数多の文学的危機を乗り越える――大江健三郎『大江健三郎 作家自身を語る』
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数多の文学的危機を乗り越える
――大江健三郎『大江健三郎 作家自身を語る』
■大江健三郎、聞き手・尾崎真理子『大江健三郎 作家自身を語る』2007年5月30日・新潮社。
■長篇インタヴュー(現代日本文学)。
■317頁。
■1,800円(税別)。
■2023年3月19日読了。
■採点 ★★★★☆。
【凡例】引用文中の傍線は引用者による。
【目次】
4 『同時代ゲーム』と『懐かしい年への手紙』という二つの到達点... 10
1 素晴らしいインタヴュー
いささか驚いた。聞き手の尾崎真理子*[1]の丁寧なインタヴュー・ワークもさることながら、恐ろしく芳醇な内容を含むものであった。一言で言えば、とても知的刺激に満ち、なおかつ面白かった。
というのは、わたし個人の大江歴で言えば、恐らく1982年の『「雨(レイン)の(・)木(ツリー)」を聴く女たち』*[2]からリアルタイムで読み始め、遡って手に入る限りの全作品を読み、そして2002年の『憂い顔の童子』*[3]で「離脱」することになった。その「離脱」の理由を一言で言えば、面白くない、詰まらない、と、その時は感じたということになろうか。その極点は、新宗教運動に材を取った『燃え上がる緑の木』*[4]と『宙返り』*[5]の二作品である。何がどう駄目なのかは、別稿でふれることになるやも知れぬが、簡単に言えば、宗教思想、宗教運動を扱うにしてはいささか無防備に過ぎる接近の仕方ではなかったかと思った、ということか。これについて深めるとすれば、他の、同様に新宗教運動に材を取った、村上春樹の『アンダーグラウンド』1・2*[6]、並びに『1Q84』*[7]、あるいは中村文則の『教団X』*[8]などについて言及する必要があろう。もっと言えば、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』*[9]も、その参照点になるかも知れない。
それはともかく、本書を手にすることで、大江がこの50年でなしてきた文業が並大抵の努力ではなかったことが幾ばくかでも理解出来たような気がする。
2 批評的な意図
別稿*[10]でも触れたが、大江は、恐らく、初期の数年間で元々持っていた才能のようなものを使い果たしてしまった、とわたしは考えていた。しかしながら、このインタヴューを読むと、相当初期の段階から周到な意図、批評的な意図を以て数々の作品が書かれていたことが分かる。大江は以下のように述べている。
その頃、安部公房が好きでした。安部さんやフランツ・カフカを読んでいた。そういう寓話として小説を作る人がいて、面白い。しかし私は、寓話を作ることはやめよう、 できるだけ現実生活に引きつけて書いていこう、と思った。そうやって、日本で同時代の安部公房とは違う、自分のオリジナリティーを作ろう、と思った。しかもですね、リアルな現実生活と密着して独特な小説を作る人たちには、 「第三の新人」という作家グループがいた。かれらは人生を、あるいは社会をよく知っている人たちです。私は地方からのポッと出の若者で何も知らない。そこで僕の小説は、 リアルな現実をとらえることをめざすんだけど、観念的な、ある言葉から始める、という書き方をやろうと考えた。」( [大江 尾崎, 2007年5月30日]p.58)
極めて戦略的、批評的な戦略と言えまいか。文脈は逸れるかも知れぬが、柄谷行人が、大江の死に際して発表した談話に、大江のまねをして批評を書いたと述べている。
大江さんは、私が高校生のときに登場して、当時から読んでいました。私が初めて批評を書いて東大の五月祭賞に応募したのは、大江さんのまね(大江健三郎さんのデビュー作「奇妙な仕事」)なんです。そして、群像新人文学賞の評論部門をもらったときの審査員の一人が大江さんでした。だからある意味で、私と現代文学の関わりの最初には大江さんがいるわけですが、実際に話すようになったのは1990年に米国の会議で会ってからです。( [柄谷, 2023年])
大江の真似と言っても「奇妙な仕事」は短篇小説なのだから、単純なまね、ということではなくて、そこに或る種の「批評性」を感じ取った、ということではないかと思う。
大江自身は、その批評的視点を自らの作品にも向けるが故に、相当自身の作品に対しては謙虚だ、いや謙虚過ぎると言っても言い得過ぎではない。ところが、その大江ですら、やはり初期の作品にはそれ相応の自信のようなものがあったようだ。こう述べている。
