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【短編小説】かげろうの街

その街は夢かうつつか。
奇妙な街に迷い込んだ男の話。

 アスファルトの上から蒸気が立ち昇る。ゆら、ゆらと歪んだ街を映しながら。
 揺れる陽炎を見つめていた男ははっと我に返った。並び立つ瓦屋根、ブロック塀や生垣、等間隔に連なる電柱、端に泥がついた側溝。男は自宅付近の道の真ん中に一人立ち尽くしていた。

「……帰る途中だったのか?」

 しかし自分の説明にはしっくりこなかった。何か、何か重要なことを忘れている気がする。少なくとも散歩をしている場合ではなかったはずだ。だが記憶をひっくり返しても頭は霞がかかったように寸前のことすら思い出せない。
 荷物一つ持たず、身につけているのは白いワイシャツとジーパンのみ。まるで散歩に出かけたような気楽な格好だ。それ以外手がかりはない。

「まあ考えても仕方ないか」

 男は首を捻りながらも、とりあえず自宅を目指した。

「にしてもなんでこんなに静かなんだ?」

 いくら閑静な住宅地と言っても全くの無音というのは明らかにおかしい。男は周囲を探りながら人気のない通りを歩いた。雲一つない青空がいっそ空々しいほど街は静寂に包まれている。たとえ平日であろうとも車一つ通らないのは奇妙を通り越して恐怖を感じるほどだ。
 不意に男の視界に何かが揺れ動いた。男はびくりと足を止める。

「……なんだ?」

 道の脇に鎮座する地蔵の足元に小さな何かが転がっている。それは小さな虫の亡骸であった。細長い体に薄い翅。乾いたそれは少しでも力をこめれば、壊れてしまいそうな繊細さだ。

「カゲロウ?」

 それは小柄な蜻蛉だった。男は安堵の息を漏らすのと同時に口を歪める。
 実を言うと、男はこの虫が少々苦手だった。これをみると教科書に載っていたある詩を思い出すからだ。蜻蛉に生き死にの哀しさを重ねたその詩は、幼い自分の脳裏に脈打ち輝く卵がか細い体をはち切れんばかりに圧迫している光景をありありと刻みつけた。気持ちが悪くなるほどに。だからこそ一目でその名が浮かんだわけだが。

「あれのせいで妙に生々しさを感じるんだよなコイツ。さていく、か……」

 何気なく見上げた標識の文字を見、男は絶句した。逆三角の真っ赤な看板にはあるはずの三文字は映っていない。代わりにあるのは『覩魔呬』という理解不能な文字列のみ。

「どうなっているんだこれは」

 男が周りを見渡すと塀の貼り紙には『迷冱乃仔祢子%#蛾刺弖勑簾!』、通りが書かれているはずの電柱の札は『魅℃狸痲血死@*眼』。どの文字も文字化けしたように意味をなさない羅列が続く。

「なにが、なにがこの街に起こっているんだ」

 答える者はいない。生温い風が頬を撫でるだけだ。無意識のうちに指先が震えた。
 男は足早に駆け出した。街は自分の脳内のものと寸分たがわぬ造形をしている。意味不明な文字とあちらこちらに転がる小さな虫の死骸を除いて。
 一度認めてしまえば走っても、走っても異様な文字は目についた。商店街のポップも、はがれかけたポスターも、表札も全てがおかしい。男はこのとき初めてここが住み慣れた街ではない可能性に思い至った。

「夢なら早く覚めてくれよ」

 男の願いを嘲笑うかのように、街は一向に元に戻る気配はない。見知った街の皮をかぶった得体の知れない何かがあちらこちらから男を観察している気さえしてきた。
 その一端を担っているのが、時折その存在を主張する物言わぬ骸だ。交差点、数年前までアパートがあった更地、雑草蔓延る空き家の前。点々、点々と忘れかけた頃に視界に映りこむ。通る電車もないのに遮断機が閉まり、警報機が鳴り響く踏切の前には何匹もの屍が風に吹かれていた。この先には川があるので他より多いのだろうか。

 ここまで人一人どころか虫の羽ばたきすら聞こえない。男は何でもいいから生きている音を聞きたいと願った。幸か不幸かその願いはすぐさま叶えられたが。

ワンワンワン!

 静寂を切り裂いたのはけたたましい鳴き声とフェンスが軋む音。男は飛び上がって振り返った。こちらを睨みつけていたのは柵の向こうから光る一対の目。憎悪を宿らせた血のように赤い瞳、闇夜から抜け出してきたような深い黒、裂けた口からは涎が滴っている。扉の横には「曚険惆夷」。しかし読めなくとも目を吊り上げた犬の絵と目の前にいる生物が、その文字の指し示すものを物語っていた。

「こんな犬いたか? いやそもそもこんな家あったか?」

 後ずさりながら男は首をかしげた。何の変哲もない住宅の一つ。だがベージュ色の壁はどことなく黒ずみ、鉢植えの花々も枯れ、陰鬱の影が顔を覗かせている。表札を見たが、そこには真っ黒に塗りつぶされた板が一つだけ。その間も敵意は途切れることなく飛んでくる。

