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映画『私をくいとめて』の感想 「人は宿命的に“おひとりさま”だという覚悟と愉しみ」

何がホンモノで、何がニセモノなのだろう?
その境界線は、どこにあるのだろう?

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(ネタバレありの分析批評です、2020年12月31日現在の最終更新)

人は宿命的に“おひとりさま”な生き物

みつ子にはAの声が聞こえる。脳内で。
方向性に迷ったらAと対話して決めるし、時には意見が食い違ってケンカもする。でもAは言う「ワタシはあなた自身ですから」と。
Aは存在しているのか? ホンモノなのか、ニセモノなのか?
この問題は、この映画における“主題”として、食品サンプルというメタファーによっても問われるクエスチョンである。週末におひとりさまを楽しむみつ子は、東京上野のかっぱ橋で「食品サンプルづくり体験」に参加し、“食品サンプルの天ぷら”をつくって家に持ち帰る。それはとてもリアルに美味しそうで、見ていると食欲が刺激されてしまうという。食べられないから“ニセモノ”なのだが、食欲が喚起されるリアルな見た目だというのにそれでも“ニセモノ”と呼ぶのだろうか?
飛行機が超苦手なみつ子がどうにかイタリアまで飛べたのはAが隣に居て支えてくれたからなのに、それでも“ニセモノ”なのだろうか?

あらゆるものごとについて、“ここまではホンモノだけど、そこから先はニセモノだ”というように、くっきり判別できるものだろうか。このホンモノとニセモノのあいだにある“境界線のようなもの”について、映画の鑑賞中ずっと考えさせられる。

どこまでが現実で、どこからが幻想なのかも、あいまいになってくる。街なかで大声でみつ子が叫んだり歌ったりする時があるが、それが幻想の時もあるし、実際に声に出てしまっていたようで周りの人が驚く時もある。“境界線があいまい”なのだ。

ちょうど公開年とおなじ2020年に、女芸人No1を決める祭典『TheW』で優勝した吉住が、映画の中に本人役として登場するシーンがある。みつ子が出掛けた日帰り温泉施設の宴会場で、お笑いイベントのオオトリとして舞台に立つ。ネタは実際の十八番、『ダンボール彼氏のたっちゃん』。「ダンボールでつくった彼氏(名前はたっちゃん)と部屋でイチャイチャ会話している時に、父親がノックをせずにドアをあけてしまう」というひとりコントだ。みつ子は吉住のことを神々しく尊敬している。ある日、たっちゃんはいなくなってしまう。探しても、探しても、たっちゃんがいない。どこにいったのだろうと探し回ると、半身がちぎれてしまったたっちゃんをゴミ置き場で見つけることとなる。みつ子のAも、時々消えてしまう。呼びかけても返事をしなくなる時がある。「いなくならないでね」とみつ子が懇願しているのに、Aの声が聞き取りにくくなってしまう。「いるんでしょ?A?」。

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ひとりぼっちで暮らしているうちは、さみしさを紛らわすためにAに頼ってしまうけれど、多田君(林遣都)と付き合うことになって長い時間ひとりでいることがなくなれば、近いうちにAの声は聴こえなくなるだろう。それが常識的なとらえかたと思う。みつ子自身もそれに気づいている(みつ子はまったく正気で冷静)。だけどそれでもみつ子は、多田君とAの併存の可能性を狙っている。みつ子の会社の先輩のノゾミさんが「みんな生まれながらのおひとりさまなんだよ。人といるためには努力が必要なの」と教えてくれる。それは核心だ。人は、人生の最初も最後も宿命的におひとりさまだ。だって実際ぼくはぼくを産んでくれた両親といまは一緒に暮らしてはいないし、父親か母親か、どちらかが先に亡くなれば必ずもう一方は“おひとりさま”になる。夫婦ふたりで同時に亡くなることは自然には起こりえないから、だれしもが必ず最後は“おひとりさま”だ。不安だしさみしい。それならAがいてくれたほうが心強い。Aなら最後までそばにいてくれる。
学生時代の親友の皐月は、イタリアに嫁いで暮らしている。明るい家族に囲まれて、とても幸福そうにみえるが「ちょっと後悔してるんだよ。いつのまにかこんな遠いところまで来てしまって」と不安を口にして泣く。誰といても、おひとりさまだ。

目に見えるものだけがホンモノでもない

映画を見終えてからもずっと、少し気になっているシーンがある。
みつ子が、多田君と近所の通りですれ違った時に「じゃあ今日、うちで食べます?」と誘えたことだ。あそこが重要な分岐点なのだが、ほんとうにみつ子はあのとき多田君を食事に誘えたのだろうか?
あそこの場面だけ、みつ子がやけに積極的だった気がして、ひっかかっている。
あの瞬時のタイミングで、あんなにきれいに男をさっと部屋に誘えるテクニックがあるのだとしたら、それならそれで良いのだけれど。

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みつ子の幻想と現実の境界線は、時にあいまいだ。
映画に映されている映像も、半分はみつ子の妄想からできていると考えるのがよさそうだ。たとえば温泉の宴会場で吉住が酔った男たちに絡まれている時、みつ子は「やめろ!!!」と叫んで止めに入ってみせる。が、それは幻想で、実際にはみつ子は座った席から一歩も動けずにいた。
また、他にもたとえば、Aは、これまで目に見える姿形で現れたことはなかったが、みつ子の緊急事態に際してリゾートの海の景色とともに「ちょうどいいくらいの姿形」を成して目の前に現れた。かっこよすぎず、かっこ悪すぎず。でも実際にはAには造形はない。みつ子が、その時の自分の心情に都合の良いように、Aに姿形を与えたにすぎない。

みつ子が多田君をほんとうに誘えたのかどうか。
その“アンサー”は、鑑賞者には永遠にわからない。
ただ、それが現実にはどちらだとしても、たいして大きな違いはないようにも思う。我々はみつ子に教えられている。目に見えるものだけがホンモノというわけではないということに。Aがいる人生がとても豊かならAとともに生きるべきだし、もしAの役目を多田君が埋め合わせてくれるのだとすれば二人で生きていけばいい。そして、また時が来れば考え直せばいい。
どの道、人なんて、どこまでいってもおひとりさまなのだから。

(おわり)



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