作文の書き方(2)(作文についての2つの誤解)
『挨拶』という題名で作文を書け、という問題が出たとします。
半数近くの人は、次のような書出しで作文を始めてしまいます。
「私は、挨拶は大切だと思います。なぜなら、挨拶をすると自分も気持ちよくなるからです。」
こう書き始めた後、書いている人の手はぱたっと止まってしまいます。もう、書くことが何もないからです。
仕方がないので、
「また、挨拶をすると、されたほうもうれしくなります。だから、挨拶は大事です。」
などと、実は最初に書いたのと同じことを、だらだらと繰返すしかなくなってしまいます。
これが下手な作文の代表例。
その原因は、2つの大きな勘違いをしているからです。
★「題名にふれて書き出さなければいけない」という誤解
1つめの誤解は、作文の「題名」についての勘違い。
作文の題名は、文章全体を要約するタイトルであって、「~とは、・・・」と題名を意識して書き始める必要は全くありません。
題名が『挨拶』だったとしても、何かしら挨拶についての文章を書けばよいわけであって、「挨拶は・・・」と書き始める必然性はないのです。
作文中に1回も「挨拶」の語が出てこなくても、「挨拶」について書いた文章であればそれで充分、題名にそった作文だと言えます。題名に引きずられて書出しを限定する必要は全くありません。
★「立派なことを書かなければならない」という誤解
2つ目の大きな誤解は、作文は「何か立派なことを書かなければいけない」という勘違いです。
作文、すなわち、「文」を「作」る、それだけが与えられた課題なのに、耳に心地よいきれいごと、立派な道徳を語らなければいけないという思いこみを、なぜか子どもたちは共有しています。
『挨拶』という題名を、勝手に自分のフィルターを通して『挨拶の大切さ』と読み替えてしまっている。
だから、ほとんどの人が、「挨拶は大切だ」という似かよった文章をだらだらと書き連ねてしまいます。
高校入試で作文採点を担当される先生の、「作文の採点ほど気が滅入るものはありません。写したようにほとんど同じ内容の文章を、何百も読み続けなければならないのですから。」というぼやきをよく耳にします。
その原因は、君たちが、立派なこと、きれいごとを書くのが作文だと思っていて、だから、内容が皆、似かよったものになってしまうことにあります。
きれいごと、道徳を語り始めた段階で、その作文の内容はゼロだという烙印を押されていると思って間違いありません。
★自由に文を作る
繰り返しますが、作文とは、自由に「文」を「作」ればよいだけです。
せっかく書いた作文の価値を台無しにしかねない、「題名にそって書き始めないといけない」、「道徳的に立派なことを書かなければいけない」という、2つの思いこみを、きれいさっぱり捨てることです。
俊英塾代表。「塾学(じゅくがく)」「学道(がくどう)」の追究がライフワーク。隔月刊誌『塾ジャーナル』に「永遠に未完の塾学」を執筆中。関西私塾教育連盟理事長。