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【小説】一日限定不良少年

――俺たちは一日だけ不良になる。ちょっとした逃避行をする三人組の話。


「じゃあ不良になるか」

目の前の彼女はそう言ってにっと白い歯をみせた。

「は?」

少年は思わず聞き返した。彼女はいつもぶっ飛んだ思考をしているが、今日は飛びぬけてわからない。

「はあ? 不良に? なるんだったらお前一人でなれよ。俺ケンカ強くないし、バイク乗り回す趣味もねえわ」
「何言ってんだお前。私は別に盗んだバイクで走りだせとも髪をパツキンに染めろとも言ってないだろうが」
「まあお前の髪は染めるまでもないから楽でいいよな」

アメリカ在住イギリス人である祖母譲りの飴色の髪は光の角度によっては金にも見える。これが本当に金髪だったら金髪碧眼でアニメのヒロインになれそう、いや性格があれなのでヒロイン枠はないだろう。
ちなみにこんな見た目だが彼女は英語が一切できない。

「だろ! ばあちゃんからもらった髪を染めるなんてとんでもないじゃん!」

髪をいじりながら彼女は嬉しそうに笑ったが、はっとして、勢いよく後ろに呼びかける。

「ってそうじゃなくて。おーい、ごん」

鞄に荷物を詰めこんでいたもう一人の幼馴染、ごんこと火上かがみ光太こうたが振り返る。小麦色に近い肌に短い直毛の出で立ちはまさにスポーツ少年そのものだ。夏になればさらに小麦色が強くなり、彼に虫取り網でも持たせれば、絵に描いたような田舎の虫取り少年の風貌になる。

「なに? 話終わった? じゃあ帰ろうぜ」

既に鞄を肩にかけ、今にも教室のドアに手をかけようとする光太を彼女は呼び止めた。

「その前にごん、お前も不良になるぞ」

動きを止め、きょとんと光太は瞬いた。

「なんで?」
「コイツがグレるから」
「はあ?」

わけがわからない。グレるのを止めたいから不良になるってどういうことだ。

呆れもあらわに視線をよこすも、彼女の顔には意外にもふざけた色はない。それどころかその真逆。彼女の大真面目な気配に動揺が生まれる。

「誰がグレるって」
「ん、わかった。俺もつき合うよ」

光太が頷いたのは少年が席をけり飛ばして立ち上がるのと同時だった。

「おいごん。お前まで何いって……」

しかし彼の顔にも冗談はなかった。ただ当たり前の顔で彼女の理解不能な提案を受け入れていた。

「龍もいくよな」

行かないという選択肢など端から頭にないような確認がとんでくる。一瞬誰が行くかよと憎まれ口を叩いてやろうかと思ったが、やめた。

「そんなになりたきゃ勝手にしろ」

ため息交じりにつぶやくと彼女は満足気な笑みを浮かべた。

「じゃ、決定な! すっぽかすなよ」
「はいはい」

もともと人の言うことなんて聞かないヤツだから言い出した時点でこちらが折れるのはほぼ確定のようなものだ。その上光太まで乗り気であれば勝ち目などない。

「で、不良になると言ってもなにするんだよ?」

彼女は不敵な笑みを浮かべて堂々と宣言した。

「海いこうぜ! 明日な」
「いや明日も学校……」

光太が戸惑いを浮かべつつ言葉をこぼすと、みるみるうちに彼女の目が吊り上がった。

「ばっか野郎! 不良なんだから学校サボるくらいするだろ。どこの不良が学校の規則守って不良やるって言うんだ。いいから明日な。龍もわかった?」
「お前本当に海好きだよなぁ……」

毎年夏に行っているというのにまた行くというのか。しかもまだ海開きまでほど遠い今の季節に。だが彼女の中では既に決定事項のようで、こちらの困惑を考慮する素振りも見せずに長い髪をはためかせ、さっさと教室を出ていく。

「ごん、お前はどうする? この馬鹿げた誘いのるのか?」
「え? ああ、いくだろ。ああなったらさくら言うこと聞かねえし」
「そうじゃなくて、お前まで無理につき合う必要ねえぞ」

よくわからないがさくら曰く、自分のために不良になるらしいのでコイツがつき合う必要はないだろう。ただでさえお人好しで、さくらのわがままに一番振り回されているのだから今回くらい休んだっていいはずだ。

「なんで? お前がいくなら俺もいくだろ」

しかしこちらの気遣いを一切無視して彼は不思議そうにのたまった。その濡羽色にはまるで東から太陽は昇るという常識レベルの話に自分がケチをつけたのに対して首をかしげているような純粋さだった。彼の中では三人セットが普通らしい。

