中編小説『東洋の忘れ形見』④

今日も本吉はピアノを弾く。曲は勿論、今度の演奏会で弾くラフマニノフのピアノ協奏曲第二番だ。私はオーケストラのパートを一緒に弾いて練習に付き合ってあげていたが、今日の彼は少し落ち着きが無いようだった。それもそのはず、今日は正午から帝都音楽院の入試結果が発表される日だった。

本吉は「絶対受かってるから大丈夫」と言う割には不安そうで合否結果が分かる三日前から、練習に身が入らなくなっていた。ユーゴはここのところ本吉の練習に参加せず、帝都音楽院の入試関連の仕事で家に居なかった。そのため本吉は余計に不安が加速してしまったようで、私は本吉が自室の右端に置いてある暦の発表日に丸を付けているのを見てしまった。

また、本吉がミスタッチをする。私はそれに演奏を止め、「もう今日はやめましょう」と言った。

「次は上手く弾くからもう一度だけ」

「さっきもそう言って、今と同じところで間違えたじゃない。変な癖でも付いたらよくないわ。もう今日の自主練習はやめましょう?」

本吉は渋々と言った感じでピアノから手を放し蓋を閉めた。そして、頭をかいてピアノの前をうろうろとした。

「そんなに気になるなら貼りだされる瞬間から見ていればいいじゃない」

「別に気になってない」

「貼りだされてしばらくは人が集まってみるの大変かもしれないわよ」

私は意地悪そうに本吉に言ってやった。本吉は私の言葉に思い切りが付いたようだった。

「ちょっと早いけど、やっぱ結果を貼りだされるところ見てくる」

彼はそう言うと後ろの机から外套と、手袋を手に取った。

 私はそのそわそわした様子が可愛らしいと思ったが、それをお首にも出さず。「そうね、それがいいんじゃない」と本吉を送りだした。

私も今日の午後は予定があった。

伊藤さんに車を出してもらうと、私は本吉の実家に向かっていた。以前向かった時、あんなに長いと思った道のりが今日はなんだか短く感じた。

 本吉の実家に着くと、改めて大きいなと思った。日本で西洋造りのここまで大きな建物は教会くらいしか見たことがなかった。私は呼び鈴を鳴らす。すぐに女中さんがやってきて扉を開けた。

 客間に通されると清さんはもう椅子に座っていた。時計が正午を知らせる時報を鳴らした。

「こんにちは、今日は設立記念の演奏会のチケットを持ってきました」

清さんは何も言わず私を眼光鋭くこちらを一瞥すると、チケットを受け取った。

「ありがとうございます、彼もきっと喜びますよ」

「別に、行くとは言っていない」

「そういうことにしときましょ。では、私はチケットを渡したのでこれで」

私は渡すものを渡したし、帰ろうとした。けれど、清さんが「昼ごはんを食べていきなさい」と私を引き留めた。

昼ごはんが目の前の机に用意される。私は目の前の黙っている清さんを伺いながらトマトスープに口を着けた。清さんもただ黙々と食べていて、話しかけにくかった。サラダとスープを食べ終わり、ハンバーグを食べ始めた頃私はやっと意を決して話しかけた。

「清さん、あなたは何故本吉に楽譜の読み方を教えなかったのですか?」

清さんは私の質問に、暫く黙った後ゆっくりと話し始めた。

「それは、現実に向き合いたくなかったからだと思う。ピアノを前にすると自分がピアノを弾けないことを嫌でも理解する、それが嫌だった。ただ、ピアノを憎んでいるわけでも、嫌いなわけでもない。ただ自分が弱かっただけだ」

私は何て返せばいいか分からなくなっていた。ただ、それでは疑問が残る。

「では、何故あなたは帝都音楽院に出資したの?」

「君はクラシック音楽が誰のものか考えたことはあるか?」

「音楽はみんなのものよ」

「そうだな、ただ、そう思わない人たちもいる。私も留学中、日本人にはワルツは弾けないとよく言われた」

私は心当たりがあった。私自身、本吉のピアノを聴くまではクラシックピアノを日本人に弾くのは難しいと考えていた。清さんは続ける。

「出資したのはクラシック界で世界に通用するような、そういう音楽家を作りたいと山際さんに誘われてな。まぁ、まさかそれが自分の倅かもしれないなんて思いもしなかったが」

