をたたえた瞳が揺れ動いた。目を伏せ、椎菜はぼそぼそと答えた。

「……何かしら探せばあるだろ」
「おっと、人間の世界をなめちゃいけないよ椎菜。この国の人間たちは一度普通から外れた者たちには厳しいんだ。這い上がるには相当の苦労をする。その子のためを思うなら何をすべきか答えは決まっていると思うけどね」

 目を細めて椎菜を見つめるミケの目に、獲物を捕らえた獣のような鋭利な光が宿った。
 ぐっと唇をかんだまま椎菜は黙りこんでいる。雪華は二人の顔を交互に見やった。
 ミケは笑みを深めるだけで、椎菜は視線すら合わない。雪華は椎菜を庇うように椎菜を押しやって身を乗り出した。

「えっと、ミケさんあの」

 だが最後まで言うより先に椎菜の手が肩を押した。

「……少し考えさせておくれ」
「まあ好きなだけ悩みな。雪華ちゃんもごめんね。ちょっと悪ふざけが過ぎちゃったみたいだ。お詫びにココアをタダにするから許して?」

 申し訳なさそうに眉を下げて謝られれば、雪華も槍を引っこめる他ない。こくりと頷いて甘い液体をすするしかなかった。

「あ、おいしい」

 雪華は目を見開いた。とろりと喉を通る甘い液体がこわばった体をほぐしていく。

「気に入ってくれたのならよかったよ」

 ミケは微笑み、すいっと椎菜に視線を移した。

「椎菜と違って素直でいい子だね。素直な子は好きだよ」
「こんなガキ相手にも色目使おうとするんじゃないよ。どうせ心にもないくせに」

 ミケは目を細めた。口元は先ほどと同じ形なのに、どこか妖しい影があった。

「まったく椎菜は言葉づかいが荒いなあ。雪華ちゃんはそのままいい子で育ってね」

 ミケの視線から逃れるように雪華は椎菜の腕に身を寄せた。

「あらら、振られちゃった」

 まったく残念そうでない声が降ってきたが、雪華は顔を上げることができなかった。

「あんたの性格の悪さが滲み出たんだろ。ほら雪華、あんたもさっさと飲んじまいな。早くしないと性悪猫に頭から食われちまうよ」
「まさか。僕だって食べるものを選ぶ権利くらいあるさ」

 雪華は大慌てでカップを傾けた。火傷はしなかったものの、喉を滑り落ちる拍子に一部が気管に入りかけて盛大にむせる。

「何やってんだいあんたは」

 椎菜が呆れながら背を叩き、ミケがくすくすと笑う。雪華は頬を真っ赤に染めて俯いた。


「さ、ここの二〇一号室が君たちの住まいだ。布団とか必要最低限のものは用意してあるそうだよ。よかったね」

 ミケが案内したのは店から徒歩十分ほど歩いたところにあるアパートだった。事務所らしき建物に挟まれて、闇の中に身を沈めるかのようにひっそりと佇んでいる。
 コンクリートの壁は、元は白だったのであろうが、今やすっかり灰色に汚れて当時の面影は見る影もない。錆びついた階段は踏みしめるたびに耳障りな甲高い声を上げた。

「それじゃ後はがんばって。あ、明日大家さんには挨拶に行きなよ。急なお願いを受け入れてくれたんだ。礼くらいするのは筋ってもんだよ。事務所の隣に住んでいるからね。狐塚って表札がかかっているからすぐわかるはずさ」

 ミケは椎菜の手に鍵を落とすと、さっさと元来た道を帰っていった。青白い電柱の防犯灯に映った影は二本にわかれた尻尾が揺れていた。

「……とりあえず入るかね」

 雪華は頷いた。
 扉が開いて二人を受け入れて再び閉まる。軋んだ蝶番の音は、雪華が住んでいたあの家と同じ音がした。


「意外と上手くやってそうじゃないか二人とも」
「あ、ヤタさん」

 ベランダにとまったのは見覚えのあるカラスだ。
 あれからひと月経った。大家への挨拶やら必要なものの買い出しやら役所に提出する細々とした書類やらここ最近まで目を回すほど忙しかった。
 ミケに金を借りたり、顔を出した大三郎に家具の搬入を手伝ってもらったり、転校の手続きをしたりやることが多すぎて母のことを想う暇さえなかった。