「ったく、後悔しても知らねえぞ。これがばれたら怒られるのによ」
「いいよ。怒られるよりもお前らといるほうが大切だし」

さらりとこちらが気恥ずかしくなる台詞を吐いて、光太もさくらの後を追っていく。

「ほんっとうになんなんだよ」

髪をかき上げて龍は吐き捨てたが、誰もいない教室にそれは虚しく地面に落ちるだけだった。

「龍ーおいてくぞー」
「今行く!」

吞気な呼び声にやけくそで怒鳴り返し、龍も教室を駆けだした。


「……で、本当に行くんだな」

すっぽかしてやろうかと思ったが、そんなことは幼馴染たちにはお見通しだったらしい。普段より少し早めの時間にチャイムが鳴ったので宅配便か何かと思い、顔を出すと私服姿の二人が立っていた。

「おい、龍。なんでお前制服なんだよ。海いくっていうのに制服姿のヤツがいるか。着替えてこい。遅れるぞ」
「お前も約束忘れることあるんだなー」

不遜な態度で言い放つさくらと、それを頭の後ろで手を組みながら能天気な様子で見守る光太。龍は深いため息をついた。無駄に付き合いが長いとこういうところが嫌である。自分の行動は大体読まれてしまうからだ。

「ほら、ぼさっとすんな。寝ぼけてんの?」

目の前でひらひらと手を振るさくらに龍は渋々足を動かし、着替えるために家の中に引っ込んだ。


「本当に来ちまったよ」

学校近くの駅では他の生徒に見られるかもしれないということで、少し離れた駅まで自転車をこいで、電車に飛び乗る。行き先はもちろん片道一、二時間はかかるあの駅行き。

うなだれる龍に光太が肩をたたきながら言った。

「でもさーもうすぐ授業始まるし、今さらだろ? 今から帰ってももう間に合わねえし」

電車は既に走り出している。まだ葉もついていない寒々しい枯れ木が右から左に流れていった。

「ったく、お前はひよこだな。それじゃ立派な不良になれないぞ」

腕組みをし、ふんぞり返るさくらは堂々としていた。学校をサボっていますというよりは今日は学校休みなので出かけていますが何か? とでも言いたげなほど平然とした態度だ。コイツこそ不良の才能があるのではないか。龍は心の底からそう思った。

「いや俺は別に日本一の不良を目指しているわけじゃねえから。むしろ平和に生きたい人畜無害の普通の学生だから、目指してんの」

その言葉に嘘はない。自分の夢は最小限の努力で気楽に、そして適当に生きることだからだ。他人はそれを聞くともっと大きな夢はないのかと顔をしかめるが、自分にとってはそれが一番だ。第一どんな夢でもいいと言った、その舌の根の乾かぬうちにこちらの夢を否定するのはどうなのか。大きな夢なんて持っても重い荷物になるだけで面倒だろう。自分にはそんなものなんていらない。

「お前が普通はないだろ。私とつるんでいる時点で」

馬鹿にしたようにさくらが笑う。

「自分が普通じゃないことに自覚あったのかよ。本当に名は体を表すの逆を突っ走るよなお前」
「さくらという名前がこれほど似合わないヤツもいないもんな。名字の細波さざなみもぜんぜん似合わねえし。荒波のほうがあっているだろ」

龍の言葉に光太も追随した。

桜の花言葉は精神美、優美な女性、純潔だ。前に何かの授業で紹介されたときあまりにも似合わなさすぎて笑ってしまった。
二人のからかいにふっとさくらは口元を緩めた。

「私、常識に囚われないから昔の言葉でさえもついていけないんだろ」
「ちょっとくらいあってもいいと思う。全力でジョーシキをおいてってんじゃん」
「常識という名の地に爪先でいいから足つけろよ。お前は程度というものを知らねえの?」
「私に世界が追いつかないからってそう嫉妬するなって。照れるじゃない」

なぜか誇らしげにするさくらに二人は顔を見合わせ、肩をすくめた。

「コイツに世界が追いつくのはいつになるんだろうなあ……」
「むしろ一生追いつかないでほしいわ。追いついたときが世界の終わりだから。追いつくなら後一億年くらい先でいてくれ。それだったら俺ら死んでいるから関係ないし」

遠い目になる光太を横目に龍は手元の携帯をいじった。目がチカチカする派手なエフェクトが次々と表示されていく。

「お前またゲームやってんの? もう中毒じゃない?」

覗きこんださくらが呆れた声を上げた。

「お前には迷惑かけてないだろうが。ほっとけ」

四六時中ゲームをしている自覚はあるが趣味くらい好きにやらせてほしい。
ゲームはいい。特に思考するまでもなくせわしなく画面が動き、ほぼ脊髄反射で手を動かすゲームは。余計なことに頭を使わなくてすむからだ。

「お前そういうところがモテないんでしょ。お前に彼女できても、目の前の彼女放ってゲームやってそうだし」

いかにも不満ですという表情を浮かべ、さくらは頬を膨らませた。

「偏見で俺を語るなよ。俺だってそのくらいのデリカシーはある」
「現在進行形でその信用なくなっているけどな」

冷ややかな目でさくらはこちらを見つめた。夏空のような青がすっかり冬空に変わってしまったようだった。

「でも龍からゲームとったら、きっとノート広げてガリガリ数式書き出すぞ。そんなの周りのお客さんに迷惑だろ」
「いやいくら数学好きだからといってそんなことするか」

えーだってちょっと前に流行った事件解決する先生のヤツ、どこでも数式書くじゃんと口を尖らせる光太に龍は喉の先まででかかったいろいろな言葉を飲み込んだ。
ちょっと前ってもう何年も前だとか、事件解決するヤツじゃなくてせめて推理ものだとかミステリーとかにしろだとか、その先生は数学者じゃなくて物理学者だとか、そもそもあれはドラマだとか。そんなこと言ってもコイツは数秒後には忘れている。コイツの頭は鶏以下だからだ。

