【掌編】マスク
お付き合いを始めて三週間でプロポーズされ、その場ではい、と答えたものの、二年を過ぎても曖昧にその後をかわし続けた。業を煮やした男二人は協力をした。婚約者は、不動産業を営む父に実家近くにある物件の仲介を依頼した。ファミリータイプの新築マンションについて契約が結ばれた。父は仲介手数料を取らなかった。ありがたいよと言われたが。知らんぷりを決めこむわけにもいかず、嫁いだ。娘から妻になった。
幼いころより馴れ親しんだ場所から新居まで、車で十五分ほどしか離れていない。私は車の運転をしないが、どちらも車なしで暮らしていける程度には開けている。しかしこんなに違うものかと、大きな木々に取り囲まれ思った。辺りを少し歩くと、どこかに迷い込み自分が小さくなったかのよう感じた。街路樹一本一本の幹は太くどしりと根付き、それぞれが個性的にうねりを描いて空へと伸びていた。頭上から空気を揺らす葉擦れの波。落ちてゆらめく陰も大きい。樹皮を覆う苔の彩りに夢中になった。可愛らしい黄緑色。濃く瑞々しい緑色。粉をまぶしたような、淡いパステルカラーのグリーン、ピンク、水色。雨の日、苔の肌をつたい流れるしずくは川になる。濡れる小さな森を見た。
新居の方が駅に近く、空き地も少なく、一軒家よりもマンションが多い。街中のはずなのにと意外だったが、実家はいわゆる新興住宅地にあったと気づく。切り倒された木々は大きく豊かだったかもしれないが、新たに植樹されたそれらは自然というよりもまだ人工的にきちんと生えていたのだろう。
新しい土地を歩き、呼吸し、まもなく母となった。かつての一心同体から身二つになっても変わらず幸せに、胸に赤子を抱いた。母乳という体液の授受により私たちはまだ皮膚の内をこそ共にし生きていた。
一緒に散歩をし、一緒に公園のベンチに座った。街路樹よりもいっそう太く高い木があった。青い空はひろく雲一つない。ひと気もなかった。授乳服の胸元をさっと開き赤子の口に乳を含ませた。
あのとき、どこまで自然でいたか。気持ちよさには禁忌がまつわり、倒錯へ陥りがちなのは残念だ。
授乳ケープと呼ばれる黒い布、遮光もされそうなものをすっぽりと子どもの頭から被せて致す姿はよく見かけた。見ている私が息苦しかった。そこまですべきなのかと、反撥を覚えていたゆえの行為だったことも否めない。
最近のこの近所では、屋内でも、交通機関利用時でもない、ただ外を歩く人もマスクをしているのが普通である。その必要があるほどの、密になるとは思えないのだが。鬱陶しさに堪えられず、時折マスクを外してしまうと中学生になった息子におしゃべりした。非常識だとたしなめられた。
(了)