とくに「人間の羊」は、自分と等身大の青年像を描き、想像的に膨らませもすることで、ある程度成功した作品だと思います。物語を作るということには、書いている自分を超えて……私自身は幼い、すぐ挫けて壊れそうな青二才ですが(笑)、その表現と表現者としての私をしっかりしたものにさせてくれる、ということがあるんですよ。小説を書かなかったら、私は心理的に危なかったと思います、あの二十五、六歳当時。結局、小説を書くことで生き延びられた。( [大江 尾崎, 2007年5月30日]p.60)
要は作品が作者を越えていく、ということなのだが、誰しもにそれが現われる訳ではない。やはり大江の文学的力量こそがそれを可能にしたと言ってもよい。
3 行き詰まりの危機を乗り越える
しかしながら、そんな大江ですらここからは何度も行き詰まりの危機を迎える。つまりは書くことがなくなう、あるいは何をどう書いていいのか分からなくなる、というようなことだろうか。
大江は或るところで、書きあぐねて、師匠の渡辺一夫に相談し、「反ユートピア小説」を書いてみたら、とヒントを与えられた話をエッセイとして書いている*[11]。ところが、その後、長男が障害を持って誕生したことで「それどころではなくなった」*[12]と述べている。まさにこのことが、彼にとっての更なる危機だった訳だが、大江はこの経験に際して、二つの作品を書くことで何らかの乗り越えを果たそうとしていた。短篇小説「空の怪物アグイー」*[13]と長篇小説『個人的な体験』*[14]である。障害児を殺害する前者と障害児との共生への決意で終わる後者では、取り分け後者についての賛否が分かれた。大江自身は「あの部分は自然にそうなった、という感じを持っていました。」*[15]と述べているが、多くの諸家が述べて*[16]いるように、ここには、大江の倫理的な「弱さ」、「安易さ」が現れていると見るべきであろう。まさにこれこそ大江が乗り越えるべき文学的な危機ではなかったのか?*[17]
しかしながら、やはりこれも才能の一つと言えるかも知れないが、大江の批評的な能力と類稀な精神力で乗り越えて来た、これこそが大江健三郎という小説家の評価すべき点である。
本インタヴュー中でも、何度も、この「行き詰まり」、あるいはそれの「乗り越え」については言及されている。例えば、大江は次のように述べる。引用文中の「先生」は大江が東京大学で師事した渡辺一夫のことである。
私は小説を書き始めた頃、やがて自分の小説を、フランスのガリマール書店で出版して、それも一番いい翻訳だと思うものを先生に贈ろうと思っていた。そう思いながら自分で小説についていろいろと実験して、そのとき持っているカよりもひとつ上のところへ自分の小説を押し上げようとしてきた。ずっとそうやってきて、それはそれでいいけれど、そういう強迫観念から自由な、安定している、よくできた小説を書いたことはついになかったんじゃないかっていう気持ちを片方でもっています。これが一番いい作品ですと、先生に向かって差し出すことができるものが、今もない気がする……( [大江 尾崎, 2007年5月30日]p.44・傍線引用者)
4 『同時代ゲーム』と『懐かしい年への手紙』という二つの到達点
その意味では、私見ではあるが、その乗り越えの二つの到達点が『同時代ゲーム』*[18]と『懐かしい年への手紙』*[19]ではないかと思う。
本インタヴューにおいても、後者はさほどでもないが、前者については、多くのページが割かれている。
大きい風景、大きい出来事の流れを書きたいと思ったんですね。それも、自分が生きてきた同時代というとまだ四十年だけれども、その自分が生まれる前の六十年過去に遡って、百年間の日本の近代化ということが、どのように日本人に経験されたか――それをある限られた一つの舞台で行われる芝居のように、あるいは大がかりなゲームのように書きたい。それが「同時代ゲーム」というタイトルを作った理由です。/作家は四十歳くらいになると、ひとつ、構えの大きい小説を書こうとして、だいたい歴史小説を書く。歴史を舞台にした小説を書くということを、ほとんどの作家がしているように思います。私の場合も、はじめ歴史小説の語り口で、自分の森の中の物語を書こうとしたんです。ところがうまくいかない。 一年、二年と経っていく。