「でも本当に数バカよね」
「化学バカのお前に言われたくはないんだけど」

数学はたしかに好きだ。数字や記号、必要最低限の文字だけで全てを表現できるから。極限まで無駄なものを排除し、それでいて最も美しい世界を作り上げる。そこに一切心乱すものは存在しない。――例えば感情だとか。

感情ほど煩わしいものは存在しない。制御不可能で、自分も周りも狂わせる。冷めた父の眼差しやこちらを見ない濁った母の目、重苦しい扉に隔てられたような無機質な兄の目が脳裏に浮かんで、胃から冷たいものがせりあがった。

知らず知らずのうちに腹を抑えた龍の肩に突如強い衝撃が走る。視線を上げると口をへの字に曲げたさくらと目があった。

「おい、何湿っぽい顔しているんだお前。今日は海に行くんだろ。ジメジメと考えこむのもゲームもなしだ」

さくらはひょいと龍の手元から携帯を取り上げた。

「ちょっ、さくらお前何するんだよ」
「ごん、パス」
「はいよ」

自分の指が届くより前にさくらは軽やかに光太に放り投げた。光太は見事に受け止めると鞄の中に入れ、きっちりチャックを閉めた。

「まだ着くまで時間があるだろ。その時間暇じゃねえか」
「えっ? 俺たちと話せばよくない?」
「そうそう、お前にはなくても私らには話すネタがたくさんあるからな。この前のごんの悲惨なテストの話とかな」

首をかしげる光太とこちらの意思を無視して話し始めるさくら。ポンポンと会話のキャッチボールが飛び交う。

「龍、もしかして酔った?」
「ゲロは吐かないでくれる? 私、エチケット袋とかそんな気の利いたもの持ってないから」

無言を貫いていると全くとんちんかんな方向に話が進んでいく。さくらはともかく、こちらの心配をする光太がこのまま変な誤解をしているのは可哀想なので、渋々口を開いた。

「酔ってねえよ。わかったからそんなおかしな心配すんな」
「よかった。ずっと黙ったままだから、気分でも悪くなったのかと思った」

光太はあからさまに安堵の表情を浮かべる。
コイツ、本当に俺が具合悪くなったとでも思っていたのだろうか。

「お前のことだから道端に落ちているものを拾い食いでもしたのかと思ったわ」
「さくら、お前は俺のことなんだと思っているんだよ」
「数バカで引きこもりのゲーオタ。常識人だと思っている変人」
「めちゃくちゃ罵倒するじゃん。あと後者に関しては、お前だけには絶対に言われたくねえ」
「私は自覚している変人だからな。お前よりもマシだ」

さくらはふふんと胸を張る。だからなんでコイツは自慢げなんだ。

「まあまあそれよりさ、聞いてくれよ。この前さ――」

が、反論するより先に光太が別の話を振ってきたので言い返せぬまま、結局駅に着くまでくだらない会話に興じることになった。


「よーし、ついたぞお前ら!」

大きな伸びをしてさくらは叫んだ。田舎で平日の上、微妙な時間帯なので当然降りる人も自分たち以外いない。けだるげに座っていた駅員が訝しげな目でこちらを見たが、すぐに手元の紙に視線を落とした。

改札をぬけると道の先に深い青が広がっている。潮風が鼻をくすぐり、民家に混じって松の木が並ぶ。見慣れた景色だが、季節のせいか、はたまたあいにくの曇天のせいか、眩しい爽やかさは鳴りを潜め、どこか暗く寒々しい。

「ほら行くぞ!」

胸あたりまであるうねったライトブラウンをはためかせ、さくらは駆け出していく。

「海は逃げないんだから走るなよ。転ぶかもしれないだろ」

不安気に眉をひそめ、光太も走りだした。二つの影はどんどん小さくなっていく。

「おい龍、おいてくぞ!」
「早く来ないと本当にコイツおいてくぞー」

ぼんやり眺めていたら騒がしい声が飛んできた。気まぐれな青と優しい黒がこちらを見つめている。深く息を吐くと龍も一歩踏み出した。

「今行く!」

彼らに負けないくらいの声量で叫びかえしながら。


「ほんっとうに誰もいないな」

夏ですら地元民しか来ない小さな海水浴場なのだから、季節外れの今人影なんてあるはずがなかった。入口には銀のチェーンスタンドにかけられた鎖と手作り感満載の立ち入り禁止の看板が風に揺れている。