「ちょっとヤタ、おしゃべりに来たんだったら手伝いな」

 台所に立った椎菜が怒鳴った。同時にぐしゃっと卵が割れる音がした。

(きょうも卵かき混ぜたやつかな)

 猿じいが拾ったと送り届けてくれた初心者向けのレシピ本と睨めっこしながら、椎菜は毎日料理に悪戦苦闘している。まだ人間の手の感覚が慣れないらしく、卵を割るのに成功したのは一回しかない。しかもその貴重な一回は熱を入れすぎて黄身がすっかり硬くなってしまい、ぼそぼその目玉焼きを二人で半分こしたのはまだ記憶に新しい。
 ただ椎菜の包丁使いだけは素人目にみても手慣れていた。なぜ包丁だけは上手いのか尋ねると、刃物はよく使っていたからさ、と返ってきた。しかし雪華は椎菜が包丁以外の刃物を触るところを目にしたことはない。それとも獣も案外刃物を扱うものなのだろうか。

「してるじゃないか、雪華の相手を。ねえ雪華」

 いきなり巻きこまれて雪華は困惑した顔を椎菜に向けた。ここで肯定してしまえば椎菜の機嫌が下がるのは目に見えている。だがヤタの呼びかけに応えたのは雪華であって、それが相手をしていると言われればそうなのかもしれない。

「雪華、皿出しな。朝飯できた」
「あ、うん」

 雪華は弾かれたように動き出した。ぶっきらぼうだが、その声音にまだ鋭さはない。だがぐずぐずしていればあっという間によく研がれた包丁より鋭い怒声が飛んでくるだろう。
 ほかほかと湯気がたつ白米に不格好なスクランブルエッグと端が焦げたソーセージ。添えられたサラダは椎菜が職場で買ってきたものだ。期限が近いらしく何割か引いた値段で譲ってもらったらしい。
 突然訪ねてきたヤタの前には申し訳程度の水を入れた茶碗が一つのみ。しかしヤタは気分を害すでもなく、その目ににやにやとからかいの色を乗せて口を開いた。

「それでミケのところに世話になったのかい?」
「なるわけないだろ。別のところ見つけてやったさ。猿じいが持ってきたあの薄っぺらい本も役に立つもんだね」

 椎菜はヤタに目を向けることなく、米をかきこんでいる。家を出る時間は刻々と迫ってきているのだ。
 椎菜は求人誌に載っていたスーパーのパートに滑りこんだ。面接ではやはりその派手な髪色に眉をひそめられたそうだが、ひとまず裏なら問題ないだろうと裏方に回されたらしい。初めこそ誰もが不良上がりの、だらしなく不真面目な人間だと遠巻きにしていた。
 だがそれも今や鮮やかな包丁捌きによって評価は一転した。椎菜は何でも要領よくやることができたし、竹を割ったような小ざっぱりとした性格は周囲の人間に好感を抱かせるものだった。人間界の常識に疎いため、たまに周囲を驚かせることもあるようだが、わりあい上手くやれているらしい。

(わたしとは大違い)

