手を動かせば、未来は変わる。受け継ぐ意志を守るもの/大西巧さん(近江手造り和ろうそく 大與)
何のために、何がしたくて、ものづくりをしているのだろう。
ときどき、そう思うことがある。
自分が手を動かすことで、明日を少しでも明るくできるのだろうか。自分がつくったものは、一瞬で消費されるだけではないか。
誰かに何かを届けることなんて、自分にできるのか。
目の前のタスクに追われる毎日のなかで、手を動かす意味を見失いかけるときが、しばしばあった。
「何のために手を動かすのか」
「未来に向けて、誰のために、何の役割を担いたいのか」
大きな流れに飲み込まれそうになる日々のなかで、真正面から何度も、そう問いかけてくれる人と出会った。
「近江手造り和ろうそく 大與(だいよ)」の4代目・大西巧さんだ。
大西さんと出会ったばかりのころ、私は「家を継いだ人、伝統工芸の文脈にいる人だからこそ、未来に何を受け継ぐのかを考えるのだろう」と思っていた。そしてその役割は、継ぐ家を持たない自分には無関係だ、とも。
でも大西さんは、言葉を書く仕事をしている私に、「文章だって、未来を変えるかもしれへんやん」と語り続けてくれた。
「一人ができることなんてちっぽけなもんやけど、僕は上の世代にやってもらったことを若い人に渡す。だから上へのお返しとか考えんでいい、次の世代につなげ」とも。
自分にも、何かを未来に受け継ぐ役割がある。
和ろうそくをつくっていようと、文章を書いていようと、誰もが同じように、何かを未来に受け継ぐ役割がある。
そう信じられるようになったのは、大西さんのおかげだ。
この出会いが、私のものづくりへの意志を明らかに変えていった。
大西さん自身は、どんな道のりを経て、自分のものづくりを信じられるようになったのだろうか。
信じる気持ちが折れることは、なかったのだろうか。
大西さん自身がどう歩んできたのか、聞いてみたいと思った。
(聞き手/菊池百合子)
「この仕事で食べていける」と確信して、継ぐことを決めた
ー 大西さんは、幼少期は家業にどんな感情を持っていたんでしょうか?
大西:ポジティブなイメージはなかったですね。
仏事に使うものだから「死」に近いイメージだし、ろうを手で扱うのでドロドロになるし。「きれいな仕事ではないな」と思って、興味がないというか、見ないようにしていました。
就職活動をするまでは、家業を継ごうと考えたこともなかったです。
ー では、どんなきっかけで家業に興味を持ったんですか。
大西:就活のとき、世の中にどんな仕事があるのか知らへんなと思ったので、いろいろな職業の人に「仕事とは?」と聞いたんです。そのときに親父にも聞いたら、親父の話がいちばんおもしろかった。
初めて聞く話ばかりでした。ろうそくそのものに興味を持ったというよりも、どんなことを考えながらここまで仕事を続けてきたのか、その生き方に心が動きましたね。
ー お父様の生き方の、どういった部分に心を動かされたのでしょう?
大西:正直さを貫くことです。自分に正直であることもそうですし、お客さんに対して取りつくろうことを言わない。
「植物素材100%です」と言いながら本当は混ぜものを入れていたら、後ろめたさがあるじゃないですか。
「自分の仕事において後ろめたさをなくしなさい」「人に恥じない仕事をしなさい」と言われて、その生き方に心を動かされました。
親父は、大與のどん底の時代を見てるんですよ。おじいさんが2代目をやっていて親父が子どもだったころは、本当に貧乏やったみたいで。「兄弟3人で、コロッケの上の皮と中身と下の皮を、じゃんけんして分けていた」と言っていました。
年商800万円で、そこから給料を引いて材料費が飛ぶから、家族が食べていくのがひーひーだったと。
しかも親父が継いだ後、1980〜90年代は「いかに安く大量につくるか」が重視される時代に入ります。
そのなかで大與は「高くても良い材料で良いものをつくるか」、あるいは「安くて悪いものをつくる道に切り替えるか」を決断しなきゃいけないときがあったんです。
それで親父は、周りに反対されても「これであかんかったら、ろうそく屋をやめる」と決めて、100%混ぜものなしの、櫨(はぜ)ろうそくをつくり始めました。
大西:そこから大與の和ろうそくを使ってくれるお寺さんや取り扱ってくれるお店の数が一気に増えて、売り上げも伸びました。だから親父が、大與における中興の祖なんですよね。
親父の決断が生命線になったから大與が今まで続いているし、そういう状況のなかで自分たち兄弟4人を学校に行かせてくれたんだな、と思うとグッときて。人情モノに弱いんでね。
ー そのお父さまがおっしゃる「正直でありなさい」は、すごく説得力がありますね。
大西:そうなんですよ。それに当時の僕は、後ろめたさの塊で生きていたから。自分をかっこよく見せるには、身の丈以上に見えるようにつくろわないと、体裁を保てない。
そういう自分に対して「なんか嫌やな」と思うこともあったんでしょうね。嘘はついていないんだけど、自分のありのままを見せられていないことに対して、後ろめたさがあったんやと思います。
ー だけど、和ろうそく屋でなくても「正直であること」を仕事に活かせますよね。それでも家業を継ぎたいと思ったのは、なぜだったんでしょうか。
大西:「この仕事でご飯を食べられる」というか、「この仕事に生涯を賭ける価値がある」と確信したからです。
これからの時代に、いや、そのとき時代のことなんて考えていたかな……。うーん…時代というか、自分がこうありたいな、あったらいいなと思う社会に、うちのろうそくは必要なプロダクトやと思いました。
本当にそうなるかなんて、分からなかったけれど。
ー 大学生の時点で「自分が理想とする社会に、ろうそくが必要だ」と思えたのは、どうしてなんでしょうか。
大西:親父から、うちのろうそくはどういう素材でできていて、なんで全ての素材を植物から選んでいるのかを聞いて。
世の中で売られているろうそくのほとんどは、「洋ろうそく」と呼ばれているもので、多くは石油由来のパラフィンを使っています。でもうちの和ろうそくの素材は植物のみで、石油を使っていない。
植物のものを使えば、石油と違って資源が枯渇することがないですよね。植物をもう一度育てれば、資源の再生が可能だから。これは環境に負荷をかけないことやな、と思ったんです。
人間が自然から恩恵を受けて、使った分の植物をまた育てる。人間が手を入れることで循環がつくれる。
和ろうそくは、そのサイクルをつくれるプロダクトやから、こうあったらいいなと思う社会を実現する上で理想的なものだと思いました。
ー つまり大西さんが「こうあったらいいな」と考えていた世界とは、人間が環境破壊するのではなく自然と共生して、持続可能な暮らしを実現することなんですか?
