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3.11の頃の自分を思い返して(備忘録)

実感の湧かなかった3.11

 当時中1だった私にとって、3.11は初めて経験した大震災であった。親の実家が大阪にあったために1995年の阪神・淡路大震災について被害の様子などは聞いていたもののは生まれる前の出来事であるためどうしても実感の得られるものではなかった。

 2011年3月11日、私の中学ではちょうど期末試験の最終日であった。科目は当時は得意であった英語であり、会心の出来にニコニコしながら家に帰ったのを覚えている。珍しく午前で終わったものだから昼食を家で食べ、ネットサーフィンをしていた時、そんな緩やかな雰囲気が流れていた時にその地震は起こった。

 私は関東南部に住んでいたため、初動はそれほどでもなかった。驚きはするものの、恐怖を感じるほどではなかった。それ以上に、偶然テレビに映っていた国会中継で、国会議員の人たちが慌てふためいているのを見て面白がっていた覚えさえある。次第に揺れは大きくなっていき、徐々に私もやばいんじゃないかと思い始めた。終いには流石にこれは危ないと感じて食器棚を抑えに走っていった。

 震度は5弱程度であったが、当時まだ怖いもの知らずだった私にとって揺れ自体は焦りはすれど恐怖するほどのものではなかった。何と言っても、中学生なんて「震度7体験車」でゲラゲラ笑いながら防災を体験するような歳である。不謹慎だが、地震の揺れに合わせてバランスをとって遊ぶなどしていたのを覚えている。地震が引き起こす被害について、まだあまり実感が湧いていなかったのである。

 一方でテレビでは津波の注意を呼びかける放送が何度も流れていた。関東南部に住んでいる私にとってはあまり関係のないものであり、津波の怖さについてもあまり考えてきていなかった私にとってその大きさがどの程度のものであるのかはわかっていなかったが、90cmなどの数字を見て「流石にこれは飲み込まれたら無理だな」と思った覚えがある。今となっては30cmでも厳しいので何をいっているのかという感じではあるが。ただ、どうしても映画のような出来事に見えてしまい、実感は湧いてこなかったのである。

 このように地震が起きても災害となかなか結びついていなかった私であるが、その後中学からの連絡で、100人近くの生徒が学校に取り残されて夜を明かすことになったと知った。また、友人が何人も電車の中に取り残され、歩いて帰ることになったという話も聞いた。身近な人々の被災を知って初めて、どれだけ大きなことが起きてしまったのかを知った。

 それから数日はまさに非日常といった感じであった。報道では日に日に死者・行方不明者は増え、お店に行っても水やカップラーメンはずっと完売している。新聞のテレビ欄は全く編成されておらず、テレビのCMはACばかり流れていた。この状況を受けて、ようやく日本は被災したのかと実感した。

防災教育

 地震国家である日本にとって、このような災害は起きるものである。つい最近でも熊本地震は発生しているし、将来には南海トラフ地震や首都圏直下地震が心配されている。そのような状況で、どのように防災教育をしていくのかということは非常に大事な課題である。しかし、当時の私を思い返してみてもどうしてもこれらの「大震災」が実感が得られないのである。死者数や行方不明者を聞いても驚きはすれど、胸には響いてこない。

 結局のところ、身近な人・モノが被災して初めて私たちはことの大きさに気づくのである。それを認めた上で、どのように防災教育をしていくのかを引き続き考えていかなければならない。


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