後ろ姿

人間は2種類(ダーク・サイドに堕ちないために)

私は今まで、「幸せな人」と「不幸な人」、「善人」と「悪人」、「誰からも尊敬される人」と「人から忌み嫌われる人」等々を分ける基準は何なのか、ずっとわからないままで生きてきました。

最近、私の塾舎が襲撃されました(と言ったって、生卵を投げつけられただけですが)。
監視カメラに映っていた彼らの醜悪な表情と、事件解決の途中で出会ったいろいろ人の善意にあふれた姿を見て、やっとわかったような気がします。

それは、人間には、「人の喜びを自分の喜びと感じる人」と、「人の苦しむ姿を快感と感じる人」の、2種類の人がいるのではないかということです。

★人が喜ぶ姿を見たいから、人は生きている

私はなぜ塾という仕事をしているのか?
その根本的な理由もわからないまま今までずっとこの仕事をしてきました。

お金がなかったら生活できませんが別に大金を儲けたいわけではないし、地位や名誉がほしいわけでもない(大金も地位も名誉も、塾という仕事には無縁のものです)。
では、何がうれしくてこの仕事をしているのだろう?

今回の出来事をきっかけにわかったのは、私は、「私の接する人達が喜ぶ姿をみたい」から、この仕事をしているのではなかろうかということです。
勉強がわかったときの子どもたちのうれしそうな顔、志望校に合格したときの塾生のこぼれるような笑顔、それを見ることが自分の幸せだと感じるから、この仕事をしてきたのではないだろうか。

私だけではない、ものを作っている人は、そのものを使う人の、お店の人は、いい買い物をしたと喜ぶお客さんの、農家の人は、自分が育てた作物をおいしいと食べる消費者の、はじけるような笑顔が見たいから、苦労を苦労とも思わないで働いているのではなかろうか。

親もそうだ。
わが子が喜ぶ姿を見ることが自分の最大の幸せだから、子どものためには何だってできるのではないだろうか。

人は皆、誰かの喜ぶ姿を見たいから、一生懸命仕事をしているのです。
それが人としての幸せ、生きるということの値打ちなのです。

こんな簡単なことを、私は今までまったく意識しないで、漫然と生きてきたわけです。

★ダーク・サイドとは何か?

映画『スターウォーズ』中の印象に残る言葉に、「ダーク・サイド(暗黒面)に堕ちる」があります。
全編をつらぬく重要なテーマですが、私はただの「悪の道」だとしか思っていませんでした。

このダーク・サイドが何なのかも、やっとわかりました。

私という人間をかえりみても、私の中に「人の喜ぶ姿を見ることが本当にうれしい」という善良さと、「人の不幸を喜ぶ」醜悪さの、両方を持っています。
私だけではない。
「人の不幸は蜜の味」ということわざがあるくらいです。
人間は誰でも、人が喜べば自分もうれしくなる気持ちと、人の不幸を愉快に思う気持ちの、両方を持っています。

しかし普通は、人の不幸を喜んでいる自分をかえりみて反省し、その醜い感情に支配されることはありません。

「ダーク・サイドに堕ちる」というのは、人を苦しめて、それに快感を感じるようになる、その快感に自分の行動を支配されるようになるということなんですね。

うちの塾を襲撃した人たち、同じ夜に他の何ヵ所かも襲っていました。
その翌日も。さらに次の日も。
おそらく、酷い汚されように驚愕する人の顔や、冷え込む夜中に冷たい水で落ちない卵を苦労して洗い流す大人の姿を思いうかべながら、嘲笑いながら・・・。

ダーク・サイドに堕ちた人は、いわば病人です。

病気がはびこれば、社会自体が滅びの道をたどることになります。

私は、この人たちを徹底的に処罰するべきだと、当初は考えていました。

しかし、うちを訪ねてこられて深々と頭を下げて謝罪をされた生徒指導の先生、本来何の責任もないのに「申しわけない!」と電話をかけてこられた彼らが通う塾の塾長さん、「怒りを抑えて更生のチャンスを与えてほしい」と私を諭された警察官、こうした善意の人たちのことを思いうかべると、どうしたらよいのか、今は正直、迷っています。

彼らを苦しめて鬱憤を晴らすような醜い行動だけはしたくないな、とは思っていますが・・・。

俊英塾代表。「塾学(じゅくがく)」「学道(がくどう)」の追究がライフワーク。隔月刊誌『塾ジャーナル』に「永遠に未完の塾学」を執筆中。関西私塾教育連盟理事長。