中編小説『東洋の忘れ形見』③

私は鼻歌を口ずさみながら、バルコニーの洗濯物を眺めていた。洗いすぎてちょっと固くなったバスタオルの向こうには青空が広がっており、風で見えたり隠れたりする。
朝九時の少し前、本吉はいつも通りピアノの練習をしている。聞こえてくるのはラフマニノフのピアノ協奏曲第二番の冒頭部分だった。受験が終わるとユーゴは入試の結果も待たずに本吉にレッスンをつけ始めた。
本吉は楽譜を見ながら一通り弾けるようになるのに二週間丸々を費やそうとしていたが、未だできていない。まだオーケストラと合わせる段階ではないため、オーケストラ部分は私が弾いているのだが全楽章合わせると四十分近くかかる曲のため、私自身も神経をすり減らした。
ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番は曲自体長くて楽譜を覚えるのにかなり苦戦しているようだった。ユーゴは本吉のためと言い、耳で聞かせて覚えるのではなくあくまで楽譜で覚えさせることを重要視した。そのため、本吉は楽譜に引っ張られ思ったように弾けず練習は難航した。
 また、本吉はサロンなどで弾くピアノの弾き方はできていたが、コンサートホールで弾くピアノの弾き方をしたことがなかった。サロンでのピアノは小さな音を出す時ただ優しく弾けばいいのだが、コンサートホールのピアノは小さい音を出すときも音の芯をきっちりととらえた弾き方をしなければホールの後ろの人まで届かない。本吉はその音の芯をとらえた弾き方にも苦労していた。
 元々、本吉は短調の曲はあまり得意ではなく、どちらかと言うと明るく華やかな曲が似合うと思っていた。ラフマニノフのピアノ協奏曲二番はダイナミックで力強い曲だ。どちらかと言うと、本吉のコミカルで軽い音には合わない。師匠であるユーゴもそれは分かっているはずだ。
 私が考え事をしながらユーゴを観察していると、ユーゴは私に声をかけてきた。
「マドレーヌ、ドロップ一つもらえるかい?」
私は机に置いてあったドロップ缶を取り、缶を傾けてユーゴの手に飴を出した。飴はレモンかハッカかよく分からない色をしていた。
「どうして、ユーゴは本吉にラフマニノフを弾かせたいの?」
私は純粋な疑問を本吉に聞こえないようにフランス語で聞いていた。
「なんでそんなことを聞くんだい?」
「だって、ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番なんて難曲よ。それをクラシックを始めて三か月のコンチェルトで弾かせるなんてどうかしてる。それに、この曲は本吉の明るい雰囲気に合ってないわ」
ユーゴは困ったような顔をして「マドレーヌは本吉君がラフマニノフを弾けないと思っているのかい」と言った。
「そんなこと思ってないわ。でも」
「昔、すごくこの曲が上手い人がいたんだ、僕よりもずっとね。その人と本吉君のピアノの音がよく似ているから、もしかしたら本吉君ならその人以上に弾けるかなって思ったんだ」
私は今までユーゴ以上のピアニストに出会ったことがない。そんなユーゴが自分より上手いという演奏をする人、私はどんな人か気になった。
「もしかして、ラフマニノフ本人?」
「いや、本人じゃない。無名のピアニストだ。その人は……」
私はユーゴを見た。ユーゴはとても悲しそうな顔をしていた。
不意に本吉の演奏が止まった。話が聞かれていないか、私たちは本吉を確認した。本吉はこちらを気にする様子もなく、足元に置いてあった魔法瓶で麦茶を飲むところだった。別に聞かれても困る話ではなかったが、何となく気まずかったのだ。
本吉は私たちが見ているのも気付かずに、またピアノの椅子に座った。それを見てユーゴは大きな声で「そろそろ今日のレッスンを始めよう」と言った。時刻は九時を指していた。
本吉は私が二台目の左のピアノに座ると、嬉しそうに私を見た。
「ミシェル、今日もよろしくな」
「えぇ、よろしく」