大西:そうですね。
僕が小学生のときにね、環境問題について新聞に投稿したら、載ったことがあるんです。そのころオゾン層や森林破壊の問題が世界的に言われ始めてて、「これ、やばいんちゃうか」と子どもながらに感じていたと思います。
何が問題で、どんな原因があり、それを解決できないのはなぜか、なんて全然分からないですよ。でも当時から、地球の一部である人間の生き方として、今のままでいいのだろうか、と思っていたのかもしれない。
そういうことをどこかで考えていたから、就活のときにうちの和ろうそくが全て植物素材でできていると聞いて、ピンときたんやと思います。
「ろうそくを通じてどうやって社会につながっていくのか」、その道筋は全然描けていなかったですけどね。
でも、社会に必要なものをつくるんだから、この仕事なら生涯賭けても悔いはないはずだ、と当時から信じていました。
先に継ごうとしていた弟と、後から継ぐと決めた自分
ー 「家を継ぐこと」は、当時の大西さんにとって重い決断ではなかったんですか?
大西:ないですね。プレッシャーもなかったです。親父からは「家を潰すのも続けるのも、好きにしたらええ」と言われていたので。長男だから継ぐんじゃなくて、自分がやりたくて決めましたしね。
でも継ぐと決めたとき、弟とは大喧嘩しました。
ー どうして喧嘩したんでしょうか。
大西:弟は、僕より早くから「継ぎたい」と言っていましたから。僕もそのころは、弟が継ぐもんやと思っていた。
しかも、父は兄弟二人で継ぐことは反対していたんです。親父も兄弟で一緒にやろうとして、うまくいかずに別れた経験があったから。「兄弟の仲が悪くなるんやったら、最初からやらんほうがいい」と言われていました。
それで僕が急に「継ぎたい」と言い出したから、弟からすれば寝耳に水ですよね。「おにいが継いだら、俺がやりたいと言っていたのにできひんやんけ」と弟とぶつかったんです。
「家」を継ぐしきたりとして長男である僕が優先されてしまうことも、親父が反対していることも、弟は分かっていましたから。
でもそのときには僕もやりたかったから、もう譲れなかった。それなら僕と弟の思いをどっちも実現する方法は、二人で継ぐ道しかないじゃないですか。
だから自分の部屋でベッドに突っ伏して泣いている弟に、「なんとか二人で一緒に働ける状況をつくって、うちに呼び戻すから」と約束しました。
ー お父様の反対があっても「二人でやれる」と思えたのは、なぜだったんでしょうか。
大西:よく喧嘩もしていたけれど、もともと仲が良かったからですかね。
今でも覚えているのが、僕も弟も小学生のときに、スキーを習っていたんですよ。
二人でリフトに乗っていたら、弟がスキー板を落として「どうしよう」と泣き始めた。僕は「ちょっと待っとけ」と言ってリフトから降り、滑って板を拾ってまたリフトに上がり、弟に渡したんです。
それが、僕が初めて弟を助けた記憶として残っています。彼がこのときを覚えているのかは、わかんないですけど。
継ぐ話で大喧嘩したときも、このエピソードを思い出して。助けてやりたいと言うたらおこがましいんですけど、なんとかしてやりたいと思ったんですよ。僕が弟より後からやりたいと言った申し訳なさもあったから。
当時は二人で継げるほど会社が大きくなかったので、一生懸命に業績を上げて忙しくして、「お前の手がないと足りひんのや、助けてくれ」と言える環境をつくるために頑張ろう、と決めました。
彼と一緒ならできると信じていたので。
ひとりで仕事をできるわけではない、と学んだ修行期間
ー その後すぐに大與に入社したわけではなかったそうですね。
大西:そうです、3年間お香を専門にしている京都の会社でお世話になりました。「家に入るなら、まずは外の釜の飯を食ってこい」と親父に言われて。修行期間ですね。
その会社の最終面接で、「3年で辞めさせてもらい、家業を継ぎたい」と話したら、社長から「きみねぇ、人を育てるコストのことを考えたことあるか」と言われました。
「3年でやっと一人前になり、そこからきみが会社に貢献してくれるから、きみを育てたコストを回収できるのに、3年で辞められたら困るんだよ」と怒られたのを覚えています。
「そりゃそうやな。これは落ちたな」と思ったんですが、結局採用してくれました。そこは親父が修行した会社でもあり、短い間でしたがいろいろなことを学ばせていただけて、ありがたかったですね。
ー お香の会社で学ばせてもらったな、と思うことはありますか?