「で、これどうする? 立ち入り禁止なら入らないほうがいいんじゃね?」
「馬鹿か。私たちは今不良なんだぞ。こんな規則いちいち気にかける不良がいるわけないだろ」

眉を下げる光太をさくらは𠮟りつけ、軽やかにチェーンを飛び越えた。

「ええ……いいのかな」
「諦めろ。ああ言ったらアイツは言うこと聞かねえし、泳ぐわけじゃないからもし見つかっても軽く怒られだけだ」

ためらう光太の肩を叩いて龍もお粗末な柵をまたいだ。光太は二人がためらいなく砂浜に入っていくのを少しの間困惑気味に見つめていたが、やがてゆっくりと鎖をまたいで二人の後を追った。


夏は多少にぎわう海辺も今いるのは自分たち三人だけだ。深縹にときどき白い波がたつ。それ以外は空間を満たす潮騒と流れ着いたゴミや海藻だけ。モノクロに近い世界の中で自分たちだけが異質だった。

「なあ、あそこまで勝負しよう。ビリは後でアイス奢りな」

突如振り返ったさくらは消波ブロックが積まれている一端を指さした。

「はあ? なんでよりにもよってこんな走りにくいところでかけっこなんかするんだよ。小学生か?」

陸上部でもないのに砂浜ダッシュなど御免こうむりたい。今でさえ靴に砂粒が侵入して気持ち悪いというのに、だ。しかもなんでアイス。こんな寒い中アイス食べるとか季節分かっているのだろうか。ついに脳みそやられたのだろうか。そんなことを思っていると彼女は嘲るように口元に弧を描いた。

「ふうん、龍は女子に負けるのが怖いんだ。とんだビビりだな。じゃ、アイスはお前の奢りな。ごん、龍がアイス奢ってくれるって。よかったな」
「えっ、ホント? よっしゃー! いつもよりちょっとお高めのやつ頼んじゃおっかなー」

光太はマサイ族と勝負できるのではないかと思うほどぴょんぴょん飛び跳ねている。コイツはいつでも元気だな、と頭の片隅で呆れた自分の声がした。

「じゃ、私は行くぞ」

見え透いた挑発であるが、ニヤニヤと笑う空色が憎らしい。龍は舌打ちをすると駆けだした。

「流石に女子に負けるほど貧弱じゃねえよ」
「おっ、龍も乗り気になった? じゃ、俺と勝負しようぜ」
「お前みたいな体育だけは満点の体力バカとは勝負しねえよ、馬鹿!」
「うっわ、今の発言めちゃくちゃカッコ悪いわあ。男ならごんと勝負してやれよ」
「うるせえ。勝ち目のない勝負はしない主義なんだよ」

言い合いしている間に光太はスピードを上げた。自分と同じくらいの背がみるみるうちに点になっていく。残るはいちいち癪に障るとんだ台風女だけだ。

「私も引きこもりに負けるとか屈辱だから勝たせてもらうな」
「だから負けねえって言ってんだろ」

龍はほとんど使ってこなかった筋肉に力をこめて、砂をけり飛ばした。


はあ、はあと荒い息づかいだけが響き渡る。靴の中は砂まみれ、こんな季節だというのに汗が額を流れ落ちている。久しぶりに走ったせいで酷使した筋肉や喉が痛い。

「で、ごん、どっちが勝った?」
「私だよな、ごん」
「俺に決まってんだろ」

二人に詰め寄られた光太の眉は眦にくっつきそうなほど下がっている。

「えっと、ど、同時についたってことで引き分けじゃダメ?」
「いいわけないに決まってんだろ!」
「ダメ! 私か龍か白黒つけろごん」

さらに詰め寄られて光太はますます困った顔になった。

「じゃあもう俺がおごってやるからさ、二人とも落ちつけって」
「いやもうアイスとかどうでもいいからそこははっきりさせろ」
「本当に同時だったんだってば」

なんとかなだめようと光太は必死に説得するもそれではこちらの気が収まらない。苛立ちのままに砂を蹴るとザラザラとした砂が肌を擦り、まとわりつく感触が余計に気を荒立たせる。

「はあ、しょうがないな。ここは自分の分は自分で出すことで手打ちにしよう」

やれやれと首を振り、仕方がないということを前面にだしたさくらが宣言した。

「はあ? そんなんで」
「いいから行くぞ! 私は今すぐアイス食べたいんだ」

目を怒らせるも、さくらは無視して強引に自分たちの手首を掴み、引きずるように歩きだす。

「龍、やめにしようぜ。コイツの気まぐれは今に始まったことじゃないしさ」

あやすように言われて湯だった頭が徐々に冷えていく。

「……悪い」
「いいよ。俺もお前らと一緒にかけっこできて嬉しかったし」

俯く龍に太陽のような声が降った。


「なんだい、今日は平日だよ。アンタたち学校はどうしたんだい」

紫煙を吐きながら皺だらけの老婆は言った。年季の入った小さいラジオからは今日も競馬の実況が流れている。

「あるよ。ズル休みしたけどね。今日は私たち不良だから」

いやそこは隠せよ。せめてズル休みしたとは口に出すなと思ったが、老婆はじろりとねめつけただけであった。

「ついにズル休みまでするようになったのかい、クソガキ共。しかもこんな風が強い日に海にまでいって。風邪でもひいたらどうするんだい。親が可哀想じゃないか」
「私そこまで軟弱じゃないから大丈夫。風邪ひくなら龍くらいだろ」
「いや俺もそこまでやわじゃねえ」