 腹の底に鉛のような冷たくて重いものがたまったような気がして、雪華は箸を止めた。それを目ざとく見つけた椎菜が眉を上げる。

「雪華、どうしたんだい。腹でも壊した?」
「う、ううん。なんでもない」

 慌てて何度も首を振り、再び米に手をつける。だが温かい米の優しい甘さはちっとも感じられなかった。
 再び箸を動かす手が鈍くなる。
 雪華ははっと重い手を叱咤し、箸を動かした。茶碗で己の表情を隠しながら、そっと椎菜を窺う。幸いにも椎菜は気づかなかったようで、しかめっ面のまま最後のソーセージを口の中に放りこんだところだった。しかしその唇の端には米粒が一つついているものだから妙にしまりがない。
 と、厚い肉の塊が白い米粒を器用に口の中に引きこんだ。刹那、鋭く尖った犬歯が顔を覗かせる。乱雑な手つきで口を拭って椎菜は立ち上がった。

「なんだ、つまらないね。残念」
「無駄話をするつもりだったらとっとと帰んな。あんたの暇つぶしのために生きてんじゃないんだよこっちは」

 心底残念がるようにヤタは肩をすくめた。それを一睨みして、椎菜は流しに茶碗を置いた。硬い同士がぶつかる音がして、雪華の肩が跳ねる。
 たちまちヤタが眦を吊り上げたが、椎菜は視線さえよこさなかった。ヤタが慌ただしい朝のひと時にヒビを入れるより前に、雪華は一石を投じた。

「あ、そうだヤタさん。一つおしえてほしいことがあって」
「なんだい? 何でもいいな。仮にもここら一番の情報通だからね。何でも答えてあげるよ」

 一転してきらきらした目を向けてきたヤタの目を真っ直ぐ見つめて雪華は問うた。

「おかあさんの車きた?」

 ヤタが笑みを浮かべたまま固まった。その目がだんだんと翳っていくのを、雪華はじっと見ていた。

「……来てないね」
「そっか。じゃあきたらおしえて」
「ああ、もちろんさ」

 硬い声が食卓に落ちる。焦げたソーセージの苦味が舌を刺した。
 どんなに待っても母は迎えに来ない。だってもう雪華はいらない子だからだ。そんな予感が隙間風のように忍びこんでくる。
 それを振り払うように頭を振って、雪華は残りの飯を無理やり喉に流しこんだ。


「いらっしゃい。おやまた来たのかい? 君も物好きだね。そろそろ金とるよ」

 にこりと人好きのする笑みを浮かべ、しかしちくりと毒を含ませる店主に雪華は頭を下げた。微妙な時間帯であるからか客はまばらだ。暇を持て余した老人以外客はいない。

「まったく初めはあんなに怖がっていたのにねえ。どこで懐くようになったんだか」

 片肘をついてため息をつくその姿は、接客業を営む者としてあるまじき態度だ。だが不思議と怒りは沸いてこない。それはそつなく負の感情をいなす彼の技量ゆえか、掴みどころのない雰囲気ゆえか。

「はいどうぞ。今日もココアしかないけど」
「ありがとう、ございます」

 たどたどしく礼を告げると、ミケは貼り付けた微笑を深めた。
 耳が遠い老人は二人が密やかに会話を続けていても気づく素振りすらない。穏やかな午後の光が差しこむ窓辺の席に座って、ページをめくるだけだ。むしろランドセルを背負った少女が来店したことすら目に入っていないようだった。
 目の前に置かれたカップから甘い芳香が立ち昇る。それを両手で抱えて、雪華は静かにすすった。

