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【小説】のけものけもの(5)

猿じいやヤタに背を押され、椎菜の過去に知ろうと思い立った雪華。果たして雪華は椎菜の過去に触れ、彼女と本当に家族になることはできるのか。

上記の話から続く親に捨てられた少女雪華と鎌鼬の椎菜のでこぼこ親子話

「まったくあれだけ脅かしたのにまた懲りずに来たのかい? 君って本当に物好きだねえ」

 ミケが呆れたため息を落とした。
 店内には二人の他に誰もいないというのに、雪華は壁に体を押しつけて、さらに身を縮こませた。その手には今日もココアが座っている。
 ヤタに背を押してもらったものの、未だ雪華は踏み出せずにいた。
 椎菜が何気なく声をかけるたび、相変わらず端の焦げたソーセージと不格好なスクランブルエッグを作るたび、雪華の胸は締めつけられる。その背に触れたいと思う。だが指先はその背に触れる前に落ちた。
 ヤタが言った覚悟も決められず、かと言って胸にたまる澱みを無視することもできず、人に相談もできず。自然と足はミケの喫茶店へと向いた。
 舌を滑る甘い液体は雪華の体から余計な力を抜く。小さく息を吐き出して、雪華は店主を見上げた。

「だって、やっぱりここは息がしやすいから」
「それは嬉しいね」

 ちっとも目の奥は笑っていないのに、人好きのする笑みを作っているものだから初見の人はきっと騙されるに違いない。

「で? それ飲んだら帰るかい雪華ちゃん」

 ミケは小首をかしげた。雪華は三毛猫柄のカップを両手で握りしめた。

「あの、一つききたいことがあるんだけど」
「人生相談ならヤタか猿じい、優しくしてもらいたいのなら大三郎のところだよ」

 色白の指が出口を指す。雪華はじっと店主の目を見つめた。

「血がつながってないのに家族ってなれるものなの?」
「なんでそれを僕に聞くのさ」
「だって、亡くなった飼い主さんのお店をこうして大事に守っているんでしょ。だからききたくて」

 ミケの動きが止まった。丸い瞳孔が縦に伸びていき、細長い楕円形になっていく。雪華はそれをじっと眺めていた。

「……誰から聞いた? 大三郎か猿じいか?」
「ううん、権治郎」

 低い声で呟くミケに雪華が答えると、鋭い舌打ちが響いた。

「あの口先だけの小心者が。べらべら回る舌引っこ抜けば、少しは身の程を知るか? 今度会ったら本当に抜いてやろうか」

 皿がシンクに叩きつけられる嫌な音がした。ミケがはっと目を見開く。しばし彼は静止していたが、やがて深い深い息を吐き出した。

「ったく無駄に長生きしているだけの死にぞこないが。とんだ営業妨害だよ」

 そう言うや否やミケは立ち上がり、店の看板をcloseにひっくり返した。明かりが落ちる。茜色の光が差しこむが、店の奥は薄闇に包まれて外からではよっぽど目を凝らさない限り二人の姿は見えないだろう。
 ゆらりとミケの姿が溶ける。と、黒い影がカウンターに飛び乗った。薄闇の中で金の瞳がらんらんと輝いた。
 雪華は身を硬くしたが、その影は静かに雪華を見下ろすだけだ。
 目が慣れてくるとその影の全貌が徐々に浮かび上がってくる。
 それは三毛猫だった。見た目は普通の猫となんら変わりない。――尻尾が二股にわかれていることを除けば。

「……ミケさん?」

 三毛猫は肯定するように尻尾をゆらりと揺らした。雪華は体の力を抜いた。

「ミケさん、ほんとうに猫又だったんだね」

 ミケはため息を落とした。世界中の呆れを凝縮したような吐息だった。

「初めて言う言葉がそれかい。変わった子だね。……まあいいや。たしかに君の言う通り、血のつながりがなくても家族にはなれるよ。少なくとも僕にとってあの人たちはそうだった」