毎日私は人前で弾くわけでもないのに同じ曲を何度も弾かされているが、私は本吉と練習するこの時間が嫌いではなかった。むしろ、本吉の音は聴いていて心地よくて、いつまでも彼の音楽に浸っていたいと思ってしまう。もとから、本吉の音は彼の世界に没入させるような力があったが、最近、それは顕著に表れるようになった。
 また、ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番はずっとサビのようなメロディーが続き、休みがない。聞いている分にはいいのだが、演奏するとなるとどうしても後半疲れてきてしまう。けれど、本吉の持つ独特のエネルギーのようなものが私を引っ張り上げてくれる。自然と彼の演奏は周りを巻き込み前に進む力があるのだ。
「ストップ、今のとこ音が増えてる、この楽章の最初から」
私は不意にユーゴの声で音楽の渦から少しずつ現実に戻ってきた。それまで、ピアノを弾いている感覚さえも音楽に溶け込んでいた。ピアノを弾くことが呼吸をするようだったのだ。しかし、一度演奏を止められてしまうと疲労感、脱水症状、空腹感が一気にやってきた。
気付くと、時計は十時半を指していて、私は慌ててユーゴに今日の予定を思い出させた。
「ユーゴ! 今日は銀座で本吉のコンサート用の燕尾服を仕立ててもらうんじゃなかったの? もう十時半よ!」
ユーゴも本吉も予定時刻よりもだいぶ長く練習したことに気付き、大慌てで席を立った。かくいう私も、焦りながら出かける身支度を始める。朝に粗方準備は済ませてバッグもコートも自室に置いておいた。自室に急いで戻りバッグを引っ掴んでコートを着ながら屋敷の廊下を小走りで進む。ユーゴと本吉はレッスン室からそのまま来たのか、既に玄関に居た。
 私たちは音楽院から支給されている車に乗り込む。運転席に通訳の伊藤さんは座り、助手席のユーゴと片言のフランス語で会話していた。本吉と私はと言うと、狭い後部座席にぎゅうぎゅうで乗った。
 本吉は耳まで赤くしながら下を向いていた。私も右隣の本吉の体温にどうしたらいいか分からず、下を向いた。本吉はズボンの上に茶色の手袋を着けた手を強く握っている。私は本吉が私よりも緊張していることに気付き、ついいたずら心が湧いてきてしまった。
「本吉、そんな風に手をしていたら、手がダメになってしまうわよ」
私はそっと本吉の手の甲を手袋越しに撫でた。本吉はその途端一気に立ち上がり、車の天井に頭をぶつけた。
天井に頭をぶつけた音に、ユーゴと伊藤さんが後ろを向き本吉に大丈夫か聞いた。本吉はそれに痛みなのか、恥ずかしいのか顔を赤くさせながら、「ダイジョウブデス」と言う。私はその一連の本吉の行動が可愛らしくて、意地悪したのがばれないように笑うのを必死にこらえた。ただ、本吉は私の表情にからかわれたのが分かったのだろう、眉を下げながら私にしか聞こえないくらいの声で「頼むから、あんまりからかわないでくれ」と車窓の方に顔を向けてしまった。これ以上彼を拗ねさせるわけにもいかないので、私自身も車窓を眺めることにした。車窓を眺めると、私は先ほどまでの練習もあってうとうととしてしまい、いつの間にか眠りに落ちた。
目が覚めるとそこは都会だった。銀座の街はパリほど趣はないが、数階建てのビルが並び私の思い描いていた日本のイメージと違った。西洋造りのビルの周りにはアスファルトの舗装された道路が通っていて、その上には私たちが乗っているようなピカピカの車がいくつも走っていた。
私は仕立て屋でショーケースに入っている洋服を見ながら、本吉がサイズを測ってもらうのを待っていた。不意にお店の人に日本語で話しかけられた。私はなんて答えていいか分からず、店からなんとなく出てしまった。出てしまうと少し店に戻りづらくて、同じビルの中ならば大丈夫だろうとビルの中を見て回ることにした。