「そんなに気に入った? ここ」

 雪華はこくりと頷いた。

「ここは、息がしやすいから」
「へえ?」

 ミケが面白そうに眉を上げた。

「だってミケさんはわたしのこと、かわいそうって思わないでしょ?」

 引っ越しをするにあたって、雪華も転校することになった。もっとも前の小学校はたった一年しかいかなくて、あとは母と時おりカレシが訪ねる程度の、あの古ぼけたアパートの一室にいたので、別れを惜しむ者もいなかったのだが。
 まだ学校に通う年齢なのだから雪華のためにも学校にはいかせるべきと、猿じいや大三郎の強い勧めで雪華は再び小学校に通うことになった。
 二年のブランクがあったため、授業についていけないことはともかく、雪華を悩ませたのはクラスメイトたちの目だ。
 制服を身にまとってもやせすぎの腕は誤魔化せない。教師に連れられて教壇の前で自己紹介したときのクラスメイトが自分たちを見る目には、明らかに異質なものに対する一種の線引きがされていた。
 好奇の目。軽侮の目。忌避の目。憐れみの目。
 目。目。目。目。
 大人たちが自分を見下ろすときの目と瓜二つの目。可哀想にと憐れんで、そのくせ自分たちとは違う世界の生き物なのだと、無意識のうちに選別するあの傲慢な目。
 大人も子どもも大して変わらない。彼らは雪華を同じ土俵で見ない。同じ生き物として見ない。あの頃と何も変わらない。
 もちろん、善意で話しかけてくれた子もいた。だが一番親切にあれこれ世話を焼いてくれた隣の席のゆあちゃんの声が耳にこびりついて離れない。

『ゆあちゃんホント優しいよねー。雪華ちゃんにも話しかけてあげてさー』
『だって雪華ちゃんって訳アリの子でしょ? ああいう子ってさ、多分家に問題かかえている子なんだよ。だからちょっとくらい優しさをめぐんであげなきゃかわいそう』

 甲高い笑い声を上げながら遠ざかっていく複数の足音。柱の影で本人が立ちすくんでいることも知らずに。
 かわいそう。さまざまな人からかけられたこの言葉が嫌いだった。
 勝手に憐憫の情を抱いて、勝手に下に見て、己が気持ちよくなるためだけに雪華たちを踏み台にして利用する。
 カップを置いて薄い体を抱きしめた。やはり寒い。ココアは温かいのに、自分の体は全然暖かくない。

「まあそうだね。僕は君が可哀想だなんてこれっぽちも思わないよ。境遇はたしかに憐れむべきものはあるけど、だからといって君を特別扱いしてやる義務なんてないわけだしね」

 ミケは食器を洗いながら言った。その目が映すのは洗剤の泡に埋もれた皿だけで、雪華の顔すら映らない。
 ミケのこういうところが好きなのだ。本気でどうでもいいと思っているから、憐れみの欠片すら浮かべない。それでいて拒否もしない。ただ己の心のままに生き、ときどき気まぐれに他人に目をかける。そんな生き方が好ましかった。
 同情でも憐憫でもなく、普通に接してくれる人はほとんどいない。だからこそ、学校帰りには必ずこの喫茶店の扉を叩いた。
 初めての学校が終わり、どっと疲労感に襲われて電柱に寄りかかっていたあの日。目が合った瞬間、扉を開けて手招いたくせに、何一つ雪華から聞き出そうともせず、ココア一杯出したと思えば、飲み終わったら帰りなと飲み終わった途端、本当に店からつまみだした男。
 彼がとことん自分本位で動くのは本性が猫だからだろうか。

「ミケさんって、人間きらい?」
「ああ、嫌いだよ。大嫌いさ人間なんて」

 やはり視線も上げずにミケは言い放った。

「じゃあなんでお店やってるの? お店あけてたら大きらいな人間きちゃうけど」
「まあいろいろあるのさ、僕にもね」

 引き伸ばした半月を組み合わせような瞳孔と一瞬目が合った。その目に渦巻いていたのは燃え盛る憎悪。その奥に懐古の情と干したての毛布のような優しい何かが横たわっていた。
 が、それらはミケが目を伏せたことによって見えなくなってしまった。再び瞼を上げたとき、その目はいつも通り真意の読めない切れ長の目に戻っていた。もちろん瞳孔は雪華と同じ丸で、獣らしさはどこにもない。

「じゃあ椎菜にお金は耳揃えて返してねって伝えてくれる?」
「あんまり身よりのない母子をいじめるのはゴクアクニンだって、ヤタさん言ってたよ」
「酷いなあ。利子もつけない、期限も設けない、返金以外の要求もしない。最高の貸し手だと思うけどね。なんだったらもっと無茶な要求したっていいのにさ。今からしてあげようか?」