大西:営業の仕事をさせてもらうなかで、ひとつ覚えていることがあって。商品を百貨店に搬入に行ったときの話なんですけど。
百貨店が閉店してから商品を搬入して、うちの会社のブースを用意していたんです。それが22時前に終わったので、まだ準備している百貨店の従業員さんたちに「すいません、お先に失礼します」と言うたら、「こっちも手伝ってください」と言われまして。
正直心の中では「いやいや、それ俺の仕事ちゃうんやんけ」と思いました。大阪の会場やったんけど、これから30分以上かけて会社のある京都に帰らなあかん、もう22時やし、と思いながら、まあ断れない性格なので手伝ったんです。
ようやく終わって次の日、先輩に「こんなことがあったんですよ」と愚痴をこぼしたわけですよ。
そしたら先輩に「この百貨店さんでうちの商品を扱ってもらえるようになるまでに、俺たちの先輩がどんだけ足繁く通って関係性を築いてきてくれたのか、想像したことはあるか」と言われて。
そのときに、もう「うわ」と思ったんですよ。今までの先輩たちのことを想像もしないで、搬入させてもらえることが当たり前になっていた僕がここでカチンとくるなんて、なんてかっこ悪いんだろうかと。
ー 先輩たちの積み重ねがあったからこそ、自分の仕事があるわけですもんね。
大西:そうやと思います。3年間働かせてもらって退職するときに社長が聞かせてくれたのも、会社としてどう進んでいくかという話でした。
「きみは三角形の頂点にいて、後ろにある2つの点を従業員さんたちが支えてくれている。だから、常に正三角形であれるように意識しなさい」と。
「みんなを置いていくようなことがあったらダメだ。ひとりじゃなくてみんなで一緒に進んでいくことが、会社として成長していくことになるから」と言われました。
ここからは僕の勝手な解釈なんですけど、「自分がいなくなったら大與が続けられなくなるんじゃダメや」ということだと思っていて。
僕がいなくなっても会社が続いていくためには、従業員みんなが僕と同じ意識を持たんといけない。僕だけが先に進んで、ピーンととがった二等辺三角形じゃだめなんです。先がとがりすぎたら、分離するから。
自分の考え方が、イコール従業員みんな、会社全体の考え方にならないと、4代目の僕から5代目になったとき、大與のクオリティーを保てなくなる。
そういうことを考えるきっかけになったので、今でも退職のときにしてもらった話をよく覚えています。
それと最後に出社した日、社長が「兄弟仲良くせえよ」と声をかけてくれました。最初から最後まで、本当によくしてもらいましたね。
約束を守るために、コンマ1秒を削り出す
ー 3年間の会社員生活を経て、26歳で家業に入ったそうですね。大與に入社した当初は、大西さんにとってどんな期間だったんですか?
大西:悔しいことばっかでしたね。会社のことにいろいろ口出ししても自分の意見が通らんし、そもそも技術が身につかない。
今考えれば、「こんなことをやりたい」「このままじゃあかん」と思いつきのような感じでしか伝えられへんかったなと。そりゃあ会社としては、「やろう」とはならんよね。
ー どんなことを提案していたんでしょうか。
大西:「パッケージを全部交換したらどうか」と言いました。でもこれ、正気の沙汰ではないんですよ。コストがかかるし、「今まで大與の商品を選んできてくれたお客様にどう説明すんねん」と怒られました。
親父がこれまで積み重ねてきたことを何も分からないのに、自分の浅い経験だけで生意気なことを言っていたんです。「つくれるようになってから言え!」と親父が一蹴した気持ちも、今は分かります。
ー 提案が採用されないだけでなく、大與で働く前提である「和ろうそくを一人前につくれるようになる」ことができないのも、悔しさにつながっていたんですね。
大西:一人前にできるようになるまでに、1つの季節を10回経験する必要があると言われる世界ですからね。10年経験して、ようやく安定してつくれるようになる。パートさんも、10年以上続けてくれている方ばかりです。
1本2本つくって「ああ、できたできた」と言っていたら、商売にならないわけですよ。1日に何百本もつくらなきゃいけないから。
でも、安定してつくれるようになるのが本当に難しい。集中力も必要やし、精神力も試されるし、うまくできひんとイライラするし。
あるとき「もう!できひん!!!」と苛立って、横の壁を勢いのままに殴ったんです。だって、できひんのやもん。
そしたら壁が破れてしまって。ちょうど壁のその部分がハリボテだったみたいなんですけど、まさか破れると思わなかったんですよ。
今は少し隠して、そのまま使っています。僕は「嘆きの壁」と呼んでいるんですけどね。
大西:当時は、最後の仕上げを担当してくれるパートさんから「さとしさんがつくったろうそくは四角いですね」と言われていました。
手で何度もろうを塗り重ねていくんやけど、きれいに丸くならなくて。「どうするんですか、これ売るんですか」と言われました。そういう無茶苦茶なものは、ぜんぶ親父が直してくれていたんです。
今だから分かるけれど、ものをつくる人間を育てるのは、本当に大変でね。自分でやったほうが早いから。直すことは、すごく手間なんですよ。一からつくることより手間ですね。相当なコストと我慢が必要です。
そのころ、親父が受けたインタビューがある媒体に載っていたんですよ。
「こんなに吹けば飛ぶような小さい会社で人を育てるとき、何にもできん子にもお給料を払っていかないといけない。そういう体力は、本当はないわけです。せやけど自分の息子やったら、そういうことも考えずに教えてやれる」と。
それを読んで、ほんまありがたいなぁと思いました。直接こう言われたわけじゃないけれど、親父の思いも感じていたから、毎日必死でしたね。
ー 大西さんが壁を越えたなと思えたのは、いつだったんですか?