そのビルには仕立て屋のほかにも、生活用品店のなどがありを通り抜けると、数店舗先に楽器店があった。日本はほとんどピアノが普及していないと思っていたので、ピアノの置いてある店を見つけ嬉しくなった。
店頭に置いてあるピアノに触ってみる。私がいつも弾いているグランドピアノと違い日本製のアップライトピアノは軽く硬質な音がした。バロック時代の曲が合いそうだな、そんなことを考え、ピアノの椅子に座り、バッハのトッカータのニ長調を弾いてみる。
バッハはピアノのための曲は作曲をしていない。実は私たちがよく弾いているピアノは十九世紀になってから出てきた最近の楽器である。そのため、バッハの曲は現代になってからピアノ用として編纂されたものだ。
今弾いているこの曲も本来はピアノのために作られたものではない。しかし、楽器を変えてもなおバッハの曲は魅力を損なわない。私はオルガンで演奏されるこの曲も好きだが、ピアノで演奏されるこの曲はより一層好きだった。
軽快な耳に残るメロディーに私はするすると手を動かした。トッカータは当時主流だったオルガンやチェンバロ調律を見るために弾いたものが最初だと言われている。試し弾きと言うわけだ。我ながら今のこのアップライトピアノと私にぴったりの選曲だと自身で音を楽しみながら弾いていると、いきなり肩を掴まれた。
振り向くと、そこには息を切らした本吉が居た。
「どこ、行ったのかと思った、心配した」
本吉はそう言うと泣きそうな顔をした。私は必死な本吉に何て言えばいいか分からず、「大丈夫?」と聞いた。すると、「大丈夫なわけないだろ、誘拐でもされたかと思って、心臓止まるかと思ったんだぞ」と大きな声で私に言い返した。私は状況が上手く呑み込めず本吉がいきなり大きな声で怒鳴るので、泣きたい気持ちになった。
「なんで怒ってるの、そんなに怒らないでよ」
私が今にも泣きそうな声を出すと、本吉はきまりが悪そうに「だってそれはミシェルが心配させるから」と言い訳した後、小さい声でごめんと言った。そして本吉は椅子に座っている私と目を合わせ、「仕立て屋に居たはずのミシェルが居なくて心配したんだ。なんもなくて良かった。怒鳴って悪かったな」と子供をあやすようにした。
「私は大人よ、そんな迷子になったりしないわ」
「ミシェルは日本語が話せないだろ」
「じゃあ、本吉が教えてよ」
売り言葉に買い言葉のように、するすると言葉が出た。そのあと、日本に居るのはユーゴがいる二年だけだったのを思い出した。しかし、日本語が話せれば一人でお菓子も買いに行けるし便利なことも増える。これは名案とばかりに本吉を見ると、彼はため息を吐いた後「オーケー」と頭をかいた。
「じゃあまず一つ目の日本語な go-me-n-na-sa-i 言ってみ」
仕立て屋に戻っている途中に本吉は私に話しかけてきた。
「go-me-n-na-sa-i ?」
「発音がいまいち、もう一回、心を込めて」
「go-me-n-na-sa-i」
「いいよ、許した」
何を許したのだろう、どういう意味なのだろう。私は気になって尋ねてみることにした
「本吉これは、どういう意味?」
本吉は笑いながら、私を見た。
「あなたを愛してますっていう意味」
「本吉! あなたふざけてるでしょ!」
本吉は私が怒ると、腹を抱えて笑った。私はそれが腹立たしくて唇を結び本吉を睨んだ。私が本吉に対して怒っていると、通訳の伊藤さんが仕立て屋から出てきた。そして、ユーゴも服を仕立てることにしたので、もう少し時間がかかるという事が分かった。すると、本吉は何か伊藤さんと日本語で話をした後、私にいつものように英語で話をした。
「このあたりにパフェが食べられる店があるんだ。十六時までに戻ってくればいいってさ」
「パフェが日本にもあるの! 行きたい!」
銀座の街並みはパリとは違い派手な看板がいくつも目に入った。私は看板のセンスが独特で面白いなと思い、あたりを見回した。本吉はそんな私を見ながら、「今度は迷子になるなよ」と私をからかった。私はムッとして仏頂面をすると、本吉は笑い「まぁ、もう着いたけどな」と日本語の看板が付いている建物の階段を上がった。