たしかに汗はかいたが、風邪をひくほどではないだろう。周りからよくもやし少年と揶揄されるものの、言われるほど弱くはないし、自分の体調がわからないほどの子供でもない。

「で、何買いにきたんだい。さっさと決めておくれ。アンタらのおしゃべりにつき合うほど暇じゃないんだよ。こっちはね」

再びタバコをふかす老婆の目の前にさくらはカウンターに身を乗り出し、指を突き出した。指先が老婆のまつ毛に触れそうになるまで近く。

「じゃ、ばあちゃんアイス三つね!」
「アンタらこんな寒い日にさらにアイスを食べようってのかい。やめときな、腹冷やすよ」
「えー私今アイスの気分なんだけどさー」
「今日のアイスは売り切れさね。別のもん選びな」

アイスショーケースの中にはまだ元気弾ける水色のパッケージが大勢踊っているというのに老婆は頑として首を縦に振らなかった。

「えー私らさっきまで砂浜で青春キラキラ追いかけっこしていたから冷たいのがいいんだけど」

瞬間、老婆の眦が吊り上がる。

「アンタらこんな中走り回って汗までかいたのかい!? ちゃんと汗ふいたんだろうね」

老婆の剣幕に三人はとりあえず頷き返した。ここで馬鹿正直にいや拭かずに来ましたなんて言った日には、どれだけ大きな雷が落ちるかわからない。老婆は大きく舌打ちした。

「本当だろうね。まったくアンタらはどうしようもないクソガキだよ。そんなに冷たいものをご所望ならせめてそこの棚から選びな」

節くれだった指が指したのは飲み物が入っているボックスだった。ぼんやり曇ったガラスに整然と缶やペットボトルが並んでいる。

「えーばあちゃん売ってくれないの。おうぼうー」
「うるさいよ。ここの店主は私さ。文句があるなら出ていきな」

さくらが不平をたれると老婆は鼻で笑った。

「お前が横暴と言えた義理じゃなくね? 普段の行動省みろよ暴君」
「は? 龍なんか言った?」

一気に声が低くなったが、挑発するように口角を上げる。先ほど散々言ってくれたお返しを返そうと口を開きかけたそのときだった。

「あっ、じゃあこれにしようぜ」

空気を読まない吞気な声が響き渡る。三人が一斉に振り向くと、一人扉を開けて覗きこんでいた光太がにこにこと透明な青い瓶を振っている。

「さくらの瞳みたいじゃん、これ」

その様子に毒気を抜かれた龍たちはため息を一つ落とした。

「……まあお前はそういうヤツだよな」
「じゃあばあちゃんこれ三つお願いしてもいい?」

無邪気に瞳を輝かせて光太が問う。老婆は視線を逸らして忌々しそうに呟いた。

「あいよ、持っていきな。アンタら夏みたいにここで食べていくかい? もしここで食べないんだったら、ここからちょっと駅に向かった先の商店街で肉まんでも買って帰りな。ちっとはあったまるだろうよ」

背もたれに寄りかかりながら老婆は吐き捨てた。三人は顔を見合わせて、同時に笑みを浮かべた。

「じゃ、外で食べるわ。ありがとうばあちゃん!」
「ふん、もう学校サボってくるんじゃないよ不良共。次サボって来たらお巡りに補導してもらうからね」

タバコを吹きつけて、老婆は新聞を広げた。

「じゃ、ばあちゃんまた今度」
「ばあちゃんも風邪ひかないようにね」
「夏までにクーラー検討しておいたら? 最近のものは暖房にも使えるからさあ。いつまで時止まってんのここ」
「うるさいね。予算とかいろいろ面倒くさいんだよ。さっさと行きな、クソガキ共」

手を振って表に出たが、最後の最後まで老婆は視線をこちらによこさず、年季のはいったガラスに紫煙だけがたなびいていた。


「で、どうする? どこで食べる?」
「まずはさっきの婆さんが言った商店街いって肉まんでもなんでも買い食いしながらしゃべればいいんじゃね」
「でもそれ行儀悪いんじゃ……」

足を止めた光太に龍は呆れた視線を投げる。

「今日は一日不良なんだろ。行儀悪かろうがそっちのほうが不良らしいじゃねえか」
「おお! 龍もついにひよっこからアマチュア不良に進化したな。ごんも見習えよ」

バシバシ背を叩いてさくらが笑う。不良に進化もクソもあるかと思ったが、それを言った瞬間、快晴が嵐に変わるのは想像がつくので口をつぐんだ。沈黙は金である。

「たしかに言われればそうか。じゃ、まずは適当に買ってこうぜ」

そうしてシャッターが目立つこぢんまりした商店街で肉まん、光太はそれに加えて唐揚げまで買って、三人は戻ってきた。防波堤の上をぶらぶら歩きながら、適当にしゃべっているとふいにさくらが振り向いた。