大西:大與に入社して1年ぐらい経ったころかな。時間あたりのつくれる数としては全然足りていなかったけれど、僕のつくったろうそくを見て、親父に「これはこんでええわ」と言われました。自分がつくったろうそくを、初めて親父の手直しなしに出荷できたんです。
なんとかここまでできたけれど、それから同じ時間あたり同じ量をコンスタントにつくっていけるようになるのが、また難しいんですわ。
たとえばすごく暑い季節やったら、冷房が効かない工房では昼間に作業できんから、朝4時から仕事を始めるんですよ。ろうそくをつくる手順も、冬と違う。気温によってろうが固まるスピードが全然違いますからね。
そういう環境の変化に対応できるようになると、どんな日でも「この時間から始めたら、この時間に終われるだろうな」と時間が読みやすくなる。そうなるには、やっぱり季節を何度も経験する必要があるんですよ。
ー 毎日同じようにお仕事されているんだと思っていました。
大西:ものをつくる人間の仕事は、ろうそくなら1日に何百本もつくらなきゃいけなくて、しかも商品だから、だいたい同じものをつくらなきゃいけない。
だからスピードも重要なんですよ。この時間で何本仕上げるか、時間当たりにつくれる本数がぶれてしまうと、コストに響くから。
1本あたりにかけている時間が長くなったら、その分人件費がかかるわけ。反対に短くなったら儲けが出る。だから必死です。
自分が社長になるまでは、ものづくりのことなんてあんまり考えていなくて。技術を身に付けることと、会社の業績を落とさないことだけ。少ない利益を上げるために、目の前の仕事を頑張っていました。
ー それだけストイックに仕事と向き合う日々だったんですね。
大西:ほんまに、コンマ1秒を削り出すわけですよ。弟が1年でも早く戻れるように、と思っていたから。
呼び戻せるまでは、もうね、『走れメロス』みたいな気持ちですよ(笑)。「走れさとし」と自分に言い聞かせていました。
結局弟を呼び戻せたのは、僕が入社した8年後、大與が100周年を迎えた2014年です。それからずっと一緒に働いています。
今ではもう、助けてもらってばかりです。スキーのときに助けたことでは足りないくらい(笑)。
震災によって取り戻した憤り、見出した社会との接点
ー 大西さんは大学生のとき、和ろうそくは持続可能な社会に貢献できるものであり、これからの社会に必要だと考えて大與への入社を決めた、とおっしゃっていました。ろうそくと社会との接続については、入社後はどう考えていたんですか?
大西:「そんなに急に社会は変わらへん」と捉えるようになったんやと思います。自分がつくっているものと社会を接続させることは、結局のところ理想でしかないんやろうな、という気持ちが強くなっていましたね。
「和ろうそくが社会を変えるものである」という考え方を、あきらめたわけじゃない。でも和ろうそくをつくっていくうちに、「社会はそう簡単に変わらへん」と気づき始めるわけです。
和ろうそくを社会にコミットさせる難しさを目の当たりにして、ものづくりと社会の接点を持たせる意識が、自分のなかで少しずつ薄くなってきたんですよね。「もしかしたら、和ろうそくで社会は変わらへんのかもしれん」て。
ー 大西さんの意志を弱めたものは何だったんでしょうか。
大西:んー……売り上げが下がってきたから信じられなくなった、とかではないんよ。むしろ親父の代で売り上げは上がりましたからね。
「いろいろやってみたけれど、結局ろうそくだけじゃ社会は変わらへんな」という虚しさかな。
そういう虚しさを感じる出来事が続くと、社会を変えるために和ろうそく屋をやりたい思いも、「あのころは、そうやったな」とときどき思い出すくらいになった。忘れはしないのだけど、薄くなっていく感じ。
でもそういう薄まった意志がブワッて戻ってきたトリガーが、2011年の東日本大震災だったんです。
自分が「こうあってほしいな」と考える社会の輪郭を描くようになり、大與がつくるものと社会がやっとリンクし始めた。震災がそのきっかけになりました。
ー 関西にいた大西さんにとって物理的に離れた場所でおきた震災が、どうしてそれだけ大きな出来事になったのでしょうか。
大西:震災の後、原発事故がおきましたよね。あのときニュースを観ながら、「なんでこんなことになってしまったんや」と強い憤りを感じたんです。これあかんな、このままじゃあかんと思いました。
これがトリガーになり、継ぐと決めたときの気持ちをもう一度思い出したんですよ。
つまり、何によって電力を得るのかを考える前に、そもそもエネルギーに頼りすぎなくてもいい社会とは、どんなことを積み重ねていったら行き着くんかを考えようよ、と。
そういうことを考える社会のなかで、ろうそくが未来を描く役割を持てるだろうと思ったわけです。
ー 大西さんは震災の年に、「お米のろうそく」という商品を『グッドデザイン賞』に出されたんですよね。
大西:そうです。震災や原子力発電所の問題を経て「ろうそくが社会にコミットできる」と考えて、これまでの和ろうそくと意味付けを変えて発表したのが「お米のろうそく」でした。
当時は、親父から受け継いだ「正直にものづくりをする」生き方と、「ものづくりからどんな社会につなげるか」という未来像を、まだ明確につなげられていなかったんですけどね。