清さんは笑った。笑うと本吉に目元がよく似ていて、二人は親子なんだなと思った。

「私自身、クラシックは西洋人にしか難しいと考えていた節がありました、けれど本吉、誠君は私の固定概念を一瞬で払拭しました。彼なら、清さんと山際会長の夢をかなえてくれるような気がします」

「マ・メール・ロワを聞いた限りまだまだだけどな。まぁ気長に待つことにする。これからの時代は平和だからな」

「えぇ、そうですね」

私は微笑んで、清さんと同じく木漏れ日がこぼれる窓の外を見た。

私は昼ご飯をご馳走になると、清さんに見送られ本吉の実家を後にした。家に戻ると本吉は既に帰っていて、「俺、特待生だって」と声高らかに自慢してきた。

私は実はもう結果を知っていたため、さも当然と言うように「私が教えたんだから当たり前でしょ」と胸を張った。

本吉はそれに「ありがとう」と言って私にまた両手いっぱいに紙袋に入った駄菓子を渡してきた。私は以前買ったものよりもはるかに多いお菓子たちを見て「だからいつも買いすぎよ」と笑った。

 

 入試から二か月もの間、本吉は毎日ピアノを朝から晩まで弾いていた。以前は覚えられなかった楽譜たちも、記憶力がいいのか演奏会の一か月前には完璧に覚え、弾けるようになっていた。

 元々ミスタッチは少ない方だったが、ここのところの演奏はどこか鬼気迫るものがある。まるで何かを決意したような、そういう覚悟が感じられた。演奏会の二週間前オーケストラと合わせる練習が始まった。

 今回オーケストラは海外から呼んだプロのオーケストラだ。最初はオーケストラの人たちは本吉がクラシックピアノを始めて数か月であるのとアジア人だという事で斜に構えていたが、リハで彼がピアノを鳴らした途端、空気が変わるのが分かった。本吉のピアノは力強く、それでいて繊細で、角がない。人の心に浸み込んでいき、オーケストラの人たちの音楽の根幹にあるそれぞれのルーツを思い出させているようだった。

 音楽家の音の源を直接刺激し、私たちの心に音楽の楽しさを思い出させてくれる演奏。本吉の演奏はそういう演奏だった。ユーゴと既知の仲の指揮者は本吉のことを「音楽が何たるかを体現しているような男だ」と褒めていた。その通りだと思う。

 そして二週間もの間に私はある決断をした。しかし、ユーゴにそれを言えても、本吉に言うことはなかなか出来なかった。

 

記念演奏会当日、本吉はとても緊張しているようだった。

「やばい、父さんが見に来てる」

本吉は舞台袖で小声だが狼狽えたように言った。

「私が招待したの、出資者なのに来てないなんておかしいでしょ」

「そうだけど」

「あなたなら、大丈夫」

本吉の目を見て言った。本吉はそれに急に真剣な顔になった。

「うん。ミシェル、俺これが終わったらミシェルに言いたいことがあるんだ」

私はそれに頷き、「私も」と言った。本吉は私の返事を聴き破顔しながら、舞台上に飛び出していく。拍手に包まれながら観客の前でお辞儀すると、ピアノの椅子に座った。

本吉の演奏が始まる。

最初の和音が鳴り、オーケストラの音とピアノの音が混ざり、張り詰めて何かの拍子に壊れてしまいそうなそういう音の渦を作り上げる。観客だけでなく、何度も聴いていた私やオーケストラも本吉の音に酔いしれた。けれど、本吉だけはその音に向き合い、よりいい音、よりいい響きにと彼の中の想像する完璧なものに少しずつ近づいていくのが分かった。

私はこんなに凄まじいラフマニノフのピアノ協奏曲第二番を聴いたことがない。以前、本吉と話した約束が思い出される。

『ミシェルがおばあちゃんになっても思い出す演奏をするピアニストになるよ』

今約束が果たされてしまう。いや、もしかしたら私にとって本吉はもっと前から一生忘れられない演奏をしていたのかもしれない。私の記憶の中の彼の音はどれも眩しいくらいの光を放っていた。一番最初の『雨に唄えば』は粗削りだけど、存在感があり私たちを楽しませた。一緒に弾いた『きらきら星』も音の粒が星のように揃っていて私に寄り添ってくれた。『マ・メール・ロワ』は戸惑いながらも、歌うように滑らかな主旋律があの物置部屋を暖かく満たしていた。そして、今彼が弾いている私が敵わないと思ってしまった『ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番』。彼のピアノの記憶はぜんぶ宝物だ。

