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【短編小説】優雅な貴婦人

きれいな花には棘がある。それは花以外も例外ではない。
ある寄生生物とその研究者たちの話。

「セキュリティカードの提示をお願いします」

 無機質な機械音声が響き渡る。男は無言でカードをかざした。顔認証、指紋認証、パスワード認証もパスして、ようやく分厚い扉が開く。

「よう、成果はどうだい?」

 親しげに話しかけてきた同僚に男は手を上げて応えた。

「いいサンプルが見つかった。後でデータを共有する。Aクラスが見つかったのは初めてだろう?」
「へえ! Aクラスの宿主様かい。そりゃすごいな」
「ああ、これでF.Eの解明が進む」

 男はここで初めて微かに笑みを浮かべる。同僚は目を見開き、大口を開けて笑った。

「そういや、俺のほうでも新たな発見があってさ、実験結果見るか?」
「ぜひ見させてもらおう」

 男の席はこの同僚のちょうど向かいだ。パソコンを起動し、これまた幾重にもかけられたパスワードを解除して、ようやく画面に青白い明かりが灯る。男はその中のファイルの一つをクリックした。その中に収納されていたさらに膨大なファイルの中をスクロールしていき、あるファイルを開ける。

「セキュリティクリアランスレベル5です。職員であるかチェックを行います」

 瞬間、パソコンの上についた小型カメラが突然光り、男の上半身をスキャンするかのように放たれた光線が上下に動く。二、三度往復したところで光は消え、カメラは動きを停止した。

「身体、精神共に異常なし。職員PR105であることを確認。アクセスを許可します」
「これ面倒だよな」

 向かいの同僚が苦笑する。目の前に差し出されたのは湯気が立つコーヒー。男はため息をついて、眼鏡のブリッジを押し上げた。

「仕方ないだろう。扱う情報が情報だ」

 映し出された一つの文書と写真。これが男たちの仕事で、戦うべき相手でもある。写真の中で浮かんでいるのはドレスの裾のように揺らめく長い触手、中世の貴族のスカートのように膨らんだカサ、その上を走る紅の線。一見すれば巨大なアカクラゲとも見間違うような生物だった。
 ファルクリサオラ・エレガンドミナ。通称F.E、あるいは優雅な貴婦人。恐らくこの名を知る者は世界中を探せど、三十人にも満たないだろう。


「じゃ、俺のでも目を通しておいてくれ。俺はお前のサンプルを見てくるから」
「ああ、わかった」

 同僚は手をひらひらと振って席を後にした。男はカップに口をつけ、文章を斜め読みしながら同僚の成果を探した。
 この生物が発見されたのはごく最近のことだった。文書にはある博士の論文が載っている。日の目を見ることなく闇に葬られた、世紀の大発見だ。
 全てはこの一文から始まった。

『人間に寄生する新種生物、ファルクリサオラ・エレガンドミナの報告』

 画面に並ぶ数多のグラフ、表、図。知覚することもできないこの生物をよくぞ論理的に証明してみせたものだ。この文章に目を通すたびに感嘆の息が漏れる。著者は間違いなく天才だった。
 まず論文は寄生クラゲの生活環から説明している。通常クラゲは卵から楕円型のプリヌラ、イソギンチャクのようなポリプ、ポリプが伸びたストロビラ、花びらのようなエフィラを経てクラゲになる。ファルクリサオラ・エレガンドミナも同じだ。ただし、彼らが揺蕩うのは海ではなく空で、食べるものはプランクトンではなく、人の悪意である。悪意というと抽象的だが、具体的に言えば嫉妬、憎悪、憤怒など。人のマイナス感情を食して成長する。

 次にこの生物の特異性について。クラゲでは魚類に寄生する種が知られているが、題名にもある通り、この種は人間に寄生する。大半はエフィラから寄生するが、中にはポリプから成体に至るまで寄生した事例も確認されている。宿主となった人間は見ることも触ることもできない。男たちもこの生物を知覚できるのは、特殊な物質から作られたレンズや手袋を通してからなのだ。当然哀れな犠牲者は気がつくこともない。
 またクラゲは刺胞という構造をもつ。毒針の発射に関わる器官なのだが、ファルクリサオラ・エレガンドミナもこれを有していた。だがそれはクラゲのもつ毒性とはあまりにかけ離れたものだった。

「まさか毒を餌の増幅のために用いるとはな。よく考えたものだ」

 論文には毒を注入された人間の行動の変化を数値化した表やグラフがある。そこには歩数、心拍数、呼吸数やアドレナリンの濃度など生理的な数値から、悪態をついた、怒鳴ったなどの行動的様子まで事細かにされている。つまりこの毒は宿主を疑似的に攻撃的な状態にし、悪感情を引き起こさせやすくするのだ。博士はいったいどのような方法でここまで細かなデータを集めたのだろうか。ふと手元に影が落ちた。

「見終わったか? 俺のほうは被験者を見てきたけどさ」
「あ、いやまだだ。すまない」
「またミラー博士の論文を読んでいたのか? お前も飽きないねえ」
「性格はどうであれ、仕事は優秀だ」