 金の目がふいに雪華から外れた。金の瞳は床に落ちた茜色をぼんやりと映している。しかしその目は陽光すらも通り越して、どこか遠いところに焦点を合わせているようだった。

「昔、ここはとある老夫婦と一匹の猫が住んでいてね。もう老い先短い二人は実の子どものようにその猫を可愛がった。
 猫は幸せだった。二人の傍にいつまでもいたいと願った。その願いがよっぽど強かったのか普通の猫よりもずっとずっと長く生きた。やがて尻尾の先が裂け始めた。誰もが気味悪がるそれを、夫婦は変わらず愛情を注ぎ続けた。
 ある日夫が死んだ。番の後を追うように妻も死んだ。見知らぬ人間たちが大勢やってきて二人の思い出を処分しようとした。猫も当然その中に含まれていて、首根っこ掴まれてまさにつまみだされるそのときにね、一人がふいに叫んだんだ」

 ミケの目に鋭利な光が宿った。

「こいつはオスの三毛猫じゃないか。オスの三毛猫ってのは貴重だから老いぼれでもマニアに見せれば高く買い取ってくれるかもしれないと。吐き気がしたよ。気づけば男の顔は血まみれ、尻尾は完全に二つに裂けて、醜い生き物たちは無様な悲鳴を上げて逃げ惑っていた。
 その日から猫は完全に人間に見切りをつけた。でも二人だけは好きだった。彼らが愛した家を醜悪な欲にまみれた畜生以下に渡すなんて許せなかった。だから必死に人間の世界にしがみついた。人の生き方を学び、金を貯め、少しばかり手を加えて喫茶店にした。だけど大元は二人のものだ。猫が生きている限り二人が消えることはない」

 二つの尾の先が愛おしげに天板を撫でた。だが雪華には鋭い切っ先が向けられている。

「性別がどうたら、種類がどうたら、血統がどうたらくだらない。人間はいつだって見るべきものを見ず、くだらないことばかりに囚われているのさ。君も奴らと同じくだらない屑ならとっとと家を出ればいい。帰り道はわかるだろ? 早く本当の親元のところに戻ればいいじゃないか。血がつながっていないから家族じゃないと切り捨てるんなら、時間と労力を使って心を注ぐ椎菜が可哀想だ」

 金の目は冷ややかな光をたたえて雪華を見下ろす。雪華はスカートを握りしめた。
 たしかにミケの言う通りなのかもしれない。少し前の自分なら素直に納得して、母のところまで戻っていただろう。片道の電車賃くらい猿じいあたりに頼めば貸してくれるだろうし、道は知っている。
 だが今は。今は、その提案に素直に頷くことができなかった。
 優しかった頃の母が瞼の裏に浮かぶ。それはやがて椎菜の背へと変わっていった。
 雪華は縋るようにミケを見た。

「わたし、椎菜と家族になれるかな」
「それを決めるのは君自身だろ。赤の他人に自分を委ねるんじゃないよ」

 ミケが鼻を鳴らす。雪華は立ち上がった。

「ごめんなさい。今日はかえるね」
「勝手にしな。どうせもう店は閉めちゃったんだし」

 床に落ちた光は弱々しく、夜の気配がひしひしと迫ってきている。
 防犯灯が照らすアスファルトを、雪華は蹴って走り出した。


「あれ雪華ちゃん?」

 呼びかけられた声に雪華は立ち止まった。昼は子どもでにぎわう公園も、今や夜の静寂に身を沈めている。ポールの先についた丸い明かりがうすぼんやりと辺りを照らしているが、見渡しても人影一つありはしない。

「ああ、ここだよここ」

 ガサガサと枝葉が擦れる音がして、植えこみの中から葉をつけた丸い頭が現れた。

「大三郎さんこんばんは」
「こんばんは雪華ちゃん。どうしたんだい? こんな時間に出歩いて。椎菜に𠮟られるよ」

 つぶらな瞳が雪華を見上げる。大三郎の毛は今日もふわふわとしていて、いつもならば指をうずめていたところだが、あいにく今はそんな暇はない。

「ごめんなさい。ちょっといそいでいるからまた今度ね」
「まあ待ちなさい。夜道を女の子一人で行かせるのは心配だ。家まで送っていこう」

 今にも駆けだす勢いの雪華を大三郎は慌てて呼び止めた。
 塊が飛び跳ね、着地したときにはすっかり見慣れたサラリーマンに変わっていた。相変わらず頭から出ている獣の耳に帽子を被せれば、仕事帰りの社会人の完成である。