本吉とともに案内されたパーラーに入る。メニューはすべて日本語で私は本吉に聞いた。
「これはなんて書いてあるの?」
「これはチョコレートパフェ、こっちはフルーツパフェ、バナナやイチゴ、メロンが乗ってるって書いてある」
「フルーツパフェにするわ」
私は機嫌よく言った。本吉は丁度よく水を持ってきたウェイトレスに注文をする。その様子が手馴れていて、こういう店に本吉はよく来るのだろうか、と思った。周りの客を見回した、周りはほとんどが若い女性だった。私はなんだか聞かなければすっきりしないような気がして「本吉はよくこの店には来るの?」と聞いた。
「妹がいてな、ここの甘いものが好きなんだ」
彼は嬉しそうに私に話をした。本吉の返事に私はなぜか安心していた。本吉の家族の話をそういえば初めて聞く。私は本吉から出てきた家族の話に興味を持った。
「妹さんがいるの? 初耳だわ」
「おう、と言ってもすごく気が強くて、食い意地が張ってて、どうしようもないやつだけどな」
私はそれを聞いて本吉と妹さんは仲がいいのだなと思った。
「妹さんと仲がいいのね、素敵だわ」
本吉はそう言うと嬉しそうに、「そうかもしれない」と言った。私はなんとなく本吉の家族構成が気になって、忙しなく行き来する窓の外の車を見ながら聞いた。
「ご両親はどんな人なの?」
喧噪が遠くから聞こえ、本吉が黙ったのが分かった。私は彼を見た。彼はいつかの作ったような表情をした。そして、やっと絞り出したように「どんな人だろ、あんま分かんないや」と言った。
私は聞いてはいけないことを聞いたのだと分かった。
「ごめんなさい」
私の謝罪の言葉に本吉は作ったような表情を崩し、「いや、違うんだ、ただ……」と何か言おうとした。けれど、「お待たせしました、こちらフルーツパフェとコーヒーでございます」とウェイトレスの元気な声にかき消された。
 フルーツパフェは美味しそうで本来なら大喜びするところなのだろうけど、私は俯いた。
「ミシェル、アイスクリームが溶けるぞ」
顔をあげると、本吉は努めていつもの本吉を演じているようだった。彼は約束したあの日、私の心に寄り添ってくれたような気がしていた。けれど、彼自身は私との間に線を引いていて、ここから先には入ってくるな、と言っているような気がした。私はそれが悲しかった。
 一生懸命食べたフルーツパフェはあまりおいしくないような感じがした。母国で食べたようなアイスクリームの味も、生クリームも、おそらくとっても値段のするメロンやイチゴなどのフルーツたちもあんまり食べたような気がしなかった。
 本吉はコーヒーを飲んでいてたまにこちらを伺って、入試の結果発表が来週の事とかピアノの話とかを振ってくれるが私はあまりうまく返せなくて、いくつも会話が途切れて終わっていった。
 パフェを食べ終わり、私たちは上手く仲直りができないままユーゴたちのところに戻った。車の中で、ユーゴと運転している伊藤さんは話をしている。私は隣の本吉を見る。本吉と目が合い、でも何て言ったら分からず目をそらす。二回ほどそのやり取りを繰り返して、しびれを切らしたように本吉は私の方を見た。
「ミシェル、帰ったら話したいことがある、いいか?」
彼は真剣な顔をしていた。私は話したいことが先ほど聞いた家族のことだと分かった。けれど、自分が無理やり土足で彼の心に踏み込んでいるような気がしてならなくて、「無理に話さなくていいわ」と言った。
「いや、俺が話したいんだ」
本吉は真っ直ぐな目で私を見た。私はそれに分かったとも言えず、ただ頷いた。暗くなり始めた空はネイビーブルーに淡く染まっていて、車窓には浮かない顔をした私が浮かんでいた。
屋敷に着くと、家の前には別の黒い車が停まっていた。私達の車が敷地に入ると、家の前に停車した中から人が降りてきた。降りてきたのは杖を持った初老の男性だった。前に乗っていたユーゴは私達に「先に屋敷に入ってなさい」と言い車から降りた。