大西:このお米のろうそくが、2011年のグッドデザイン賞と中小企業庁長官賞を受賞しました。
この年に掲げられていたテーマが「適正」。「お米のろうそくは適正なものだね」と評価を受けました。このことが、僕に大きな自信を与えてくれたんです。
ー 震災をきっかけに取り戻した「社会に接続できるものづくり」を信じる気持ちが、補強された感覚だったのでしょうか。
大西:それはありますね。
お米のろうそくが評価されて、「ろうそくと社会との接続は、自分だけが考えていたことじゃなかった」と思えた。このことはすごく背中を押してくれたし、こういうものをつくるのが大與の使命なんやと思いました。
このとき、いろいろ言われたんですよ。お米のろうそくに使っている米ぬかのろうは、新しく考えたものじゃない。もともと使われてきたものです。だから同業者からは「なんで今さら、新しいものみたいに出しているんや」ってね。
でも受賞したことで、この商品を出す意味をより強く信じられるようになったから。
「この価値をちゃんと意味づけして、未来に繋ぐべきものだと信じて、未来に届くようなプロダクトにした人はいますか」と反論できるようになりました。
ー それだけ「ろうそくが社会にコミットできる」という確信が強くなったんですね。
大西:そのときはほんまに、社会がすぐ変わると思いましたもん。あんなことがおきたんだから。
和ろうそくみたいに植物素材のものだけを使った適正なものを選んだほうが、ひとりの暮らしが豊かになるだけじゃなくて、地球レベルで良くなるやん、と。
小学生だった大西少年の、環境問題について考えるようになり、新聞に文章を投稿したのと変わらん感覚やと思います。
不謹慎ですが、素直に「追い風やな」とも思いましたね。
ものづくりと未来の接点を確信させた「ヒント」
大西:だけど、まあそんなに簡単に、社会は変わらないですよね。
僕は震災を経て、植物素材の和ろうそくを使ったほうが、人々の暮らしも地球環境も良くなると思ったけれど、価値観はみんな違うんだと思い知りました。
あのとき計画停電があり、夜を暗いなかで過ごさなあかんくなりましたよね。だからSNSで、「計画停電のときにろうそくのこういう使い方もできますよ」と提案したんです。
そしたら震災に乗っかり宣伝するなんて、不謹慎だと言われて。「そう捉えられることもあるんや」と思ったり。
のちのち「ろうそくをつけると、震災のときを思い出すんや」とネガティブな意味で言われたり。
そういう声以上に、「ろうそくがあったから安心した」「家族が久しぶりにゆっくりしゃべれた」と聞かせてもらえたのは、ありがたかったですよ。
ただ、震災がおきても社会はすぐには変わらんし、誰も彼もが社会のことを考える方向には進めんな、と感じたのも事実です。
ー 震災後、大西さんは社長を継いで4代目になりました。そしてすぐに、節目の年として2014年、大與は創業100周年を迎えたわけですよね。このころ、大西さんはどんなことを考えていたのでしょうか?
大西:100周年を迎えるにあたり、創業した1914年からの100年を振り返り、2014年からのこれからの100年を見つめたんです。
そして「未来にろうそくをどう残せるのか」ということばかり考えていました。100周年の年に息子が生まれたことも、僕個人にとっては大きいことでしたね。
未来に残していく拠りどころを探すために、ろうそくだけでなく「火」の起源や特性、火と人が歴史的にどう関わってきたのか、たくさん調べていたんです。
自分たちのルーツを見つめんと、次の100年に受け継いでいけんな、と考えていたので。
その過程で、万物は「火・水・木・金・土」の5種類から成ると唱える、古代中国の「五行思想」に触れました。ここで、自然のなかにある「火」と「人」の関係をつないでいけるのが、ろうそくの役割やな、と気づいたんです。
ー 詳しく聞きたいです。
大西:火だけじゃなく、「自然と人が共生する」と言いますよね。 でも、僕らは自然を思いやることはできるけれど、自然は人を思いやることをしないわけですよ。
じゃあ人は、自分たちを思いやらない自然とどう共生できるのか。
そのためにできることって、たとえば津波がきたなら「ここまで波が到達したから、これより海側には家を建てんときましょう」と決めて、次の世代に伝えるために神社や碑を残すことくらいでしょう。
自然は人間の思い通りになんてならへん、でも排除する対象にするのは間違っている。共生するためには、人間が自然と上手に付き合う方法を考えないといけないんだな、と僕たちは過去から学んできたわけですよ。
「あんた(自然)のことを支配するつもりはない、そのままでいい。僕らがなんとか調整しながら上手に付き合うから、その代わり、できれば僕らにいいもんちょうだい」と。
それが、自然と人がともにあることだと考えています。
ー たしかに、人間が調整する必要がありますね。
大西:ろうそくとは、もともと外で使われていた自然の「火」を、家の中に入れることに成功した道具なんですよ。まさに、自然と人の共生を体現しているものじゃないですか?
人間がいなかったら、家の中に火なんか入らへんわけで。ありのままの火だと、家が燃えるだけです。
家の中に火を持ち込む以上、常に火災の可能性がある。そのリスクをどう軽減させるかを考えようとする姿勢に、ある種の精神性を感じるわけです。
ー 精神性、ですか?