「で、どうよ」
「何が?」
「ちょっとは気分よくなった?」

ちょうど雲間から太陽が差し込んで、はためくライトブラウンが反射し、光を集めたブロンドのような錯覚を受ける。白い歯をみせて笑う彼女の笑みの美しさに思わず見惚れた。

「運動して、美味いもん食って、好きな海を見て。それならちょっとはジメジメした暗さも晴れるだろうと思ってさ」

瓶を振りながらさくらは防波堤の上に腰掛ける。宙を泳ぐ足が紺碧の中でいやに映えた。

そういえばコイツが誘ってきたのは俺がグレるというのが原因だったか。
わけのわからないと思っていた行動が全て自分のためにやっていたのだとすれば――

ガツンと頭を殴られたようだった。普段通り嫌味を交えた切り返しをするはずだった舌は動かず、不自然にしまった喉からでてきたのはただ一言、

「……海が好きなのはお前だろ」

という掠れた声だけであった。予想通りだったのかさくらは笑みを深める。

「ま、でもいい景色だろ。ほら突っ立ってないで座れ、座れ」

傍らを叩いてさくらはけらけらと笑い声をたてた。後ろにいた光太が右腕をひいて自分を真ん中に座らせる。

「なんでそもそも俺がグレると思ったんだ?」
「だってお前言ったじゃん。今まで行ったことない土地に行ってみたいって。自分のこと誰も知らないような土地に行きたいって」

コイツが不良になるなど突拍子もないことを言う寸前の会話がよみがえる。

『あー旅したいわー』
『へえ、どこに?』
『遠いとこ。俺を知っている人が一人もいないような遠いところ』

一見すればなんてことのない言葉。旅に出たいというのはそこまでおかしな発言ではないはずだ。そこからなぜグレるということにつながるのか。

怪訝な顔をする龍を透き通った天色が貫いた。その見透かすような瞳から逃げるように手に力をこめる。紙の潰れる音とやわらかい肉まんの皮に爪が食いこむ感触がした。

「だってお前、引きこもりのくせに外に出たいとか言うんだもの。よっぽど居心地悪かったんでしょ、アンタの城に閉じこもっても耐えきれないくらい」

ひゅっと息が詰まった。ずっと目を逸らしていた部分に突然スポットライトを浴びせられた気分だ。間髪入れず光太も口を挟む。

「そういえば最近ため息多かったよな」
「俺がため息つくのなんていつもだろ」

龍の言葉に光太は目を瞬かせた。混じりけのない黒がこちらを見据えていて、たじろいでしまう。

「ううん、いつもの皮肉な感じのため息じゃなくてヤバそうなため息」

言葉遣いは幼稚だが内容は核心に近い。幼馴染の勘の鋭さを舐めていた。彼は勉強に関しては馬鹿だが本当の馬鹿ではない。

彼らの言葉によって底に沈めたはずの澱みが噴き出した。

勉強しろ、が父の口癖だった。仕事ばかりでろくに家庭も顧みないくせに偏差値が高いほうの国立大学を卒業したせいか何かあるごとに言いつけてきた。ここ最近は特に酷い。理由は単純。得意教科の点数の伸びよりも足を引っ張る苦手教科の点数が目立ってきたからだ。

「同じ兄弟だというのに何が違うんだろうな。アイツが育て方を間違えたのか。まったくあの女は……」

吐き捨てる父の目はレンズ越しからでもわかる冷淡さだった。一気に頭に血が上り、ろくに関わりもしなかったアンタが、母さんのことを悪く言うなと怒鳴り返してやりたかった。

でもそれを言っても意味ないことは分かっているから、もそもそと味のしないパンに手をつけた。さりげなく兄が話題を変えているのがぼんやり耳に入った。

ほとんどワンオペで育児をやってきた母は体調を崩して現在は入院している。髪は傷み、身体は冬の木々のような細さだ。今にも空気に溶けて消えてしまいそうな儚さだった。

始めこそ一週間に一度は顔をだしていたが、高校にあがってからは出していない。それは彼女のある一言が原因だった。

「もう来ないで。あの人と同じ顔で私を慰めないで。顔も見たくない」

乾いた音とじんじんと痛みを訴える手の甲は今でも鮮明に思い出せる。母似の兄とは違い、父似の自分は母には苦痛だったのだ。それを理解したときには病院ではなくて近所の公園に突っ立っていた。公園には子供一人いなくて、ブランコが北風に揺れていたことだけは覚えている。

そこから勉強どころか全てが嫌になって中学の最後はほとんど学校に行かなかった。みるみる成績が落ちていく自分を父は侮蔑の眼差しと罵倒を送った。母からは何の反応もなかった。