そのうち、結局自分は個人の声で、個の内面を通じて自分の歴史を書くということをしたい、自分の場所、自分の村、自分の土地の歴史を書くことをしたいのだ、とわかってきた。そうであれば、はっきり正面から、個人の声で手紙を書くという形にするのがいいと考え始めたわけです。/学生の頃からその当時まで、想像力論をさまざまな学者の本で読んでいた。その中に「イマジネーションを自分の中に深めていって、そして自分個人の声で語るように想像力の世界を語れば、その作品は親密な手紙のように読み手の心に届くことかある」というガストン・バシュラールの文章があって、私はその考えに引きつけられたんですね。それで、こちらは最初から個人の手紙として読み取られるつもりで書きたいと思った。長年親しい女性の友達に対する手紙というかたちがいいだろう、と。
( [大江 尾崎, 『大江健三郎 作家自身を語る』, 2007年5月30日]p.p.119-120)
『同時代ゲーム』が何故、面白く、いかなる点において文学的な達成を示しているかについては別稿「文学の運動――大江健三郎『同時代ゲーム』を読む」で触れる予定だが、一言で言えば、先にも述べたように批評性、先行する作品の何某(なにがし)かに対する批評性こそが、その根幹にある。それは或る意味では理論先行型の頭でっかちになり得る危険性を持ちながら*[20]、なおかつ文学作品の具体的な肉体の動きを示し得た稀有な作品なのである。その辺りの事情について、大江は次のように述べている。
私の一生のうちで文学理論と具体的な文学と、 それから作家、詩人たちと、 それらが一緒になっているなかへ入ってゆく、 そして沸騰的なような出会いを経験できた最良の時期でした。そしてその時期の産物として、私の作品としては『同時代ゲーム』があるわけです。 この時期、もっと焦点を絞ってコンバクトな作品をひとつずつ完成していけば、私はもっとしつかりした作家になり得ていたかもしれませんが。しかし私の好きな作家たちは皆、グラスにしろ、リョサにしろ、 ああした大盤振る舞いのような大作の仕事に入っていたんですよ。私も落ち着いてはいられませんでした。血気にはやるというか(笑)。
( [大江 尾崎, 『大江健三郎 作家自身を語る』, 2007年5月30日]p.128)
まさに奇跡のような作品が『同時代ゲーム』であり、更にまた『懐かしい年への手紙』もそうだったのである。それについては何度強調してもし過ぎるということはない。
ところが、大江自身はそうでもなかったようだ。『同時代ゲーム』に至っては改作、というか、アナザー・ヴァージョンというべきなのか『M/Tと森のフシギの物語』という作品もあるぐらいだが、わたしにはいささかならず理解できない。
結局のところ、というか、あくまでも2007年当時、ということだが大人向けでは『さようなら、私の本よ!』が、子ども向けでは『二百年の子供』が「一番仕上がりがいいと考えています。」*[21] と述べているが、要は最新作こそ最上の作品だ、と大江は考えているということになろう。『二百年の子供』について言及されているのは、その担当者が、インタヴュワーの尾崎真理子だったから、ということもあったのかも知れない。
5 余談――遺著としての「私家版の詩集」
全くの余談にはなるが、大江は一旦「詩をあきらめた人間である」と言いながら、このインタヴューの行われた2007年当時、詩を書いていたようなのである。「それが続けば『形見の歌』という一冊の私家版の詩集を作りたいと考えています。」*[22]と述べているが、恐らく大江のことだから、後腐れもなく焼き捨ててしまったのかも知れない。
それはともかく、晩年(のつもりは本人にはなかったかも知れぬが)、やはり詩作を再開した批評家がいた。大江ファンで知られる加藤典洋である。今般、私家版としてしか頒布されていなかった文字通りの遺著となった詩集『僕の一〇〇〇と一つの夜』が文庫化された*[23]。当然加藤はこのインタヴューも目にしているはずだから、何かの影響でもあったのであろうか。
6 おわりに
さて、本書は、あるいは大江の作品の未読者には、伝わりにくい面もあるかも知れぬが、可能な限り、大江作品の引用を多用し、理解に努めようとしているのも尾崎の編集力の賜物であろう。素晴らしいインタヴュー集だと言える。
【主要参考文献】
ドストエフスキー ミハイロヴィチ フョードル. (1979-1980). 『カラマーゾフの兄弟』. (原卓也, 訳)
加藤典洋. (2019年/20023年). 『大きな字で書くこと 僕の一〇〇〇と一つの夜』. 岩波現代文庫.