「俺も行きます、あの人は俺に用事がある」
本吉はユーゴの後に続き車を降りた。私は車から降りて、ユーゴの言いつけも守らず二人を追いかけた。
初老の男性はユーゴを見ると「久しぶりだな」と日本人にしては綺麗なフランス語で言った。
「清、三十年ぶりくらいかな、元気にしてたかい?」
ユーゴは口では三十年と言っているのに、つい最近まで会っていたかのような軽い口調で言った。清と呼ばれたこの男性は「この手を見て言うのか」と杖の持っていない方の左手を見せた。そこにはあるはずの手首から先がなかった。私からも見てわかるほどユーゴは視線を泳がし狼狽えるのが分かった。
「まぁいい、本題に入ろう、倅を返してくれ」
ユーゴは本吉を隠すように立って「本吉君の事かい? それは、できない」と目の前の男性を睨んだ。
「帝都音楽院に出資しているのは僕だ、僕の一言で君なんて国に返すこともできる」
「なんでそこまでして君は本吉君の邪魔をするんだ」
「簡単だ、誠にはピアノの才能がない」
「それを決めるのは君じゃない」
「そうだな、だがお前でもない」
ユーゴが言い返そうとした時、本吉が何か日本語で声をあげた。本吉を見る。本吉は作ったような笑みを繕おうとして、けれど目には涙が張り、上手く表情が作れていなかった。
清と言う男と一言二言本吉は話すと、彼は私たちの方を向いた。
「この三か月半本当に夢のようだった、でも俺には才能が、ない」
本吉は早口の英語で私とユーゴにそう言うと、清さんの方に歩いて行こうとした。私は咄嗟に本吉の手を掴んだ。本吉は私の手をゆっくりと引きはがし、「go-me-n-na-sa-i」と私に日本語で言った。
清は本吉を車に乗せ帰っていった。
私は本吉が居なくなってしまうと、車を追いかけた。スカートをたくし上げ、でこぼこ道の土にまみれながら走る。他の人から見たら滑稽かもしれない。けれど気にならなかった。車は私よりもうんと早くて、だんだん豆粒みたいになって見えなくなった。息が切れ、むせると同時に苦しくて涙が出てきた。私はもう見えなくなった本吉の乗った車が行った方向を見た。屋敷に戻ることもできず、ただ茫然としていた。
才能がないと本吉は言われていた。私は知っている。自分の好きなものが、才能、センス、そういう一言で片づけられて否定される辛さを知っている。
誰かにとっては嫌いなものでも他の誰かにとっては宝物だったり、意味のあるものだったりする。私にとって本吉のピアノは私が決して手に入れることのできない輝きを放っていた。私が持っていないものを生まれつき手に入れておきながら簡単にピアノから身を引こうとしている。悔しくて涙が出る。肩で息をしながら、気持ちを落ち着かせようと深呼吸を繰り返した。
涙が枯れて顔が引きつれて痛くなったころユーゴが探しに来て何も言わず私の手を引いた。
後ろにはいつか見た一番星と黒に近い紺の空がただ広がっているだけだった。
 
二月の寒さに手袋越しでも手がかじかんでしまった私はぬるま湯に手をゆっくりと付けながら、ユーゴとともにレッスン室にいた。
「ねぇ、ユーゴ、本吉がどこに行ったか分かる?」
「マドレーヌ」
「本吉を追いかけなきゃ、だって、彼はまだピアノコンチェルトを弾いていないわ」
ユーゴはそれを聞いてため息を吐いた。
「マドレーヌ、君はまだ本吉君を諦めていないようだね。ただ、落ち着いた方がいい。少しだけ僕の昔話に付き合ってくれるかい」
私が「でも」と食い下がろうとすると、ユーゴは私に「これは本吉君と本吉君の父親の清も関わってくることだ」と真剣な表情で言った。
私はユーゴが大切な話をしようとしているのが分かった。ユーゴは私が黙って話を聞こうとすると小さい頃のように私の頭を撫でた。
「もう二十年以上前になるんだけど、僕がまだ駆け出しのピアニストの頃、パリに日本からあるピアニストの留学生が来たんだ。それが清、本吉の父親だ」
