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天心を失う (1022字)

朝のざっくり周回後にupしたくなりました。
皆様いつもありがとうございます。

息子は不登校児でございます。
不登校児という言い方は、障害児と同様、身内が自ら使用する分には気を遣いませんが、他人が使うとちょっと感じがよろしくありません。
うちの子はうちの子であって「○○児」じゃない、というか「○○児」なんてどこにもいませんよ、なにそれ「主語」のつもり?と、釘を刺される場合もあるでしょう。
じゃあ、身内であっても使うなよって感じですね、すみません。

さて。

不登校の子どもの親をやっておりましたら、発達障害のお子さんやその親御さんとのお付き合いが増え、それまで知らなかったたくさんを知ることとなりました。
そこから少しお話したいと存じます。
ちなみに、発達障害かそうでないかの一線があるとは思えませんが、医師によれば息子も私も発達障害について気に留める必要はないそうです。

発達障害が天才やギフテッドや才能と絡めて語られることはよくあります。
そのせいか、親御さんが発達障害のお子さんに「好きなことをやらせる」のを、「才能を伸ばそうとしている」と世間に解釈されがちなようです。
「ちょっと違うんだよね」と、そう感じる親御さんもいらっしゃいます。
才能、能力、自立等以前の、心の、魂の、存在の問題であると、私にも見受けられます。
自己肯定感という言葉でもいわれるところです。

発達障害のお子さんが学校においてしかるべき配慮を受けられないことは決して珍しくありません。
結果、不登校に追い込まれたとき、既に心はボロボロです。
そのお子さんの心をどうにかしようとして、親御さんも頑張っていることを(お子さんはもっと頑張っていますが)、特別な子どもを仕立て上げようとする教育ママをやっていると間違われるのは心外だろうなと思います。

子どもに才能を見出し伸ばそうとする大人は、しばしば子どもを褒めようとします。
子どもが「好きでやっていたこと」に、「褒める」指導をすることによって意味を与え、方向付けをしてしまう。
そうして、子どもが褒められるためにそれをするようになったとき、それはもう、「好きでやっていたこと」ではなくなります。
「天心」を失う、という表現もあります。

好きでやっていたことを、褒められるためにするようになったとき、できなくなるという苦しさを経験をした大人であっても、しばしば子どもを、あるいは他人を、褒めてしまいます。
無自覚に自分がされたことを繰り返しているのかもしれません。