わたしの心に刺さった「ロリィタ短歌」たち。
ごきげんよう、鳥居です。
3月に入り、ロリィタ短歌朗読ライブ本番が近づいてまいりました。
今日は
🎀「そもそもなんでこれに出演しようとおもったの?」
💎「川野さんの短歌がわたしの心に深く刺さったからだよ!」
というところを深く説明してゆこうと思います。
♢まずはチケットと物販の宣伝から
ロリィタ短歌朗読ライブ
『衣裳箪笥のアリス』
チケット販売がスタートしております。
事前精算オンリーです。
すでにコンビニ支払い期限が切れて再予約したケースが見られます。
どうぞお気をつけください。
また、
パンフレット
写真セット
の事前物販もスタートしております。
たいへん美しく可愛らしい世界観を切り取った物販たち。
通販限定の特典もございます。
会場での物販も予定しておりますが、会場での現金のやり取りをなるべくなくすため、通販大優先でやらせていただきます。
売り切れごめんになってしまいます。
大変充実で素敵な内容ですのできっと欲しくなっちゃいます。
お早めの確保をおすすめしております。
鳥居もちょこっと短歌詠んでるよ〜。
♢ロリィタ短歌朗読ライブ『地上のアリス』を観て
昨年2月頃に、今回の主催・嬉野ゆうさん、歌人・川野芽生さんのおふたりによる、ロリィタ短歌朗読ライブを拝見しました。
ロリィタ愛好家ではないけど、ロリィタは好きだし、
ヘタの横好きで短歌を読むこともあるわたしなので、「こりゃあ面白そうだ〜」と軽い気持ちで聴きに行ったわけです。
「朗読」という上演形態はなんどか観たり出たりしておりますが、「ロリィタ短歌朗読」は今まで体感してきたどの朗読とも違う形で、わたしのこころに触れてきました。
おふたりの発する31文字が、わたしも知らなかったわたしの心の琴線にやさしく触れてくれた、すてきな時間でした。
結果、「え!?わたしってこんなに『ロリィタ』好きだったの!?」という憧れをつよくつよく自覚しました。
それによりとてつもなく、川野さんの「ロリィタ短歌」作品群に自分を重ね合わせずにはいられない状態になりました。
そのパッションのまま嬉野さんに「ロリィタ短歌朗読感想短歌」を書き連ねて送ってみた(こちらは今回公演のパンフレットに恥ずかしながら載っています)ところ、
「そんなに感動してくれたなら、つぎは鳥居さんも一緒にやりましょうよ〜」
と、この仲間に入れていただけたわけです。
光栄ですね。
以前の記事にも書きましたが、これは「ロリィタ・アベンジャーズ」というべき、嬉野さんによる本公演に適任人間を集めた最強集団なのです。
♢ロリィタ短歌と、シスターフッド
「ロリィタ短歌朗読」を聞いて、びびびと刺さったポイントはいくつかあるのですが、具体的に短歌を引用しながら紹介していこうと思います。
あくまで鳥居の個人的な経験に基づく、個人的な解釈です。
皆様は皆様で、それぞれ好きなように読み取って、共感したり違いを楽しんだりしてね!
ロリィタ服は世間様からみると「変わった服」だと思います。
街にいればよく目立ち、「目に見えるマイノリティ」性を纏っている状態になると思う。
「ロリィタ服を着る」ことを選んだ人たちは、それぞれそのフリルの中に宝石のような精神を秘めていて、それによりどこか強く連帯している印象があります。
可愛い服は、可愛く着るのも大変で、どこかのリボンがほどけたり何重かのスカートが捲れたりする。
それを直し合う時間、可愛い服を可愛いねと褒め合う時間、まさに「誰もがおひめさまで、誰もがその侍女」のように、自分を尊重し、相手を尊重しあう心のやり取りをしているように感じるのです。
♢ロリィタ短歌と、忌みたい肉体
わたしはよく自分の身体を「アバター」と表現します。
わたしは自分の性別やその他属性をひとつにさだめ(られ)たくなくて、ルッキズムにもセクシズムにも迎合したくない。
それでもわたしの肉体は「女性」で、わたしの容姿にはなんらかのイメージが付随する。
そうした「しかたないこと」をわたしはわたしの身体に「アバター」というレッテルを貼ることで、なんとなく受け入れています。
こうした作品を読んだとき、勝手ながら「川野さんもわたしと同じように、肉体のあることの、肉体にしばられることの苦悩」がある人なのではないかと感じました。
後者の「薔薇もやうの〜」の作品は、朗読ライブでもっともわたしの心を射止めた作品のひとつでした。