 この研究の第一人者であるミラー博士は男たちの上司にあたる。論文ごと世間から抹消された男であるが、同情はしない。あの男は異常だ。彼らの容姿が妖しくも惹きつけられるのは同意するが、あそこまでいくと恋に落ちるなんてかわいいものではなく、もはやストーカーである。研究者には変人が多いとは言うものの、彼は一線を画していた。彼にとってこの寄生クラゲ以外は全て塵屑に等しい。というか価値が同じだ。ファルクリサオラ・エレガンドミナか、そうではないか。または彼らに関わるものか、そうではないか。それだけで彼の世界は構築されている。
 からかう同僚をいなし、男は再び画面に向き合った。

「あ、毒性のやつじゃん。まさに魔性の女って感じだよなあ。依存性があるなんて」
「だからこそ厄介なんだろう」

 この毒には麻薬のように依存性があった。意図的に作られた苛立ちを発散させるために、愚痴や陰口を叩くと脳内に快楽物質が放出される。それも通常の何倍も高い濃度で。おかげで負の感情を抱いても多幸感に見舞われるという何とも奇妙な状態を引き起こすのだ。その悦はいかほどなのか、これによって深みにはまっていく人間も多い。
 この幸せは僅かばかりの情けなのか、それとも更なる深淵に踏み込ませる罠か。恐らく後者だろう。この生物に慈悲などない。堕ちた者の末路は悲惨であった。過度な悪口は人を遠ざけ、始めは同類で集まろうとも、育つにつれて増加していく毒液はやがて同類の人々すらも攻撃していく。結果として孤独になった宿主の上で彼らは新たな生命にバトンを渡すのだ。後は死ぬのみ。
 人間は彼らが死のうとも健康に直接影響はないが、独りになってしまった人間は弱い。おまけに植え付けられた悪習慣のせいでもはやまともな人間関係を築くこともできないだろう。待つのは寂しい最期だけだ。

「でもさあ、本当にこの生物おもしろくない? 同じ人間でも全く育たない人もいるだろ」
「たしかに研究の余地は多いにあるな」

 この生物の興味深いところは宿主によって好適、不適があるのか、寄生しても成体にならぬまま寿命を迎えることもある点だ。理由は不明。少子化や孤独死問題が叫ばれているこの国で、今のところ唯一の対抗手段であるこの謎は早急に解明しなければならなかった。
 そう唯一の対抗手段。これが一番の問題であった。この生物には天敵が確認されていない。他のクラゲと比較して増殖能が高くないことと、寄生しても成体に至らない現象の存在だけが救いだった。
 男の口から嘆息がこぼれでる。そのときだった。

「はいはーい、君たちそんな暗い顔しなーい。君たちはF.Eにとりつかれた人間かい? それなら嬉しい限りだが。おっと冗談だよ。せっかく生きたF.Eが見つかったんだ、もっと喜びたまえ。しかも産卵直前のワンダフルな個体! ジェリー君、お手柄だ。君のことが大好きになったよ。もちろんF.Eの次にね」

 唐突にドアが開き、パンパンと手を叩きながら一人の男性が出てきた。鳥の巣のような頭、ほっそりした長身。白衣は着ているが、ところどころ汚れ、眼鏡のレンズはひび割れている。街中に出れば、まず間違いなく通報されるだろう。同僚が一歩引く気配がした。

「うわなんか出た」
「ありがとうございます。お礼はボーナス支給でいいですよ、ミラー博士」
「ジェリー君もずいぶん図々しくなったね。残念ながら特別給与はでないよ。あるのは私の称賛だけだ。さあこれを糧にもっと励んでくれたまえ。彼らのためにも、そして人類のためにも」
「そうですか。残念です」

 お前は自分の欲望に忠実なだけだろうが。その言葉をのみこみ、ジェリーは同僚の実験を探すことに集中した。この男に余計な時間を費やしたくない。ミラー博士は素っ気ないジェリーへの興味が早々に失せたのか、隣の同僚に絡みだした。

「それからその発言はなんだねミナツキ君。もう私の顔を忘れてしまったのかい。それともF.Eによって記憶障害でもきたしたのかね?」
「ありえませんよ! 検査でも異常ありませんでしたし。第一F.Eの毒にそんな効果は確認されていないでしょう」
「そうか。それは残念だ。前から君には素質があると思っていたんだが」
「博士、そろそろ怒りますよ」

 わりと朗らかなミナツキに険悪な声を出させるのもこの博士くらいなものだ。彼とF.Eがコンビを組めば、彼らの繁栄は約束されるだろう。もっともそんなことが起こった日には世界が終わってしまうので絶対にやらないでほしいが。