 弧を描いた唇から薄い舌が覗いた。ひたとこちらを見据える瞳から目が離せない。まるで今からとって食べられる。そんな錯覚が雪華を襲う。
 捕食者が舌なめずりをして獲物の首筋に牙を突きたてる、そのときだった。

「三毛さん、お会計お願いできるかのう」
「ああ、狐塚さんもちろんですよ」

 一瞬で妖しい空気を霧散させたミケは穏やかな笑みを浮かべてレジに立った。唯一この店にいた先客だ。呼び鈴が杖をつく老人を見送った。

「雪華ちゃんもそろそろお家に帰ったほうがいいんじゃないかな。椎菜も心配するよ?」

 完璧な笑みを向けられて雪華は勢い良く立ち上がった。勢いがありすぎて椅子が数歩後ずさった。くすくすとミケが笑う。慌てて椅子を元の位置に戻して、雪華は駆け出した。

「椎菜によろしくね」

 軽やかな呼び鈴の音と共に、ミケの言葉が走る雪華の背を追いかけた。


 脇目もふらずにアパートの前までやってきた雪華は突然足を止めた。部屋の前に何者かが立っている。先ほどのミケの目を思い出し、雪華の体はこわばった。
 しかし椎菜が帰ってくるまで時間を潰せるところは思いつかなかった。学校は終わっているし、日が暮れるまで公園にいるのは椎菜がいい顔をしないだろう。かと言ってミケのところには引き返せない。空を見上げてみたが、カラスはおろかスズメの影すら見当たらなかった。

(だいじょうぶ、だいじょうぶ。お金もってないし、わたしをねらう理由なんてない)

 ランドセルについた防犯ブザーを握りしめ、雪華は一歩ずつ階段を上がった。
 それは背広姿の男だった。どこかの飛びこみ営業の者だろうか。

(たしか、うちには必要ありませんっていえばいいんだっけ)

 以前椎菜とヤタに教わった文句を呟きながら、恐る恐る近づいたそのとき、男が振り向いた。

「おや雪華ちゃんじゃないか。どうしたいんだい? そんなに汗をかいて」

 アパートの前に立っていたのは大三郎だった。飛び出てしまう耳を帽子で隠してしまえば、恰幅のいいサラリーマンの出来上がりだ。
 目を丸くし、問いかける大三郎に雪華は首を振った。

「う、ううん。なんでもないよ」
「そうかい? まあ最近暑くなってきたからね。熱中症には気をつけるんだよ。ああ、あとこれ」

 手渡されたビニール袋は思わずよろめくほど重い。中から瑞々しい緑が飛び出ていた。

「ありがとう大三郎さん」

 初めて会ったときから何かと気にかけてくれるこのタヌキは、雪華が椎菜と暮らすようになってからもお節介を焼いてくれ、こうして毎週毎週野菜を届けに来てくれるのだ。

「いいよ、いいよ。新しい環境で大変だろうし、椎菜は怖いしね」

 おっと今のは椎菜には内緒にしてくれよ、と顔を青ざめて唇に指をあてる大三郎に、雪華は吹き出した。

「うん、ひみつね」
「本当に頼むよ。椎菜、怒ると怖いんだ」

 暑さによる汗とは違う種類の雫が広いおでこを伝っていく。それを拭いながら大三郎は問いかけた。

「雪華ちゃんは、何か悩んでいることはないかい?」
「……ううん。なにもないよ」

 下手くそな笑顔で大三郎の追及をかいくぐり、雪華は扉を閉めた。
 ランドセルに突っこまれた皺くちゃのプリントが頭をよぎる。途端にランドセルに重しが乗っかったような気がした。
 そのプリントの最上段には「授業参観のお知らせ」という文字が刻印されていた。

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