ユーゴは懐かしそうに目を細めた。
「清は僕と同じ先生に師事したんだ。僕はどちらかと言うとその頃ピアノが嫌いだった、対して清はピアノが大好きでね、同じ先生に師事してる関係もありよく比べられたよ。僕は清が羨ましかった、だっていつもピアノの音が楽しそうだから、でもある時、清は僕の演奏が羨ましいと言ったんだ。その時僕は清と互いに認め合っているのに気づいて、そこから仲良くなったんだ」
ユーゴはピアノの椅子に座り、ピアノの楽譜を置くところを撫でた。
「でも、時代は非情でね、日独伊三国同盟が結ばれると、清はフランスに居られなくなった。清は日本に帰ってそれきり連絡が取れなくなったんだ」
私は何て言ったらいいか分からなくて黙った。
「僕も本吉君のピアノコンチェルトを諦めることができない。マドレーヌ、君はどうしたい?」
「わかんない、わかんないけど、私まだ本吉のピアノを聴いていたい」
「マドレーヌ、君には後悔してほしくない。僕も本吉君を連れ戻すために精一杯協力するよ」
ユーゴはそう言うと、伊藤さんにお願いして車を出してもらった。
「本吉のいる場所は分かるの?」
「山際会長なら知ってるはずだ。彼も清とは旧知の仲だ」
車の後部座席で私は車窓に映る自分の顔を確認した。目は赤い、でもそれ以外はいつも通りだった。色素の薄いブルーの瞳からは強い意志を感じられた。外は暗く、土埃が車の周りを包んでいた。
帝都音楽院に行くと山際会長は私たちの顔を見て、何か察したようだった。
「山際さん、清の家の場所は分かりますか?」
ユーゴは英語で山際会長に会うなり開口一番尋ねた。
「ユーゴさん、何をするつもりですか?」
「本吉君が連れていかれました、彼にはピアノコンチェルトを弾いてもらわなければならない、連れ戻します」
その言葉に山際会長は険しい顔をした。
「清は音楽を恨んでる、清をこれ以上苦しませたくない」
「山際さん、だったらなんであなたは僕をパリから呼びつけて、清に帝都音楽院に出資させたりしたんだ」
山際会長は二の句が継げなくなった。黙り込み下を向いた。そんな会長にユーゴは続ける。
「僕は後悔している、清がパリに居られなくなった時、君の居たドイツに清を送るべきだったと思ってる。僕たちはまた間違いを犯そうとしているんだ。今度は本吉君と言う若い才能を潰そうとしている、戦争と言う言い訳もなく、僕たちのエゴで。戦争で絶望させられた僕たちが彼の未来を摘もうとしているんだ。山際さんあなたなら分かるはずだ」
山際さんはこめかみを抑えた。肩は小刻みに揺れていて、震えた息で長くため息を吐いた。
「ユーゴさん、僕も一緒に行こう。案内する」
真っ暗な道を車は進む。街灯のない道に車が二台連なって走っていた。私は前の車を見ながら、車に揺られた。本吉に何を話そう。何を話せば彼がピアノに戻ってくるのか、分からなかった。けれど街に再び街灯が増え始めたなと思う頃、本吉の実家らしき建物の前に車が止まった。
 本吉の実家は私たちの住んでいる屋敷よりも倍はあるだろう大きさの洋風の建物だった。ユーゴと山際会長とともに客間に通される。待っている間、私はお手洗いに行きたくなり山際会長に訳してもらい女中さんにお手洗いを案内してもらった。
 手洗いから出ると廊下には誰もいなくて、私はあたりを見回した。左右どちらも似たような作りで客間の方向が分からなくなったのだ。廊下は静かで少し薄暗く、不気味な雰囲気だった。
不意に本吉の鼻歌が聞こえた気がした。私は鼻歌のする方へ歩いてみることにした。次第に歌は近づき、それがきらきら星のメロディーだと分かるころ廊下を過ぎて中庭のようになっているところの二階に本吉を見つけた。
私は階段を見つけることができず、一階の方から本吉の鼻歌に合わせてきらきら星を歌った。本吉の鼻歌が止まる、そして私を見つけ驚いたようだった。
「迎えに来たわ」
私は本吉に会えて嬉しくて自分でも口角が上がるのが分かった。
「どうして」
