普通に永野が好き

マヂカルラブリーno寄席でネタ中のランジャタイに対して永野が「アニメ絵のファンアートを描かれたら終わりだ!」「アニメ!!」とヤジをとばしていて最高やな~と思っていたら、案の定ランジャタイのファンアート書くようなファン(5chのお笑い板では「マンジャタイ」と呼ばれている)から批判を受けている、それに対してずっとモヤモヤしていた。前々からTwitterでもnoteでもランジャタイのアニメ絵のファンアートを目にする度に同じモヤモヤを抱いており、それに対して「ランジャタイも売れたな〜」と言ってみたり、M-1予選でランジャタイを応援しなくなったり、にゃんこスタースーパー3助とかウエストランド井口がランジャタイ(キュウも)目当てでくる客のことを揶揄してる動画などに高評価をつけたりしてやり過ごしていた。

そしたら可児正さんがRadiotalkで丁寧に優しく言葉にしていた。素晴らしい。

#Radiotalk  #総会 @KANITADASHI https://radiotalk.jp/talk/726826

ファンアートという文化自体はすごく好きで、「好きすぎてアウトプットしたい!」という気持ちのひとつの産物でいいと思うが、今回の永野は"ランジャタイ"のファンアートに対してヤジをとばしており、ランジャタイには「ファンアートを書くためにランジャタイのファンになった」ような層が散見される。あと批判をされた文化=悪という被害者意識は持たなくていいが、批判される恐れがあるものを作っているという意識は常に持ち合わせた方がいい、そういう恐れがないのが気持ち悪いところだぞ、という内容だったと思う。もうこれで俺の言いたかったことはほとんどすべて言われた。

素人の自分としては、ファンアートを書かれるなんてランジャタイのお笑いの対極にいるような状態なのに、その状態にファン側から仕立て上げるってどういう了見?と思う。自分の好きな音楽でいうとV系バンドとかスピッツはむかしっからヲタクがヲタク的な絵を描くことが平然とまかり通る空間で、それはそれでまあいいけど、ことお笑いに関してはそのお笑いの作品性と絵の作品性の相性が抜群に悪く、さらにランジャタイなんてのは×も×だと思う。ファンアート描いてる人たち、本当にランジャタイ面白いと思ってんのかな。マヂラブno寄席で二年連続で「つまんねえ」「漫才下手じゃない?」と面白いヤジがとんでることに対して、「つまんねえって言われてるwww」としか感じてないのでは、と心がざらざらする。あとこれは極論だと自負して言いますが、2021年以降のメディア露出でランジャタイファンを標榜するのはかなり危険な行為だと思う。2017年のM-1敗者復活を観てないのか。自分が好きなランジャタイはオズワルド伊藤のルームシェア同居人オーディションでボケちらかして嫌がられてるやつと、みなみかわの踏み台TVでほかの芸人の話をしたり、自身のチャンネルでキュウ清水の悪行を暴露しているやつです。最近だな~。

そういえば永野ってすごく人間臭くて、かつ本質的なアウトプットをする芸人だなと思っていて、かなりロック好きなのに自身のチャンネルや著書で「このアルバムは金がなかったから聴いてない」とか平気で言うし、ちゃんと偏見をもって音楽に向き合っていて、こうあるべきだよな~と感心した。永野の作品は音楽学にはならないけど、文化人類学的にはとっても価値があると思う。

少し話題に挙げたスピッツに関していうと、彼らがライブをするたびにファンがスピッツの絵を描く。描かれるのはライブ中のスピッツのメンバーの様子で、絵にはMCの内容やしぐさなどが文章化してつづられている。俺はこれがどうしても苦手だ。画風はおいといて、スピッツに対してファンアートを書くのであればそのライブの客席からの景色や頭の中に浮かんだ情景、曲や演奏から連想される世界を描くのがいいと思います。観たまんまを伝えるために書くのはもう「取材」でしかなくて、取材ってことはウケを狙いにいってるわけだから、それは内から湧き上がるアウトプットに比べて本質的ではないなと思う。ライブレポはライブレポとして書いてほしい。そういう要素を多分に含んでいるのがスピッツファンをやるうえでのしんどさ。

どんなに頑張っても通知表の図画工作・美術に「3」をつけられるから絵を描くことがめっちゃ嫌いだな~と思ってたんですけど、思い出してみると小3ぐらいまでは絵が大好きで、自由帳にオリジナルのカービィのコピー能力を書いたり、それを新聞にして、雑魚キャラ紹介とともに隔週でクラスに発表してたなーとか思う。そこには創造の自主性もあるし、「好きすぎて書きたい」という原始的なアウトプットもある。だからファンアートの原初は理解できるが、が、でありますね。

自分はオタッキーな見た目をしているくせにこういう文化に対して口をはさむ傾向があるので、人生で親しくなった女性の何人かに「人の好きなことに貴賤はないんだよ、アニメ好きもお笑い好きも平等なんだよ」と咎められることが多い。20歳の頃に特に言われた。今29歳となり、はいはいそれはもう重々承知しているつもりではありますよ私は性格が最悪ですからねと思っていますが、その好きが好きのメンタリティをしっかり持っているかに対しては常に懐疑的です。好きなのは好きでいいんだけど、そのアウトプットは本質か、アウトプットに対して責任を持てるか、また好きと標榜することでそのもの自体の価値を下げないか、という気概を持っててほしいなと思います。もっと自己としてぶつかってほしい。

近年、「アキナ和牛アインシュタイン大好き」みたいなもともとお笑い好きでアウトプットはずっと雑魚、みたいな人だけでなく、別ジャンルからお笑いにも流れてきて上澄みをすくっているだけの人が増えているね。その視点のいい部分だけ蔓延すればいいのに、負の融合が多すぎる。

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