大西:便利だからって、火を家に入れるリスクを背負えるだろうかと。そこに何か肯定させるものがあって初めて、リスクも許容されるわけですよね。
その根拠は非科学的なことでもなんでもいいと思っていて、そのひとつを僕は「精神性」と表現しています。
ー 火を家に持ち込ませる拠りどころが存在していた、と考えたんですね。
大西:じゃあ、どんな精神性が火を家の中に入れさせたのか。当時それを探していたわけです。そして、ひとつの答えを「漢字」のなかに見つけました。
「五行」には、それぞれに兄と弟がいるわけです。たとえば契約書で使われる「甲・乙」は、木の兄と木の弟。兄には「ありのままの自然」が、弟には「自然と人が共生した姿」が当てられていました。
「火」は、「丙(ひのえ)」と「丁(ひのと)」の兄弟です。
「ひのえ」は、僕ら人間では手に負えない、家の中に入れたら火災になる火。自然のままの火です。
で、「ひのと」は、ひのえとは違う火を示している。人が手を加えたら、安全に家の中に入れられるから、この火なら人が恩恵を受けられるものですよ、と。
そこまではわかったけれど、じゃあ、何が火と人を共生させたのか。ノートにメモしていたとき、ふと「ひのと」の左側に「火」を置いてみたんです。
ー 「火」の隣に、「丁」……。
大西:「灯」ですね。
この発見をしたとき、火を家の中に持ち込んだ彼らの精神性に触れた気がして、心が震えました。
「津波がここまで到達しましたよ」と後世に伝えるために石碑や神社を残すのと同じように、自然と人間が共生するために必要な知恵だったからこそ、文字に落とし込んだんじゃないかと。
ー なるほど……! 暮らしのそばにある漢字に、先人たちの思いが受け継がれていたんですね。その発見は、大西さんにとってどんなものになりましたか?
大西:これがろうそくをつくり続ける意味になるやろな、と思いました。
僕らがやっていることが間違いじゃない、100年後にろうそくを残す意味がある、と信じさせてくれるというか。
震災を経て「僕らのろうそくが、社会とつながれる」とぼんやりと思ったけれど、まだ確信を持てていなかった。でもここで初めて、確信を持った。それが「灯」の発見でした。
誰と手をたずさえて、どんな未来を描くのか
ー その発見は、その後のものづくりにどう反映されていったのでしょうか。
大西:ろうそくによって描きたい未来がより明確になったので、これまでよりさらに、伝え方を考えるようになりました。
自然と人間とが共生できることや、先人たちが残してくれた「灯」の役割を、100年後の未来に伝えるにはどうすればいいんだろう、と。
そもそも、日常のなかで火を見る機会なんてありませんし、仏事で和ろうそくを使う機会も、若い人にとっては減っているはずです。
そのなかで、「灯」の価値をどう伝えていけるだろうかと頭を悩ませました。
ー たしかに。私も大西さんのろうそくを灯すようになるまで、日常のなかに火が存在しませんでした。
大西:これは僕の失敗談なんですけど。震災前に、僕は家を建てたんですよ。そのころ何も考えていなかったので、火災保険が安かったオール電化にしちゃって。だから家のキッチン、IHなんですよ。家の中に、火がないんです。
でも、火と人の関係を考えるようになってから、「そもそも自分の家に火がないのは、まずいよな」と思うようになり、後からあわてて薪ストーブを入れました。
暮らしのなかに火がある意味を考えていなければ、生活から火が消えていくんやな、と痛い学びになりましたね。
だから今までの和ろうそくに加えて、「灯」を暮らしに取り入れやすいように、100周年の節目で新しいブランドを立ち上げました。
同時に、店内の内装や一部のパッケージも新しくしたのですが、トータルでやってもらったのが大阪の「graf」というデザイン事務所です。
ー 大西さんが和ろうそくにデザインを取り入れたのは、100周年のときだったんですね。
大西:未来に伝えるためには、ろうそくの良さを伝えるだけじゃなくて、ろうそくを売ることも必要です。伝えて売っていくために、デザインが必要だと考えました。
grafの代表である服部滋樹さんのことは、たしか大與に入社したころに紹介してもらったのがきっかけで、もともと知っていたんです。そのときは服部さんの言葉がまだピンとこなかったですけど、お店の雰囲気がすごく良くて。
そのときの記憶があったので、100周年のときにリブランディングをお願いしたんです。
ー タッグを組む相手としてgrafさんを選んだところもそうだし、大西さんが世に出す商品を見ていても、大西さんの美意識を感じます。
大西:元からあったんじゃなくて、育ってきたんですよ。
自分がいろいろなことを見たり聞いたりして、いろいろなところに出て行き、いろいろな人に会い、ものを使うと、だんだんと育まれていきますね。年齢を重ねるにつれて、何を未来に残したいと思うのか、変化していきました。
トライアンドエラーと言ったらきれいですけど、いっぱい失敗もしましたね。30代までは、そういうものの繰り返し。
服部さんだって僕が20代のときは話が合わなかったですけれど、今では最も尊敬している人のひとりです。
ー grafさんのように、大西さんが「一緒に組める」と思う判断基準はどこにありますか?
大西:ノリですね。
ー ノリ……?
大西:馬が合うかどうか。空気感かな。自分たちが持つ空気感と合っているかどうか。
ー その「空気感」には、ものづくりへの思いも含まれますか?