「いつもは日が暮れる前には帰っているじゃないか。どうして今日はこんな遅くなったんだい? 椎菜が心配するよ」

 大三郎が眉を下げた。温和な彼が困った顔をすると、妙に罪悪感を刺激されてしまう。雪華は歯切れ悪く答えた。

「その、ちょっと悩みごとがあって……」
「なんだい喧嘩でもしたのかい? そりゃ帰るのも気まずくなるよね。でも早めに謝っておいたほうがいいよ。椎菜はとっても怖いからね」
「あ、けんかしたわけじゃないの」
「じゃあなんだい?」

 雪華は返答に窮した。全てを説明すると長くなるし、何より上手く説明できる気がしなかった。指をすり合わせ、雪華はぼそぼそと言った。

「その、なんで椎菜は一人なのかなって思って……。ほら、かまいたちって三びきなのに他のかまいたちは見かけたことなかったから」

 ああ、と大三郎は心得顔で頷いた。

「まあそれは気になるだろうねえ。でもあの件があるから……」
「あの件?」

 大三郎ははっと口をつぐんだ。夜風は涼しいのに、広いおでこから汗が次から次へと流れた。

「まあなんだ、そのことは椎菜に直接聞いたほうがいい」
「弟たちのこと?」

 大三郎はこぼれ落ちそうなほど目を見開いた。中途半端にあいた口が妙に滑稽だった。

「なんだ、知っていたのかい? そうならそうと早く言ってくれ。胆が冷えたじゃないか」
「ううん、ヤタさんから弟がいたってきいただけ。それ以外のことは椎菜に聞けって教えてくれなかった」
「まあそうだなあ……。たしかにそれ以上のことは私たちの口からじゃあ教えられないなあ」

 肉のついた顎をさすり、大三郎は呟いた。

「今はいないの?」
「いないね。私から言えるのはこれだけさ」
「……そう」

 沈黙が支配した。ただ二人分の足音だけが夜の街に落ちていく。

「なんかみんな、一人じゃないけどひとりぼっちみたいだね」

 唯一生き残ってしまった権治郎、夫婦の温もりと人間の醜さを見たミケ。本来三匹で一組なのに今は独りで生きている椎菜。そしていつまでたっても迎えにこない母とそれを待ち続ける自分。皆、普通の顔をして生きながら、どこかに拭い去れぬ孤独の影がある。

「そうだね。でも多分それはきっと誰にだって大なり小なり持っているものだよ。だからこそ皆寄り添い合うんじゃないかな。ひとりは寒いからね」

 雪華は足を止めた。
 思い返してみれば、隙間風が吹く古ぼけたアパートでも母と身を寄せ合っていれば寒くはなかった。
 いつ帰ってくるかわからない母を待っているとき、森の中に取り残されたとき、雪華は寒かった。
 だが今は寒くない。寒いと思ったことがない。椎菜と暮らすようになってから寒いと思ったことは一度もない。

「……椎菜はわたしといて寒くないのかな」
「それは本人に聞いてみたらわかるさ。ほら」

 大三郎が指さした先には自分の部屋の扉がある。その前に誰かが立っていた。

「ずいぶん遅いお帰りのようじゃないか。え? こんな時間まで雪華を連れ回すなんて、あんたはよっぽどいい教育を受けてきたんだね」

 仁王立ちする椎菜に大三郎はたちまち青ざめた。

「いや、私はたまたま雪華と出くわしただけさ。尊敬する蓑山大明神に誓ったっていい」

 同意を求めるように視線を投げかけられて、雪華も慌てて頷いた。

「へえ、夜遊びを覚えるなんてあんたも大きくなったもんだね雪華」

 刃物のような目を向けられて雪華は震えた。大三郎の足にしがみついて身を隠す雪華に、椎菜の眦が吊り上がる。

「まあまあ椎菜、雪華にだって一人になりたいときだってあるさ。何か悩み事があったみたいだし、相談にのってあげたらどうだい?」

 椎菜を宥めつつ、大三郎は雪華の手を優しく引き離して背を押した。雪華は慌てて大三郎を見上げたが、彼はウインクを寄こすのみだった。
 椎菜の顔を見ることができず、雪華はぎゅっと目をつぶった。