今村夏子. (2017年). 『星の子』. 筑摩書房.
山城むつみ. (1992年/1995年/2009年). 「小林批評のクリティカル・ポイント」. 著: 山城むつみ, 『文学のプログラム』. 『群像』1992年12月/太田出版/講談社文芸文庫.
村上春樹. (1997年). 『アンダーグラウンド』. 講談社.
村上春樹. (1998年). 『約束された場所で――underground 2』. 文藝春秋.
村上春樹. (2009年ー10年). 『1Q84』全3巻. 新潮社.
大江健三郎. (1964年). 『個人的な体験』. 新潮社.
大江健三郎. (1964年/1972年). 「空の怪物アグイー」. 著: 大江健三郎, 『空の怪物アグイー』. 『新潮』1964年1月号/新潮文庫.
大江健三郎. (1979年). 『同時代ゲーム』. 新潮社.
大江健三郎. (1982年). 『「雨の木」を聴く女たち』(「雨の木」に「レイン・ツリー」とルビ). 新潮社.
大江健三郎. (1987年). 『懐かしい年への手紙』. 講談社.
大江健三郎. (1993年). 『新年の挨拶』. 岩波書店.
大江健三郎. (1993年~95年). 『燃え上がる緑の木』三部作. 新潮社.
大江健三郎. (1999年). 『宙返り』上・下. 講談社.
大江健三郎. (2002年). 『憂い顔の童子』. 講談社.
大江健三郎, 尾崎真理子. (2007年5月30日). 『大江健三郎 作家自身を語る』. 新潮社.
中村文則. (2014年). 『教団X』. 集英社.
鳥の事務所. (2023年3月15日). 「大江健三郎さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます」. 参照先: 『鳥――批評と創造の試み』: https://torinojimusho.blogspot.com/2023/03/blog-post_15.html
柄谷行人. (2023年年3月月13日日). 「初めての批評は「大江健三郎さんのまね」 ――哲学者・柄谷行人さん談話」. 参照先: 『朝日新聞デジタル』: https://www.asahi.com/articles/ASR3F63JXR3FUCVL04Y.html
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7,241字(19枚) 20230402 2110
*[1] この当時、讀賣新聞文芸記者。後に評論家に転ずる。大江に関する著書に『大江健三郎全小説全解説』2020年・講談社と『大江健三郎の「義」』2022年・講談社がある。
*[2] [大江, 『「雨の木」を聴く女たち』(「雨の木」に「レイン・ツリー」とルビ), 1982年]。
*[3] [大江, 『憂い顔の童子』, 2002年]。
*[4] [大江, 『燃え上がる緑の木』三部作, 1993年~95年]。
*[5] [大江, 『宙返り』上・下, 1999年]。
*[6] [村上, 『アンダーグラウンド』, 1997年]・ [村上, 『約束された場所で――underground 2』, 1998年]。
*[7] [村上, 『1Q84』全3巻, 2009年ー10年]。
*[8] [中村, 2014年]。
*[9] [ドストエフスキー, 1979-1980]。
*[10] [鳥の事務所, 2023]。
*[11] [大江, 『新年の挨拶』, 1993年]/「緑の壁」p.84。
*[12] [大江, 『新年の挨拶』, 1993年]/「緑の壁」p.85。
*[13] [大江, 「空の怪物アグイー」, 1964年/1972年]。
*[14] [大江, 『個人的な体験』, 1964年]。