昔はこうではなかった。よく自分の頭を撫でてくれた暖かい手は冷え切って、濁った瞳はもう自分を映さない。――兄には時折昔の片鱗を覗かせてくれるのに。

一つ上の兄は寡黙でよくできた人物だった。父の期待に応え、成績も上位をキープし続けている。このままいけば全国的にも有名な国立大学に進学するだろう。母も兄は拒絶しなかったし、絵に描いたような優等生の人生を送っていた。当然不登校になったこともない。

だが兄弟でまともに会話をしたことなんて数える程度しかなかった。無口な堅物が服を着て歩いているような兄の考えはまったくわからない。自分を疎ましく思っているのか、父のように出来損ないと思っているのか、あるいは興味すらないのか。問いただす気さえ起きなかった。

家の中は冷蔵庫のようだった。暗くて、狭くて、寒い。そのくせ周りの人々の感情は自分を縛っていく。父の束縛と干渉、母の無関心、優秀な兄との対比。幾重にもかかった首輪は徐々に己の首を締め上げ、呼吸もするのもままならなくなっていた。

感情は最も煩わしいものだ。他人のものも己のものも。だからそれが一切介在しない数学にのめりこんだ。だが振り返ると結局切り捨てようとしたその感情に一番振り回されているのが自分というのはなんと滑稽だろう。


「おい龍、肉まんヤバいことになっているって」

光太の慌てた声が現実に引き戻す。視線を落とすと、力をこめすぎてついに肉まんの具が皮を破ってあふれそうになっていた。自棄でそれにかぶりつく。ほのかな甘みのする皮に大きめの肉が口内を覆いつくした。

「おお、いい食べっぷりじゃん」
「よっぽど腹へっていたんだな」
「うるせえ。悪いかよ」

陰鬱な気分を振り払うかのようにカラッとした明るい声が両脇から飛ぶ。茶化す彼らが今はありがたかった。

肉まんは何の変哲もない普通の肉まんだ。皮や肉に何かこだわりがあるわけでもない。なんだったら厳しい競争にさらされているコンビニのほうがまだこだわりがある。でもコンビニのものよりもずっと美味く感じるのはなぜだろう。

がむしゃらにかじっていると何の気もなしに光太が口を開いた。

「ま、でもさ、たまにはなんも考えずに頭空っぽにしてもいいんじゃねえの? お前は頭いいからヨケーなこと考えて、俺でもわかる簡単なことがみえてねえときあるし」

油断していたら死角からアッパーを食らわされた。言った本人はきっと何も考えていない一言だろうが、狭まった視界が開けたようだった。コイツはそういうところが本当にずるい。何も見ていないようで、ここぞというときに本質をついてくるからだ。

潮でべたついた髪を無骨な手が梳いていく。彼の視線は満ちては引く波間に向いているが、手つきは泣きそうなほど思いやりに満ちていた。

「……お前はもっと物事を考える時間を増やしたほうがいいと思うがな。年中頭空っぽじゃねえか」
「それは言えてる」
「二人ともひどくね? まあ俺の頭の悪さは自覚しているけどさ」

さくらから追い打ちをかけられて光太はわかりやすく肩を落とした。
それをくすくす笑いながら左側から細く白い指が労わるように優しく叩く。

これはいけない。龍は危機感を覚えた。このままではためこんできたものが決壊する。既に水の膜が張り始めているのがいい例だろう。

こみ上げてきた思いを誤魔化すように傍らに置いたラムネを一気飲みする。昭和の香りを感じさせるレトロな甘い泡が喉の奥で弾けた。

「イッキじゃん。私もやろ」
「俺もやる」

口笛を吹いたさくらも透き通った青をあおる。それに倣って光太も天を向いた。同時に口を離して彼らはそっくりの笑顔をみせた。

「久しぶりに飲んだわラムネ。特に瓶のラムネなんてスーパーに売ってないしさ」
「たしかにな。俺昔このビー玉がとりたかったのにどうやってとれなかったこと思い出したわ」

くびれで揺蕩う瓶の肌よりも深い青の珠は、太陽の光に照らされて宝石のように煌めく。それは隣に座る二人のようで、龍は息をのんだ。

彼らはいつもそうだった。こちらの事情もお構いなしに重苦しい金属の壁をぶち壊して、嵐のようにかき混ぜ、首輪を引きちぎり、壁の外に連れ出すのだ。二人が示す世界は数学のように静謐な世界ではない。むしろ混沌として馬鹿らしく、世間一般からすればほとんど価値のないくだらないものばかりであるが、自分はそれを無価値と断じることはできなかった。それどころかかけがえのないものだとさえ感じている。

感情は最も煩わしいものだ。ずっとそう思っていた。だが二人といるときに湧き上がるこの衝動が、それに翻弄される自分が憎めないのもまた事実だった。

「なあ」
「なに?」
「どうした?」

二人分の視線がこちらに向く。その瞳たちに穏やかに微笑む自分の顔が映った。

「ありがとうな」

二人は破顔し、声をそろえて言った。

「「どういたしまして!」」

ふいになぜ常に引っ搔き回されるというのに彼らの隣が心地よいか分かった気がした。――嵐の後の空はもっとも美しいからだ。


「この後どうする? また走る?」

あらかた食べ終わったところで光太が尋ねた。

「いやこれ以上やると筋肉痛で明日が辛いからやるならお前一人でやれよ」
「じゃあなにする?」

龍は顎に手をあてて考えこんだ。走る気はさらさらないし、さくらのように海を何時間眺めていられるほどの酔狂さもない。買い食いするにも寂れたシャッター街では期待はできないし、さてどうするか。