「なんだい、そんなに悩むことがあるんなら言ってくれたらいいのに。一人でぐるぐる考えたっていい考えは浮かばないんだから」

 だが予想とは裏腹に、降ってきた言葉は柔らかなものだった。呆れは含まれていたが、想像していたような鋭利さはない。
 乱暴に頭をかき混ぜられて視界が揺れた。

「大三郎もご苦労様。夜道に気をつけてさっさと帰んな」
「あんまり𠮟らないでやっておくれよ。雪華ちゃんにも理由があるんだからさ」
「あんたに言われなくてもわかっているさ」

 階段が耳障りな声を上げる。それもやがて遠ざかっていった。

「蚊に刺される前に私らも入ろうかね」

 椎菜に手を引かれるままに部屋に入る。背後でドアが閉まる音がした。


「それで? 何をそんなにうじうじ悩んでいたんだい」

 味噌汁の香りがする。既に夕飯はあらかた作り終えたのだろう。
 雪華は一度ぎゅっと唇を噛んだ。今すぐ逃げ出したくなる体を押さえて、椎菜の目を見つめる。

「その、椎菜はなんで一人なのかなって。このまえ、借りた本にはかまいたちは三びきで一組って書かれていたから、なんか理由があるのかなって思って、みんなにきいていたの。わたし、椎菜のこと知らないことばっかりだったから知りたくて。弟たちがいたのはきいたんだけど……」

 瞬間、椎菜から表情が抜け落ちた。雪華の全身から血の気が引いた。
 間違えた。間違えてしまった。もっとも傷ついたくない人を傷つけてしまった。
(やっぱり無理じゃん……)
 背を押してくれた妖怪たちの顔が次々と浮かび、それを申し訳なく思う反面、恨みがましい思いが鎌首をもたげた。

「ごめんなさい。あの、もうきかないから……」
「ああ、いや違う。ちょっと驚いただけさ。怒ってないから」

 椎菜がはっと首を振った。

「ただ、そうだね……まさかあんたの口からその話を出されるとは思ってなかったから驚いただけさ。ちょっと待ってな」

 椎菜は立ち上がり、奥に引っこんだ。ガサガサと何かを探る音が聞こえてくる。次に現れたとき、椎菜の手には二振りの鎌と丸い小さな軟膏入れが握られていた。

「これは?」
「この鎌は私が使っていたやつ。で、これはあの子たちの遺品さ」

 雪華は思わず椎菜の顔を見た。椎菜は手元の軟膏入れの縁をなぞっている。木の肌は色が深く、経てきた年月を感じさせる。埃一つ積もっていないが、持ち主がいなくなったせいかどことなく寂寥感が滲んでいた。

「イタチは雄のほうが大きいんだけどね。なんでかあの子たちは私よりも小さくて、怖いことがあったら私の背に隠れたもんだった。すばしっこい上の子が転ばせる役、ちょっとどんくさい末っ子が薬を塗る役でね。いくつになっても甘ったれな子たちだったよ」

 椎菜の目に柔らかな光が浮かんだ。それは太陽が沈んだ後も辺りを照らす残光によく似ていた。

「ある日、飯をとりに行くって二人勇んで出かけていってねえ。ちょうど私が体調崩していたもんだから、余計に気張っていたんだろうね。寒い冬の日だった。勇んで出かけていく後ろ姿が最後の姿になった」

 椎菜の顔に影が落ちる。それはまるで夕暮れに取り残された迷子のような顔だった。

「何かあったんじゃないかと次の日、あの子たちの跡を追ったらね、とある畑のところで匂いは止まっていた。そこにあったのは忌々しい筒とその脇に落ちていたこれだけさ」

 椎菜は蓋を開けた。そこには薄い膜が壁にこびりつくのみだった。僅かに残ったそれらも乾ききって、もはや使い物にならないだろう。
 椎菜の指が内壁をなぞると、白い粉がはらはらと落ちた。それを暗い目で一瞥し、椎菜は蓋を閉めた。

「あそこは美味いものがよくあったからね。きっと精のつくものでも食べさせてやりたいと思ったんだろうよ。けど人間だって馬鹿じゃないからね。通り道に罠を設置しておいたのさ。気を急いていたあの子たちはそれに気づかずまんまとかかったってわけだ。二匹同時にかかるとは考えにくいから一匹抜け出せなくなったところを見捨てられずにいたところを人間に見つかったってのが大方の筋書きだろうね」
「じゃあ、椎菜の弟たちは人間に殺されたってこと?」
「そうなるね」