わたしが「アバター」として受け入れてるもろもろを、「薔薇もやうのドレスのためのトルソー」という似たような概念に美しい装飾まで施して、いまあるこの肉体で生きていくことを受け入れられたら、なんで素敵なんだろう。
わたしの「トルソー」を彩る服はまだ出会えていない気がするなぁ。
また、自分の性別を定めたくないけど、ある程度自分の女性性を受け入れ、楽しみ、それでいて中性や少年性に憧れのあるわたしには、以下の短歌も楽しく響きました。
そうね、わたしも「次」があるなら、一度くらいは「少女のやうな少年」がいい。
♢ロリィタ短歌と、選び取った少女性
なまなましい話だけれど、「女性」というのは性的消費を受ける側(になりやすい)性別で、思春期の頃には多くがその自覚を抱くそうです。
いろいろ書くと、フェミニズムについて深いところまで書かなくてはならないかもしれないので、さらりと、わたしの好きな短歌をふたつ。
ロリィタ短歌が掲載されている、『Otona Alice Book』にて、鈴木真理子さんが「ロリィタ服」を「少女のためではなく、大人のための服」と表していました。
いい歳してみっともない、いい歳してそんな服を着て、そんな肌を出すような格好をして、といった圧力はいつも辺りに充満していて、最近はずいぶんマシになったけれど、わたしもそうした圧力にたびたび屈してきた。
20歳になったときに、「もう大人だから」とミニスカートを全部捨てた。そういうものだと思っていたから。
今ですか?もう全然気にせず好きな丈のスカートを履いていますよ。呪いはひとつ解けました。
「好きな服を着られるの今だけだから」という「若さだけが美しさ」と捉えているような幻想もありますね。
中指立てていきましょう。
わたしたちは形を変えながら永遠にきらめいて美しく居られるはずです。
♢ロリィタ短歌と、生き延びた少女たち
子供は、大人になれ、大人になれ、と育てられます。
女児はたぶん、ほんの少し強めに、大人になれと言われる、気がする。
女児は女児らしいものを好んで育ちつつ、何故かある程度の年齢になると「ピンクとかださい」「いつまでそんなの(プリキュアなど任意のキャラクター)好きなの?」という、「先にお姉さんになった女の子」の圧がやってくる。
「ダサい」というレッテルを貼られるのは恐ろしいことで、必死に同じ方向を向いて泳ぐ魚のようにして学校などの集団生活を生きていきます。
これはわたしの中ではあるあるなのですが、みなさんはいかがでしょう。
共感できなかったらごめんなさいね。
わたしが「いや、でもやっぱりかわいいものは好きだわ!」となれたのは大学のころで、そのころはもう何かの反動のようにセーラームーングッズを買い漁ることになりました。
振り返ってみると、不思議なことに小さいころはすごく好きだったわけでなく、親や祖母や周りから「女の子はこれが好きだろう」と与えられてそれが内在化された「好き」だったように思う。
のだけど、大人になって、大人になってみたら「うわああああああすきだああああああああ!」という気持ちが大爆発するほど好きになった。
不思議なもんですね。
自我がほんとうに芽生えてから、あらためて好きなものを好きといえるのはほんとうにたのしいね。
今改めて、全力で「少女」ごっこ、させてもろてます。
たのしいね!
♢おわりに
ほんとはもっと書きたいんだけど、今日はこのあたりにしておきます。
漫画家の瀧波ユカリさんが好きで、彼女の提唱する「3月3日はシスターフッドの日」というのが大好きなんですが、「ロリィタ短歌もシスターフッドだよなぁ!」とまえまえから思っていたので、3月3日に便乗して記事をあげることにしました。
繰り返しになりますが、この記事での解説は鳥居の個人的な経験基づく、個人的な解釈です!
解釈はそれぞれにあればあるほど良いと思います。
この記事で紹介した短歌、あるいは『地上のアリス』で朗読された短歌すべてが必ずしも『衣裳箪笥のアリス』で読まれるとは限りません。
また、構成や演出によって全く違う印象の作品に感じるかもしれません。
すでに、わたしのなかの個人的に好きな短歌ランキング上位は接戦を繰り返しては激しく入れ替わっております。
なんなら、今回の台本ではじめましてをした短歌が、いまのところいちばん心でなんどもリフレインしています。
この体験をはやくお客様と共有できたらいいな。
では、またね!
今日は発泡酒じゃなくてビールにしようって思えます。