大西:当然そうですね。どういう社会にしたいか、「こうしたい」と思い描く未来、進みたい方向が同じ人と一緒にやりたいな、と思います。
「何をしたい」と考えているのか、そこに僕も相手も共感できるかどうか。それだけです。
海を越えて、ろうそくから描く未来を共有できた日
ー 大西さんが2019年、ろうそくの営業のためにアメリカを横断した後の言葉が、すごく印象に残っています。
大西:震災の直後から、代理店さんを通じて海外での販売も始めていたのですが、海外で年間100万円分くらいしか売れていなかったんです。僕もあまり本腰でなかったというか、「売れたらいいな」くらいの意識で。
その状態が何年も続いたので、代理店さんから「そろそろ真剣にやりましょうよ」と言われました。ものづくりをしている先輩たちからも「大西くんが自分で海外に行って、ものの魅力を伝えてくるべきだ」とアドバイスされて。
僕も100周年を経てものづくりをする意味が明確になったので、大與のろうそくを通じて語れる哲学を世界中の人と共有したい、できるはずだ、と思うようになっていきました。
でも、怖かったんですよ。海外に行くためには、その準備も含めるとめちゃくちゃお金がかかるわけです。
本気で世界中に知ってもらおうと思ったら、もちろんホームページの英語版をつくらなあかんですし、写真を新しく撮影し、営業のためにパンフレットも作り、商品をもっと宣伝せなあかんと。当然、渡航費もかかります。
ー それでも決断できた理由は、どこにあったんでしょうか。
大西:やっぱり、「ろうそくで未来を変える」という念願を叶えたいからです。
これまで仏事でメインに使っていただいていましたが、日本の人口が減っていけば仏事も少なくなるでしょう。同時に大與の売り上げがじわじわ落ちていくだろうという予測は、簡単にできます。
このままでは、ろうそくから描きたい未来にたどりつく前に、大與が息絶えてしまうと思いました。
だから意を決して、営業のためのアメリカ横断を決めたんです。
その準備のために、大與にとってすごく大きな額を使うことになったので、「どうしてこんなことにお金をかけるんだ」と社内で批判されました。
このとき唯一味方になってくれたのが、大與に戻っていた弟です。「おにいがやりたいことには、夢があるやん」と言ってくれました。
そして世界に打って出る準備として、デザイナーさん、カメラマンさん、翻訳者が力を貸してくれて、代理店さんもたくさんアドバイスをくれて。最高のメンバーでいいものをつくれたんです。これも自信をくれました。
お金をかけて海外営業しに行くことにずっと不安があったのですが、出発直前には「これだけみんなでいいものをつくれたんだから、アメリカで売れんわけないだろう」と思いながらパッキングしました。
「お米のろうそく」をつくったときは、デザインもプロデュースも自分ひとり。でもこのときは、ろうそくから一緒に未来を描ける仲間がいてくれたから。
大西:結果はありがたいことに、10箇所以上まわった営業先すべてでお取引が決まり、これまでの海外での年間売り上げと同じ額を、10日間で売ってくることができました。
なによりも、自分が信じてつくってきたものを、目の前で受け入れてもらえた。このことが、とてもうれしくて。本当にたくさんの人たちのおかげでここまで来られたんだな、ここからがスタートやな、と感慨深かったです。
ー 帰国後の大西さんの言葉を読んだとき、アメリカに行ったことで、自分が伝えたかったことが世界に届く、と実感できたんだなと思いました。
大西:使い心地も素材のことも、どこに行っても「ワンダフル」「ビューティフル」「オーマイガー!」と言われて、ほんまうれしかったです(笑)。
大與の和ろうそくは、植物素材100%なので香りをつけられないんですよ。世界中でアロマキャンドルが売れているので、うちでもつくろうとしたことがあるんですけど、アロマが溶ける油分がないので、やっぱりできひんくて。混ぜものをするわけにもいかないですからね。
でもアメリカでは、「においも煙もないから、ディナーにいい」と。
15分間しか燃えない小さいろうそくなんて、代理店さんからは事前に「燃焼時間が短いものは売れにくい」と言われていたのに、「瞑想の時間にぴったりだ」と言われて。相手の文化に入り込む意味を教えてもらいました。
未来を思い描くことを、あきらめないでいられる理由
ー アメリカ横断の半年後、2020年5月に大西さんが企画されたオンラインイベントのお話を聞いていたら、新型コロナウイルス感染症の影響で大西さんの代になって初めて売り上げが下がったと。
そのときおっしゃっていた、「ろうそくが社会に何をできるのか、信じられなくなりそうになった」という言葉が忘れられません。
大西:それだけ、売り上げが落ちましたからね。
ろうそくが売れなくなるということは、ろうそくが社会に必要とされなくなっている、ということ。
だから自分のものづくりで社会が良くなる、と信じることが、難しくなった時期がありました。「ほんまに僕らがやってることで、変わるんやろうか」と。
ー イベントでは「それでもやっぱり、ものづくりをする自分の一歩を信じるようになった」と話していました。折れそうになっても信じていられる理由は、どこにありますか?
大西:それは、買ってくれる人がいるから。僕らのろうそくはどこにでも置いているわけじゃないから、何も考えずに選ばれるものではない。スーパーとか100円ショップに置いてあるわけじゃないので。
あえて選んでくれる人がいてくれるからですよ、やっぱり。もちろん、お寺さんも含めてね。
ー 売り上げが一時下がったとしても、大西さんが次の世代、次の次の世代を見据え続ける視点を支えるものはありますか?