「そ、そんなに吠えなくてもさっさといくさ」

 追い立てられるかのように男は帰路を急ぐ。が、どこまで足を動かしても不吉な声はしつこく男の背を追った。

「まったくひどい目にあった」

 ようやく吠え声が耳から離れたころ、男は曲がる角を間違えてしまったことを悟った。これでは遠回りになってしまう。はあとため息がこぼれ落ちる。

「そういえばこんな風に回り道して帰ったっけなあ」

 ふと思い出すのは若かりし頃の思い出。まだ妻と付き合い始めの頃、一秒でも長く彼女といたくて、デートの帰り道はわざと遠回りして帰ったものだった。家の前でも中身のないくだらない話で彼女を引き留めて、彼女を苦笑させたものだった。
 そのせいで習慣づいてしまったのだろうか。結婚してからもときどき夜の散歩を二人で楽しんだものだ。もっとも妻が数年前に風邪をこじらせ、完治してからもめっきり身体が弱くなってしまってからは止めてしまったが。懐かしき過去に男の頬が緩む。
 と、そのとき男の視界に微かに震える何かが映った。また死骸だろうかとかがみこむ。

 それは同じ蜻蛉だった。
 しかし一点、今までのとは大きく異なることが一つ。それは風もないのに動いていた。――生きていたのだ。しかも腹に光り輝く命の塊を抱えて。が、彼女の命の火は腹の子とは対照的にまさに風前の灯火だった。身重の体を引きずり、今にも止まりそうな脚を動かしている。
 男は無意識のうちに手を差し伸べていた。それは迷子に思わず手を貸してやりたくなるような、人ならば誰でも持つ生来の親切心からだった。目の前に現れた障害物に、彼女は一度動きを止めたが、すぐに男の掌に身を預ける。掴んだ力は溺れた者が藁を掴むような恐ろしく強い。瞬間、雷に打たれたような衝撃が走り、奥底から焦げ付くような欲求が沸き上がった。

「帰らなきゃ」

 早く、早くいかなければ。あれがやってくる前に。砂漠で旅人が水を求めるような衝動が自然と男を走らせた。何が男を急かせるのか、男自身にもわからなかった。体が熱い。違う。熱いのは自分ではない。手の中の蜻蛉だ。鼓動や息遣いが聞こえるのではないかと錯覚するほど、彼女の命はたぎっていた。男はただ掌の彼女を潰さぬよう、細心の注意を払いながら家路を急いだ。

 いつの間にか日は落ちかけて、夕闇が迫っていた。物と物との境界が曖昧になり、夜に溶けていく。あと一つ角を曲がれば家は目と鼻の先だ。男が足に力をこめる。

ワンワンワン!

 恐ろしい声が男の足を縫いとめた。道の先から夜の塊のような黒い犬が走ってくる。大人の腰あたりまである獣が、鬼灯のように赤い瞳をギラギラさせて一直線にこちらに向かってくる。
 いや狙っているのは自分ではない。自分の手の中にいるこの小さな蜻蛉だろう。男は直感的にそう悟った。きっとこれを手放せば男は襲われない。だが手のひらで鼓動するこの小さな命たちを男はどうしても手放したくなかった。小さな点はいつの間にか大きくなり、もはや目前まで来ていた。今から逃げ回ったところですぐに追いつかれてしまうだろう。では行くべき場所はどこか。犬の足音が耳に届く。男の答えは既に決まっていた。
 男はすぐさま角を曲がり、庭先の小さな門を乱暴に開けて、一直線に玄関まで走る。あと少し、あと少しだ。指先がドアノブに触れる、そのときだった。
 頭上をひらりと何かが飛び越える。目の前に現れたのは例の獣であった。さあそれをよこせと言わんばかりに奴は唸り声を上げる。男が首を振れば、体を低くして飛びかかる姿勢をみせた。手の中の彼女が怯えたように後ずさる。

「大丈夫だからな。絶対に俺が守ってやるから」

 初対面の頃の恐怖はもはやない。代わりに燃えるのは抵抗の意思とちっぽけな勇気。負けじと睨み返すと、いよいよ声が大きくなった。筋肉が盛り上がったと思ったときには、犬は大きく跳躍していた。
 男は反射的に背を向けてしゃがみ込み、庇うように手のひらの中の蜻蛉を包み込む。背中にずしりと重みが加わった。べたつく涎が首筋を伝う。荒い息遣いが男の頬にかかり、むわりと生臭い匂いが鼻についた。
 獣は無防備に晒されている首元に牙をあてた。男は己の肌を食い破る痛みに備えてぎゅっと目をつぶる。
 突然、光が弾けた。同時に胸の中で上がる小さな命の産声。

――ああ、よかった。

 薄れゆく意識の中で誰かが自分の名を呼ぶ声がした。


「――さん、山田さん」

 目を開けると肩を揺さぶる看護師と目があった。

「寝ている場合じゃないですよ。早くきてください」

 その言葉に今の状況を思い出した。

「っ、そうだ妻は、妻は? 彼女は無事ですか?」
「大丈夫ですよ。一時は危うかったですが母子ともに無事です。おめでとうございます」

 すがりつく男に看護師が笑みを浮かべる。男は崩れ落ち安堵のため息をついた。

「そうですか……」
「ええ。さあ奥様と赤ちゃんの顔を見に行ってください」

 男はよろめきながら立ち上がって歩き出す。愛おしい妻と待ち望んだ宝に会いに。男の頭からあの奇妙な夢はすっかり抜け落ちていたため、男は気がつかなかった。その足裏に透き通った翅が一枚へばりついていたことを。

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