「で、サンプルの様子はどうですか?」
「ああ、もちろんグレートだ。君たちも来るかね?」

 博士は白衣を翻して再びドアの向こうに消える。二人は顔を見合わせた。

「どうする? 俺見てきたばっかりなんだけど」
「そんなこと言っても行くしかないだろう。博士の気分がどこまでねじれるかわからんからな」

 男たちは渋々博士の後を追う。机には冷え切った紙コップだけが残された。


「おい、本当になんなんだよ! 早くここから出せ! チッ、今度会ったらただじゃおかねえからな」

 マジックミラーの先には若者が苛立ちを隠しもせず歩き回っている。時折壁を蹴飛ばしているが、この白壁はトラックが突っ込んだところでびくともしない。むしろ痛みを受けるのは若者のほうで、その度に情けない悲鳴が上がった。一般人が見れば、ただのチンピラ崩れの男だ。しかし三人には全く別の光景が映っていた。
 男の首に巻かれた幾重もの腕。天蓋の中心には鈍く光る卵。男を抱きしめるかのように貴婦人は宙に佇んでいた。

「ふむ、脳の機能も落ちたせいか同じ行為を繰り返している。末期には学習能力の低下もみられると書くべきか」

 珍しく真面目にメモを取っている。二人は驚きの目で博士を見た。普段は寄生クラゲのことしか口にしないくせに、明日は槍でも降るのだろうか。

「それにしてもなんだって彼女はあんな社会不適合者についているんだ。クソッ、あの野郎、そこの位置変われ」
「いや社会不適合者になってしまったのはF.Eのせいでは? だから窓を叩くのは止めてください博士」
「ほんと、束縛が激しい彼氏並みの嫉妬みせますよねえ」

 歯ぎしりする博士に二人は呆れ果てた。やはりこの変人はいつだってF.E一筋だ。

「君たちは不快に思わないのかね? あんなに美しい生物が選んだのがよりにもよってあんな不潔な男なんだぞ!」
「観察対象に感情移入するのは研究者としてどうかと」
「いやあ別に。被害者の彼は可哀想だとは思いますけどね」

 博士はなおも騒ぐが、二人は無視した。若者は相変わらずせわしなく部屋中を回り続けている。ジェリーは部屋の測定器と連動したタブレット端末を操作した。心拍数は依然として高値で、瞳孔も開いたまま。興奮状態に変わりなし。

「おい、あれ……」

 不意にミナツキが窓の向こうを指さした。カサが、いや中心部が揺れている。

「まさか、卵か?」

 博士が叫ぶ。顔が押しつけられたガラスは指紋や皮脂がべったりくっついているだろう。頭の片隅にこの窓もう触りたくないなという嫌悪感がよぎったが、今はそれどころではない。動きは更に激しくなり、振動で殻が割れると思った瞬間だった。突如として卵が停止する。

「お、おいどうなったんだ?」
「ここまできて死んだとも考えられないが……」
「君たちはちょっと黙っていたまえ」

 博士が一言だけ述べた。が、それは二人を黙らせるのに十分な力をもっていた。卵は未だ微動だにしない。と、次の瞬間

パン!

 感じられないはずの破裂音が耳に届いたような錯覚を覚える。それほど強い生命の躍動だった。気づけば部屋中に卵そっくりのプリヌラ幼生が浮遊していた。一部のものは既に壁にへばりついてイソギンチャク似のポリプへと変化し始めている。親クラゲは重力に従って力なく触手を投げ出し、倒れ込んでいた。今の今まで優雅に漂っていた姿とは到底思えない。出来立ての骸は醜いゼリーの塊と化していた。

「は、ははははははは」

 何の脈絡もなく博士が高笑いした。背が反り返り、あんな細身のどこから出るのか首をかしげるほど大きな声だった。

「何あれ。ついに狂ったのか?」
「前からだろう」

 ひそひそ話すジェリーたちには目もくれず、強化ガラスを砕く勢いで博士は拳を叩きつけた。

「素晴らしい! なんとブラボーな瞬間だ。新たな生命の誕生、そして旧い世代の幕引き。実に、実に美しい! ああ、流石だファルクリサオラ・エレガンドミナ。君は本当に最高だ。君ほどの生き物は他にいない」

 恍惚を浮かべながら窓にすり寄るその様は異様としか言いようがない。ジェリーは思わずドアまで引き下がった。

「ねえクラスAサンプルの様子は?」

 ミナツキに囁かれてはっとする。窓の外では死骸をすり抜けて相も変わらず悪態をついている。タブレット端末を見ても数値は先ほどから一切変化なし。論文通り、すぐに毒がぬけることはないようだ。

「ミラー博士。この後どうしますか。この飛び散ったプリヌラ幼生を片づけるにしろ、保管するにしろ、サンプルが邪魔ですが」
「適当に言いくるめて放り出せ。あれはもういらん。……いや待てよ。もしかしたらあの男がもう一度宿主になるかもしれん。もう少し様子を見よう」

 顎に手をあてて博士はひっきりなしに呟いている。人権もクソもない発言はどこぞの団体が聞けば、飛びかかって殴り飛ばすレベルだろう。

「わかりました博士。ではもうしばらくこのままにしておきますね」

 しかしジェリーは淡々と従った。ミナツキも反論せず、別の実験の準備をしに出ていってしまう。なぜなら本質は彼と同じだから。この場には麗しき支配者とその糧、そして残酷な彼らに魅入られた者しかいない。
 たとえいくらか犠牲があろうとも、人類のために、そして己のために研究者たちは動く。それはどこか目の前のクラゲたちに似通っていた。


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