本吉は苦しそうな顔をした。
「まだ私はあなたに約束を守ってもらってないわ」
「でも、俺は才能がなくて」
「あなたがどう思おうとそんなの知らないわ、私は私の聴いたものを信じる」
本吉は困ったように眉を寄せた。
「あなたのピアノが羨ましいわ、私にはあんな音出せないもの」
これは私の本心だった。本吉のピアノが羨ましかった、だって私にはあんな自由な音出せないから。ピアノは純粋だが、弾いている私達は人間だ。ピアニストの感性によってピアノの音は変わる。本吉の感性は出会った頃からずっと私にはない輝きを持っていた。
「そんな事言うなよ、言わないでほしい。君がそんな事言うから、俺はピアノを諦められない」
「諦めなくていいのよ、あなたの音楽はあなたのものよ」
本吉は静かになった。私は本吉を見た。本吉は今にも泣きそうだった。
「俺だって、本当は、ピアノを諦めたくなんか、ない」
「諦めないでよ、私が日本に来て正解だって思わせてくれるんでしょ、私がおばあちゃんになっても思い出す演奏をするんでしょ、約束したじゃない」
本吉は私を見た。そして、いつもの優しそうな顔をした。
「ミシェルはつよいな」
「そんなことないわ」
本当にそんなことないのだ。本吉は涙目の私が目を擦ると、二階から一階に柱を伝い飛び降りた。そしてまじまじと私の目を見て「本当だ、真っ赤だ」と笑った。
私は本吉が元気になったのが嬉しくて「誰のせいだと思ってんのよ」と彼を睨んだ。
「俺がピアノを始めた理由は、小さい頃父さんの弾いたピアノに感動したからなんだ。でも、父さんは戦争から帰ってくるとケガしててさ、ピアノが弾けなくなっていた」
一階の中庭の隅で本吉は座って私は中庭の柵に寄り掛かった。
「悲しい話ね」
「もしかしたら、父さんはピアノを憎んでるのかもしれない、ピアノを弾いている俺のことが嫌いかも、でもピアノを俺は諦められない」
「それはどうして?」
「どうしても、幼いころ聴いた父さんのピアノの音色が忘れられないんだ」
本吉は鼻歌で歌う、私はそれに「ラヴェルのマ・メール・ロワね、連弾の曲よ」と答えた。いつか聞いた母の鼻歌が私の脳裏に浮かび上がる。そして、母から譲り受けた手書きの楽譜を思い出した。
「ねぇ本吉、この曲弾ける?」
「弾けるけど」
「ピアノはこの家にある?」
「物置にあるよ、おい、まさかこの家で今弾く感じか?」
「えぇ、本吉の父親を説得するならピアノしかないわ」
何故だか分からないが私は一つの可能性が浮かんでしまったのだ。私は本吉の手を引いて立ち上がらせると、「ピアノまで案内して」と言った。本吉はそれに困った顔をして戸惑いながら私を案内した。
 物置と言うには大きい小屋のその部屋にはグランドピアノがひっそりと置いてあった。他の物にはびっしりと埃が積もっているが、そのピアノだけは埃一つも付いていなかった。
ピアノを開ける。少し音階を弾いてみると調律は全く狂っていない。私は自分の中の可能性が確信に変わった。
 私がピアノの前に座ると本吉は覚悟を決めたように私の隣に座る。物置の扉はあえて開けっ放しにした。二人で呼吸を合わせると、声もかけていないのに自然と始まる瞬間が分かった。
 最初のピアノの音が鳴る、先ほど試し弾きの時にも思ったが、このピアノは現在も大切にされているピアノだ。調律は狂ってないし、何より埃一つ被っていない。
 マ・メール・ロワはイギリスのマザーグースを題材にして作られた曲だ。その中でも私は第五曲目の妖精の園が一番好きだった。眠りの森の美女に出てくるシーンの一つ、王子様の口付けで王女が目を覚ますシーンを表したこの楽曲は伴奏も他の四曲に比べより一層ロマンチックで弾いていて楽しい。
 ラヴェルの曲は何曲も弾けるが連弾は初めてだった。ただ、この曲の楽譜は嫌と言うほど覚えている。母が私にと遺していった楽譜の中にこの一曲が入っていたからだ。母の楽譜はほとんど完璧な形で残っているのにマ・メール・ロワにはなぜか主旋律の楽譜は入っていなかった。最初はどこかに紛失したのかと思った、けれど、この国にあった。私は隣の本吉を見た。