大西:うーん、仲間に救われている部分もあるんじゃないですかね。周りに住んでいる同年代は、考え方が近い人が多いなと思います。
無農薬でお米や野菜をつくる農家とか、滋賀で受け継がれてきた伝統食「鮒鮨(ふなずし)」をつくる老舗の七代目とか、みんな自分の代からスタートしている家業じゃないから、前後100年ぐらいのタームで物事を考えている人ばかりなんです。
だから自分の思いつきやお金、短い視点に振り回されない。地に足がついている。
そういう同年代が周りにいてくれるから、僕もふらふらせんといられるんかもしれないですね。
ー 大西さんが受け継いでいる大與の考え方も、この土地が育んだ文化と言えるのかなと思いました。
大西:土地というか、人に。そっか、そうなると土地かもしれないですね。土地が人を育てて、そういう人に僕は育てられているので。
ー つまり過去から未来への流れのなかに、自分があるんですね。
大西:そうやと思いますよ。僕自身、過去からすごくいっぱい受け取ってきました。
就活のときに親父が話してくれたことも、そうやったんでしょうね。正直であること、後ろめたさをなくすこと、使う原料のこと、つくり方のこと。
そういうものを受け継げるから、間違わなくなる。その話を聞いていなかったら、「材料費が高いから、櫨(はぜ)のろうそくをつくるのはやめましょう。売れへんし」と判断するかもしれませんから。
大西:親父の代のときに長崎県の雲仙普賢岳が噴火して、島原市の千本木地区が火砕流で被害を受けたんですよ。その「千本」とは、櫨の木のことなんです。
それで櫨がもう育てられなくなるかもしれないから、大企業や研究者が集められて、櫨のろうを人工的につくるプロジェクトが発足されたんですよ。そこに親父も呼ばれまして。何ヶ月もかけて、化学式では自然の櫨と全く同じ人工櫨が完成しました。
でも、できあがったものは、櫨ろうと似ても似つかぬもので。燃焼においても、どうしてもきれいに燃えるろうそくにならなかった。
最終的には「こんなに時間と予算をかけても人工的につくれないなら、今ある資源を守り、自然の櫨を受け継いでいきましょう」と決まったんです。
そういうことを聞いていたら、実際に自分が経験したことでなくても、僕の知識になる。だから僕は、連なっているなかのひとりなんですよね。
先代たちがいてくれて、自分もまた次の代につないでいける。「きっとつないでくれる人がいるんや」という信頼があること、気持ちの上でひとりじゃないことは、大きな支えなのかもしれません。
でもこれは、家を継いだ者だけじゃなくて、みんなそうやと思いますよ。
次につなげて、あとに託す。あとの者が思いを受け、力に変える。
今を生きている誰もがバトンを持っていて、そのバトンを自分のやり方で未来につないでいく役割があるんだと思います。
「ろうそくは、未来に残したいものですか?」
ー 新型コロナウイルスの影響が広まってから、大西さんが書いた言葉で「工芸は命を救えるものでありたい」とあったのが印象的でした。
ー しかしその後、大與の工房に訪れたことのある方が自死されたニュースが飛び込んできました。それでも変わらず、「工芸は命を救えるものでありたい」という思いは大西さんの真ん中にありますか?
大西:そうありたいとは思いますけど、実際助けられてへんからね。
「ろうそくは『大丈夫』って抱きしめてあげられるものでありたい」と言ったすぐそばで、自ら命を絶った人がいる。
震災の後に思い描いていたような、ろうそくから「こうありたい」と思う社会にまだまだつなげられていないし、そもそも目の前のひとりを助けられていない。
自分の言葉に説得力がないな、と思います。そこにいつも虚しさはあるし、「どうすればよかったんだろう」と今でも葛藤しています。悔しいですね。
ー それでも、大西さんはろうそくをつくり続けるんですね。
大西:それしかできないですしね。
故人を偲ぶものとして、うちのろうそくを使ってくれはるお客様から、お手紙をいただくことがあるんですよ。ろうそくの灯から、故人への思いを感じてくれはったと。
そういう方へのお返事として僕がいつも書いているのは、「あなたを癒してくれているのは、ろうそくじゃないと思います」と。
愛情を注いできた故人のために、ろうそくを選んだ。その人がそういう選択をしたことに対する、故人からのお返しなんじゃないかなと思うんです。
最近も、10代のお子さんを亡くした方から、お米のろうそくを灯しましたとメールをいただいて。
お子さんを失われた気持ちに対して、お返事で「わかります」と書きそうになり、消しました。僕は、お気持ちわかります、とは言えない。他人がわかるとは言えない、寄り添えない悲しみもあります。
でもろうそくなら、灯した人がどんな受け取り方もできますから。落ち込んだ心を上げるまでは無理でも、寄り添ってもらえるような安心感や温度を、ろうそくの灯で感じてもらえたらいいなと思います。
言葉を換えれば、どんな人でも抱きしめられるものが、ろうそくやから。実際に選んでくれた方がそう受け取ってくれると、やっぱり背筋が伸びます。
だから、ろうそくを買ってくれるのもありがたいんですけど、買うだけじゃなくて、ろうそくに火を灯してほしいですね。灯してみて初めて、受け取れるものがあると僕は信じているので。
ー 大西さんのろうそくには祈りが込められていて、灯すことでその祈りを受け取ったり、未来を一緒に思い描いたりできるのかもしれませんね。
大西:「ろうそくを灯してこういう時間を過ごしてほしい」「ろうそくからこういう未来を描きたい」と意志を込めてものづくりをしても、使う人がそのように受け取るかは別です。
それでもやっぱり、僕がめちゃくちゃいろんな人に助けてもらってきたから。できれば、自分のつくっているもので誰かを助けられたらいいな、と思う。
そりゃあ本当は、ろうそくで「あなたはひとりじゃないよ」「大丈夫だよ」という思いが伝わったらベストですよ。ものだけで伝わったら、ほんまに誇りです。
でも現実として、まだそうじゃない。そうなれていない。
だからこうやってインタビューを受けて、「こういうものでありたい」と言葉で書いてもらえることで、この願いをもう一歩届けられるのではないかな、と思います。
やっぱり工芸は、世界平和をなすものでありたいし、あることができる。そう信じているから。
この言葉に説得力を持たせてくれるのは、僕がつくったろうそくです。説得力のある言葉を伝えられるように、ものづくりをあきらめないでいたい。
ものづくりから未来を描くことを止めたくないし、そのためにはつくり続けるしかない。
僕も、まだまだ途中ですから。命を燃やしながら、ともに生きましょうよ。そう伝えられたらいいですね。
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