「あなたなら、大丈夫」

この言葉は先ほど本吉に言った言葉だが、私自身に向かっても言った言葉である。

 私は一度ピアニストを諦めた。私は生まれつき手が小さかったからだ。オクターブまではぎりぎり届いても、オクターブも含めた和音を奏でるのが難しかった。だから私はユーゴの助手として十八歳になるとフランスの音楽院に通わないことを選んだ。

 ただ、本吉に出会って私は夢を思い出してしまった。それは途方もない夢だ。叶うかなんて分からない。けれど、挑戦せざる得ないほど私の夢は彼に出会って大きく育ちすぎてしまった。

 私は舞台袖で本吉の演奏を聴きながら涙を流していた。私はきっと本吉のこの日の演奏を忘れない。おばあちゃんになっても、絶対に忘れることはできない。

 ラフマニノフが佳境に入る。もう三十分近く演奏をしている本吉は疲れ切っているだろう。けれど、彼のピアノは弾けば弾くほど凄みを増した。まるで、命を削っているようなそういう勢いがあった。オーケストラもそんな本吉の演奏に応えるように、ピアノの演奏に食らいついている。指揮者は本吉の演奏とオーケストラの覚悟を背負おうとしているのが分かった。

 終わってしまう。曲調が終わりに向かうにつれ段々明るくなっていき、本吉が一番得意とするクライマックスに入った。後二、三分で終わってしまう。私は涙を流しながら、終わりを待つ。終わってほしくない。けれど、そんな私の想いとは裏腹にリズミカルに一気に音楽たちは駆け抜けていく。そして、最後のフレーズに入り、本吉はピアノの音でホールを満たすと、演奏の余韻を残したまま曲を終わらせた。

 余韻の残した一瞬の静寂の後、会場ははちきれんばかりの拍手で満たされた。会場が音楽で満たされていた空気は一瞬にして感動の波になり、スタンディングオベーションになった。

 本吉は汗だくで戻ってくると、私に何か言おうとした。けれど、上手く言葉が出てこないらしく、口を開いては閉じた。私はそれに「きっと私はおばあちゃんになってもこの演奏を忘れない、約束を果たしてくれてありがとう」と言った。

「お、俺の方こそ」

本吉はそう言うと、頭をガシガシとかいた。

「これで安心して国に帰れるわ」

本吉の頭をかく手が止まったのが見えた。

「私、日本に来て正解だった。本吉、あなたが正解にしてくれたの」

「じ、じゃあなんで、なんで国に帰るなんて言うんだよ」

「夢があるの。私ピアニストになりたいの」

本吉は下を向いた。私はそれに、声をかける。

「go-me-n-na-sa-i」

声は涙でにじんでいた。本吉が顔をあげる、その目は今にも涙がこぼれ落ちそうで、赤く充血していた。

「ne m’oubile(私を忘れないで) pas」

私は本吉にフランス語で話しかけた。

「ぬぶ?、どういう意味だ」

「私を……」

私は本当の意味を言いかけてやめた。

「ごめんなさいっていう意味」

本吉はそれに一瞬驚いた顔をし、寂しそうに「なんだ、知ってたのか」と笑った。

 アンコールの声がかかり、本吉は舞台に再び上がった。

スポットライトを浴びる彼はどこか遠い人間のような気がしてしまう。本吉は私が居なくても大丈夫だ、と思い目頭が再び熱を持つのを感じた。あんなに大好きな本吉のピアノの音が今は聞きたくなくなってしまった。今本吉のピアノを聴いたら、私は帰りたくなくなってしまう。アンコールの拍手の中、会場を出る。