 口内はすっかり乾いていた。これ以上聞くべきではないと頭の片隅で警鐘が鳴る。だが聞かずにはいられなかった。

「じゃあ、じゃあなんで椎菜はわたしと暮らそうとおもったの? わたし、椎菜の弟たちを殺した人間とおなじ人間なのに」
「さあね。ただ、あんたの名前の由来を聞いたとき、何となくあの子たちのことを思い出しただけさ。雪が来る日はよく皆で寄せ合って眠ったものだからさ」

 椎菜が視線を上げた。ここではない遠いどこかを見ていた。何だかそのまま椎菜がふらっと消えてしまいそうで、雪華は思わず袖をつかんだ。

「なんだい」

 椎菜の目がこちらを見た。もうその目は強い光を宿した瞳だった。雪華はそれに酷く安心した。

「あの、今日はいっしょに寝てもいい?」

 椎菜は目を瞬いたが、ふいに微笑を浮かべた。

「今日はずいぶん甘えただね」

 頬に熱が集中したが、指は離さなかった。

「……だめ?」
「いやいいよ。私も今日は一人で寝る気分じゃないしね」

 笑う椎菜はすっかりいつもと同じ顔だった。それでようやく雪華は手を離せたのだった。

 いつも並んで敷く布団だが、雪華は早々に隣の布団にもぐりこんだ。この日は、久しぶりに椎菜はイタチの姿に戻っていた。お月様色の毛に顔をうずめると、柔らかな毛が頬をくすぐった。
 雪華の頭を肉球のついた手が撫でる。

「雪が降る日はよくこうやってくっついたものさ」

 陽だまりの香りの中に微かに雨の匂いが混じる。
 もうじき雨が降るのだろうか。そんなことを思っているうちに瞼がおりた。
 夢を見た。優しかった頃の母の姿。それはいつしか椎菜へと変わっていく。だが不思議と寒くはなかった。


 椎菜の過去を知ったからと言って、日常が劇的に変わるわけではない。ただ、雪華の心持ちは確実に変わった。
 ゆあちゃんは相変わらず世話を焼こうとしてくれたが、雪華は手を切った。わざわざ優しさを恵んでもらわなくとも、もう雪華は歩いていける。
 席替えをして、次に隣になった子は眼鏡をかけた大人しそうな子だった。名前はたしか京花ちゃんだったか。

「えっとあの……」

 あからさまにびくつく京花に漏れそうになる嘆息を抑え、雪華は真っ直ぐ彼女の目を見た。

「よろしくね京花ちゃん。隣の席になったんだから仲良くしてくれるとうれしいな」

 差し出された手を京花は驚いたように見つめていたが、やがておずおずと手を伸ばした。

「うん、よろしくね雪華ちゃん。……実はちょっと話してみたいなって思ってたんだ」

 京花がはにかんだ。このクラスに来て初めて雪華は温かさを感じた。


「なんだい、雪華。今日はえらく楽しそうな顔をしているじゃないか」
「うん、友だちできた!」

 電線の上から話しかけてきたヤタに雪華は満面の笑みでピースした。

「へえ? そりゃよかったね。椎菜にもいい報告できるじゃないか」

 ヤタが近くのブロック塀に降り立った。瞳がきらきらと輝いて、その中にいる雪華まで輝いているように見えた。

「あ、そういえばヤタさんの昔の話きいてない。あと大三郎さんのも」
「ええ? 私のなんか聞いても楽しくないよ。大三郎なんてもっと酷いよ。延々と続く失敗談聞きたいのかい? つまらないよ、きっと」
「いいの。わたし、二人のことも知りたいし」

 にっと笑うと、ヤタは気まずそうに羽を動かした。

「ま、そりゃ今度ね」
「やだ! いま話してよ」

 伸ばした手は寸でのところで躱され、黒い塊は空高く飛び上がった。

「ほらいいから帰った帰った。遅くまで出歩いていると、また椎菜に𠮟られるよ」
「ちょっとヤタさん、空に逃げるのはズルいよ」

 ヤタはアパートの方向へと羽ばたいていく。雪華もヤタを追って駆けだした。走っていくうちに自然と笑い声が出てくる。その笑い声は年相応の、どこまでも明るく、無邪気な声だった。

 やがて月日は経ち、雪華は高校生になった。


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