「帰り道寄り道しつつ帰れば?」

さくらが最後の一かけらを口に放りこみながら言った。

「あーじゃあそうしようぜ。途中の駅にここより賑わっているところあるじゃん」
「でもさ、それやると日が暮れるぜ? 俺らはともかく、さくらは女子だからあんまり遅くまで出歩くのは家の人が心配するじゃん」
「いや今日一日不良するんだろ。不良が門限気にしてどうすんだよ……」

やはり光太は不良に向いていないと思う。門限きっちり守るとかもうそれ不良じゃない。ただのいい子だ。

「ま、でも龍がいい顔になったからな。私はどっちでもいいぞ」

意外にもさくらが光太の意見を尊重する余裕をみせた。てっきりお前はそれでも不良かと𠮟りつけるかと思ったのに。コイツの気分は春先の天気より変わりやすい。

「はあ、じゃあ途中の駅で降りることはしないで、駅についてから寄り道すれば?」

ため息をつきつつ提案すると二人の顔が輝いた。

「さっすが龍だな! じゃあそうするか」
「頭いいな」
「わかったから背を叩くな! 俺の背中に痣作る気か」

さくらから手加減なしのひっぱたきに思わず叫ぶ。別の意味で涙がでそうだ。大丈夫かと撫でる光太の優しさが沁みる。本当に性別取り替えたほうがいいのではないか。なんだってコイツは女子のくせにこんなに粗暴なんだ。


その後、寄り道せずに無事帰った三人は茜色に染まる空の下、中身のない会話を繰り広げていたが、突然光太が上を指さして言った。

「そろそろ帰ろうぜ。陽が沈むからさ」

見上げると茜色一色だった空の裾がいつの間にか藍色に変化している。烏の大群が森に帰っていくのが見えた。

「そうだな。そろそろ帰ったほうがいいかもな」
「じゃ、解散にするか」

さくらの宣言に二人は頷いた。元気よく手を振る二人に軽く手を上げて、龍は家路についた。

慣れ親しんだ道の先にはどこにでもある一軒家が建っている。つまらないほどありきたりな見た目の家は世間体を気にする父のようで好きではなかったが、今は出かける前よりも遥かに足取りは軽かった。

ただいまーと間延びした声をあげてドアを開ける。どうせ返事なんて返ってこないだろうと思ったが、扉を開けた瞬間凍りついた。

目の前に仁王立ちした兄が立っていた。本人の気質を表したような角ばったメガネのリムが光る。

「おかえり。ところで今日学校を無断で休んだそうだな」
「……そうだといったら何?」

視線を逸らしてぼそぼそと答えた。玄関は暖色系の電球のはずだが、自分の足元の影はやけに寒々として見える。

「そうか、よかったな」
「……は?」

思わず顔を上げるとわずかに目尻を緩ませた兄と目が合う。無機質なガラスで隔てられた瞳の奥にやわらかい光を見つけて棒立ちになった。気のせいでなければ、口角も上がっているような気がする。
こちらの困惑が伝わったのか兄は補足した。

「前よりもいい顔になっているから、よかったなと言っているんだ。ああ、父さんには黙っておいてやるから心配しなくていいぞ。それからあの二人にお礼をするのは忘れるなよ」

言いたいことだけ言い投げると、兄はさっさと奥に引っ込んでしまった。

「なんだよそれ……」

髪をかき上げて龍は呟いた。

兄との間には厚く透明な壁が建っていると思っていた。姿は見えずとも堅牢な壁が建っているのだと。いつも見るのは背中ばかりで、真正面から向き合ったことはなかった。正直、赤の他人よりも遠い存在だった。

『お前は頭いいからヨケーなこと考えて、俺でもわかる簡単なことがみえてねえときあるし』

幼馴染の言葉がよみがえる。

もしかして、自分はずっと誤解していたのだろうか。案外兄のほうからも手を差し伸べていたのだろうか。

ピコンと軽やかな電子音と共に携帯が震える。薄っぺらい長方形にはメッセージが二つ。

『またお前が不良になりたそうな顔していたら、つきあってやるよ。私は優しいからな』
『たのしかったからまた三人でいこうな!』

それを見た瞬間、大声で叫びだしたくなるような、訳の分からない衝動に駆られて唇を嚙みしめる。油断すれば本当に叫びかねない。心臓がうるさく鳴り、目頭が熱くなる。

龍はこの異変を誰かに気づかれる前に自室の中に飛びこんだ。
カーテンを閉める前に見た空は台風が通過した後のような鮮やかな夕焼けだった。

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