*[15] [大江 尾崎, 『大江健三郎 作家自身を語る』, 2007年5月30日] p.90。
*[16] 例えば、三島由紀夫や江藤淳などの批判([大江 尾崎, 『大江健三郎 作家自身を語る』, 2007年5月30日]p.p.90-91)。
[17] この問題、すなわち、大江の倫理的な「弱さ」、「安易さ」の問題こそ、大江文学の重大な、文字通り「クリティカル・ポイント」だと思われる。言うまでもなく「クリティカル・ポイント」というのは、当然普通名詞であろうが、ここでは山城むつみのデビュー作「小林批評のクリティカル・ポイント」( [山城, 1992年/1995年/2009年])を含意している。無論「クリティカル」には「批評的な」という意味と「危機的な」と意味が存在する。山城にならって、わたしは「大江文学のクリティカル・ポイント」こそ書かねばならない。
*[18] [大江, 『同時代ゲーム』, 1979年]。」
*[19] [大江, 『懐かしい年への手紙』, 1987年]。
*[20] 実際、大江自身はそう考えて、その反省に上に別の長篇小説『M/Tと森のフシギの物語』を書き上げた程だ。このインタヴューで大江は次のように述べている。「たしかに私にも、国の内外の文学賞をもらうというようなことは続いていました。しかし読者からは支持を失い始めている……むしろ、すでに読者を失ってしまった、という思いが強かった。そして、それがもたらされたのは、 日本の純文学が、文学市場が一般的に衰退したというようなこととは別に、私自身がたとえば自分の文章の作り方について、生産的な反省をしなかった、ということだと自省しています。 いまも自分の文学生活についての大きい悔いはそこに集中します。やはり『同時代ゲーム』が、 そのコースの分岐点だったように思います。それをもっと別のかたちに書けば、私の読者との関係の、ありえたかもしれない回復のチャンスだったと思うこともあります。しかし、あのかたちでの『同時代ゲーム』があって、 それ以後の私の文学があった。読者は失ったが、私は狭い場所の作家としては生き延びました。/書下ろしを書くと、とにかく一九七九年までは、すべて十万部以上、ハードカヴァーで出版社が売ってくれる、 そうした勢いの中で 『同時代ゲーム』を出版しましたから、 さきにいったように、 やはり十万部は越えたんです。しかし、発売されてしばらくたつうちに私が感じていたのは、 「いままでどおり買ってもらえるけれど、読み通してくれる人は少ないのじゃないか」という危惧でした。講演会での質問や、周りの人たちの反応から、どうもうまく理解されていない、読者に通じていないというつことかよくわかった。/しかもその原因は、私が新しい文学理論や文化理論に夢中になっていて、自分が本を読んで面白いと思ったことを自分の本に書くという、閉じた回路に入っていたからです。自分と海外のある作家たち、理論家たちとの間に、思い込みじみた通路を開いて、誰より書いている自分が愉しんでいる小説になってしまった。その反省はあったんですね。読者は少なくなったし、自分の主題自体、その狭まった読者にすら伝わってない。その気持ちから、『M/Tと森のフシギの物語』という、少年たちにも読めるものに書き換えてみるということをしました。」( [大江 尾崎, 『大江健三郎 作家自身を語る』, 2007年5月30日]p.p.136-137)。
*[21] [大江 尾崎, 『大江健三郎 作家自身を語る』, 2007年5月30日]p.250。
*[22] [大江 尾崎, 『大江健三郎 作家自身を語る』, 2007年5月30日]p.232。
*[23] [加藤, 2019年/20023年]
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