 後ろで人が来た気配がする。私は振り返る勇気は流石になくて、演奏に集中する。不意に幼い頃の母を思い出した気がした。私は母の記憶なんてほとんどない、けれどその音は母の温かい音に似ていると思った。
 母の記憶なんてあっても辛いだけだとどこかで思っていた。でも、私のピアノの中に全部、あった。私の経験として母の深みのある愛のある音は私の中にあったのだ。
 私は泣きそうになりながら、ぐっと我慢する。この感情もすべて乗せよう。泣いている暇はない。本吉誠と言う私の憧れのピアノ弾きの今後を左右する演奏だ。気合を入れろ、オクターブがぎりぎり届く小さい手に、もっと弾ける、と念じながら音を出す。滑らかに、音の継ぎ目が分からないくらい聴いている人の心に届くように。
私の音に深みがないと誰かが言った気がする。
私の手はオクターブが届くのがやっとだ、深みは出ない。けれどその分私の音には心に共鳴させる響きがある。
また別の誰かが、私の演奏には愛もないと囁いた。
私の演奏は独りよがりのつまらないものだったかもしれない。けれど、この国に来て私は愛を思い出した。
師匠は良くても、弟子はお粗末だと誰かが笑う。
 そんなの知らない。音楽は誰のものでもない。なら、私は、私の信じるものを信じたい。
 今までで一番いい音を、いい演奏をしている自覚はあった。そして、私は母国で諦めた夢を遠い東洋の国で思い出してしまった。あぁ、自分自身でもう誤魔化し切れない。幼いころからの私の夢は色あせたはずなのに再び私の目の前に輝きとともに舞い戻ってきてしまった。ここに、全部あったんだ。
最後の和音を弾き終え、私は後ろをゆっくりと振り返った。ユーゴと山際会長が拍手を私たちに送っていた。そして、本吉の父親は険しい顔をして私たちの真後ろに立っていた。本吉は父親から目をそらした。私は彼の父親を見据えた。
「清さん、マ・メール・ロワの主旋律の楽譜を持ってはいませんか?」
本吉の父親は一つため息を吐くと、「マリーによく似ているな、持っていた」と懐かしそうに目を細めた。
「君の母親、マリーはお節介な女でな、私がフランスを発つ時に楽譜を押し付けてきてこの楽譜を返しに来いって言ったんだ」
ユーゴが後ろで吹き出して笑うのが見えた。
「まさか、娘が返しにもらいに来るとは思わなかった」
私はそれを聞いて、私の知らない母が見えたようで嬉しかった。そして、フランス語で話の分かっていない本吉の腕を引き、「返していただきました、しっかりと」と私は言った。
それに清さんは大きな長い溜息を再び吐き、頭を右手で搔いた。
「ユーゴ、このどうしょうもないおてんば娘を持って帰ってくれ、ついでにこんな不出来な息子もいらん」
清さんはユーゴの方に振り返ると、心底面倒くさそうに言った。ユーゴはそれを聞くとまた笑いだしそうになり「分かったよ、で、演奏会のチケットは何枚欲しい?」と意地悪そうに聞いた。それに清さんは大きな声で「いらん」と言って私達を杖で軽く小突いて追い出した。
 私は嬉しくて、笑いながら車に飛び乗った。本吉は状況が飲め込めないようだったが、車に乗り込んでも清さんが何も言わないことに気付き、驚いたように車窓の窓をレバーでくるくると開け首を出した。本吉は日本語で父親に何かを叫ぶと、清さんは何も言わず手を振るように一回上げた。車が発進する。だんだん本吉の実家が遠のいていく。その間も本吉は車窓から身を乗り出し、何かを日本語で叫んでいた。その声が涙に濡れていて、今にも泣きそうなのを私たちは気付かないふりをした。
 車は暗闇の中を進む。けれどさっきほど不安ではなかった。むしろ、夜明けに向かって走っているような気さえして、私は鼻歌を歌った。

 

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