「後悔しない子育て」はできない

まったく後悔しないで子どもを育てるなんてことは誰にもできないと思います。未来は分からないので、正解どころか、目指したい方向に向かってるのかどうかさえ今判断することはできません。ストーリーは結果でしか分からないのに 常に今 判断を迫られるのって本当にたいへんです。

子どもがはじめて一人で自転車に乗って道路に出る時。
怖いです。
膝を擦りむいて大泣きして一つ勉強するってストーリーが分かっているのなら送り出しますよね。でも、最初の1回目のミスが一生に関わるケガになるかも、それどころか、もし…と考えちゃうと、行かせたくなくなります。

友だちとケンカしたって連絡があった時。
無論まず話を聞くのですが、聞いたって真相なんか分からないのが現実です。悪い/悪くない がすぐ分かるんだったら話は早く、悪いならこちらがあやまってあやまらせて、そのあとゆっくり話をすればいい。悪くないなら何があってもとことん味方でいればいい。けれどもそのストーリーが分かるのはずっと後になってからで、悪い悪くないで語り切れるものではなかったりします。

不登校にしたって、
それがその子にとってベターな選択、理不尽な苦しみから解放され才能が開花していくとか素敵なストーリーが待ってるって分かっているなら、良い選択をさせてあげたいです。でも、不登校を許さないということではまったくなく親は親で悩むという話なんですけど、強制されることなく自分で勉強を続けるのは難しく、人間なんの外的な力もなくいわゆる「前」へ進んでいくのは余程の気力能力が必要だって大人なら分かっているから、その選択をさせてあげるのは勇気がいると思います。
一方で、良い選択と信じて例えば中学受験することにしたとして、
子ども時代の数年間勉強に明け暮れることで 続く未来の数年間、そしてさらに将来 がバラ色になるどうか、選んだ時には信じたかも知れないけど保証されるものではありません。繰り返しますが、その時点では分からない誰にも分からないことなんです。


だからと言って永遠に道路に出さない訳にもいかないし、真相が明らかになるまで立ち止まっていることも許されないし、今決めないと大事な何かの機会を逸してしまうかも知れない。

未来は分からないから、
その場その場で最善と思うことを選んで進むことしかできないのです。


結果からみて全部正解だったなんてことはきっとないです。
どんなに真剣に取り組んでも失敗はあるし、テキトーでも正解だったりして、やりきれないこともあります。

でも子どもは、多分、「正解不正解」よりも、悩みながらあるいは楽天的に「その場その場で最善と思うことを選んで進むこと」自体を見ていて、それを見ながら大きくなっていくんじゃないかなと今では思っています。
それさえもすぐにそれとは分からなくて、ずーっと後になって、そうだったのかもな、と思う、ってくらいのことなんだけど。ほんと報われないですよね。

子どもを育てる過程で考えたことがありました。
この子がいなくなったら生きていけないほど大事。
でも箱に入れて置いておくことはできない。
一人の人間だから。大きくなっていかなければならないのだから。
かけがえのない大事な相手を持つこと、信じて尊重することは、
「後悔」と、いつか来るかも知れない「喪失」を、
引き受けることだと思いました。

私の子どもはもうすっかり大きくなり、私の手を離れています。でも今でも「あんなことすべきじゃなかったのかも」とか「あっちを選んであげれば良かったのかも」ってくよくよするし、そして今も失うのが怖いです。

だけどそれを引き受けるのは子どもじゃなくて私です。
子どもは子どもで自分の人生を引き受けているはずです。

そうですね、これは子育てのことじゃないのかも知れません。
自分の人生のことです。
まったく後悔しない人生を生きていくなんてことは誰にもできないと思います。後悔はします。それを引き受けて、悩みながら、あるいは楽天的に、今 最善と思うことを選んで進んでいくしかないのです。

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