運転手の伊藤さんが待つ車に乗り込んだ。

「伊藤さんお待たせしました。港までお願いできる?」

「本当に良いのですか?まだ少し早いですが」

「えぇ、いいの。ここに居たら決心が鈍ってしまうから」

私は擦りすぎて痛くなった目からあふれる涙をお気に入りの深緑のコートで拭った。

「ですが……」

「いいの!」

自分でも思ったより大きな声が出た。伊藤さんは私の頑なな態度に車を発進させた。

「ミシェルさん、これは聞き流してくださってくれていいんですが」

「なによ」

「私は戦争前、好きな女性がいましてね。戦争に行くとき、思いを告げようか悩んだんです」

私は適当に相槌を打つ。車は進み左に曲がった。

「でも、結局伝えないまま戦争に行きました。帰ってこれた時に告げればいいと思ったんです。でも、彼女は東京の空襲で行方知れずとなりました。戦争に行った自分は助かったのにおかしな話ですよね」

車はまた左に曲がる。

「今でも彼女に思いを告げなかった自分を責めてしまいます。こんなに日本は元に戻ったのに、時間だけは戻ることはないんです。今も私はあの時の後悔と共に生きています。だから、今の若い世代には後悔してほしくないんです」

 そう言うと車はまた左に曲がった。私は周りを見る。車は先ほどの演奏会のホール前に戻ってきていた。そして、そこにはタキシード姿で会場から出てきた本吉が目に入る。

「後悔のない選択をしてください」

伊藤さんはそう言うと、車を止めるとドアのロックを開けた。本吉は私の乗った車を見つけ、走り寄ってくる。私は車から降りるわけにもいかず、下を向いた。

本吉は車のドアを開けると、勢いよく私の隣に乗り込んだ。

本吉が乗り込むと車は再び発進した。私は本吉に何て言っていいか分からず、黙り込んだ。

そんな私の顔を本吉は覗き込み、真面目な顔で言った。

「俺はフランス語は分からない、でも親父に聞いたらごめんなさいはパードンっていうんだってな、ミシェルあの言葉の本当の意味は何?」

「わた、わたしを」

「わたしを?」

本吉は優しい声で聞き返す。私は顔に熱が集まるのが分かる。でも、ここで言わなければ私は一生後悔する。そう思うと口をついて言葉が出た。

「私を忘れないで」

隣にいた本吉は深くため息を吐く。不意に、座席に置いた冷たい私の手が暖かい本吉の手で包まれた。

「忘れられるはずない」

私は上手にその言葉に返せなくなった。本吉もなんて言えばいいか分からないようで私たちの鼻をすする音が車の中に響いた。窓から海が見える。港が近づいているのが分かる。けれど、私たちは何か話すでもなく、海を見るでもなく、ただ下を向いた。

大きな船の前に私たちの乗った車が止まる。伊藤さんが荷物を降ろすため、車を降りると「ミシェル」

本吉が私を近距離で呼んだ。私はその声に顔を上げられない。きっと、この後本吉は私に好きだと言うんだろう。けれど、今その言葉を言われたら私は揺らいでしまう。

「私、自分よりクラシックピアノが上手い人にしか惹かれないの、だから出直してきて」

私は本吉の返事を待たず、車を出た。荷物は伊藤さんが船の乗務員に渡しているのを確認した。私は船に向かって歩き出した。

本吉が後ろで私の名前を呼ぶのが聞こえる。私はそれに振り返り「待ってるから!」と手を振った。

 船に乗り込むとデッキに上がり、本吉に再び手を振る。本吉はただでさえ大きな手を勢い良く振っていた。暫くして、船の汽笛が鳴る。船のチケットを見せた時に渡された赤いテープを見る。テープ投げ用に渡されたものだが、私はこのテープが切れるのを見るのがその人との縁が切れてしまうようで嫌いだった。

 ドロップ缶を開け、飴を口に一個入れる。ミントの清涼感でハッカだと分かった。私はテープ投げ用のテープを投げずに丸ごと海に落とした。船なんかに私たちの縁は切らせてやんない。切らせてなるものか。

港にはファンファーレが鳴り響き、再び鳴った汽笛と重なる。少しずつ私たちの間に距離が空く。視界がぼやけてもだんだんと本吉との距離が開いていくのが分かる。デッキの人がまばらになったころ、私はやっとのことで涙を服の袖で拭った。船室に戻ろうと踵を返す。けれど、名残惜しくてもう一度振り返った。海には船の作った白い波が浮いていて、日本はもう見えなくなっていた。

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