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2022年夏アニメ感想 BASTARD!! -暗黒の破壊神- バスタード

 『バスタード!』の歴史は長い。1988年、『週刊少年ジャンプ』黄金期と言われる時代に『まじかる☆タルるートくん』や『ろくでなしBRUCE』と同年代に連載がスタートし、現在も完結に至っていない作品である。週刊誌連載の頃から規格外のビジュアルを作り上げていた作家だったが、間もなく力尽きたように週刊誌を退き、月刊誌、季刊誌と舞台を変えていき、発表に余裕がある媒体に進むごとにその美麗なビジュアルに磨きを掛けていった。
(『バスタード』同時期連載作品は次の通り。『ドラゴンボール』『スラムダンク』『ジョジョの奇妙な冒険』『ジャングルの王者ターちゃん』。『バスタード』はこの時代を生き抜いた1本である)
 現在の感覚でも驚嘆なのはスクリーントーンの使い方で、まだ漫画がデジタル化していない時代に、スクリーントーンを何枚も重ねてキャラクターや世界観を立体的に、かつ生々しいものに作り上げていった。同時代の作家達にとって、萩原一至のようなビジュアルワークは目標にすらされていた。
 世界観は当時としてはまだ珍しかったファンタジーRPGふうの世界観だ。現在ではファンタジーを愛好する人も非常に増えて、その知識を共有するための関連本は山のようにあるが、この時代にはそういった本などもほとんどなく、作家独自の調査でファンタジーの世界観が作られていき、またそのビジュアルは後のフォロワーたちにとって一つの基準となっていった。
 そういった存在自体が伝説として扱われる『バスタード』が現代のアニメ技術で復活する。期待しないほうが無理というもの。実は1992年頃にアニメ化したものの、当時のアニメ技術では原作の濃密な絵画世界を再現するに至らず、表現の大部分は簡素化され、当時のアニメフォーマットに準じた程度の内容しか描写されなかった。
 それも現代のアニメ表現であれば、あの世界観を理想的な形で表現できるのではないか――。その期待を込めて視聴に臨んだが……。

 2022年版アニメバスタードは残念な視聴体験となってしまった。

 まずは基本的なあらすじから見てみよう。
 物語が始まる400年前、近代文明が崩壊し、人々は再び中世を体験し、その後にようやく封建的世界を再建するに至った。そういう時代観が舞台となっている。私たちの時代では“迷信”の扱いである魔術が現実のものとして活用されるようになり、社会観はかつての封建的時代とは様変わりすることになる。
 『バスタード』の世界観だが、私の見立てだが、たぶん舞台はかつて日本だった場所ではないかと思われる。栽培の難しい稲作はまだ維持されていて、通貨は400年後の時代でも「円」。現代の鋳造技術がそのまま使われているので、500円玉が現代と同じ形で登場している。
 容貌や人物の名前が西洋ぽくなっているのは、現代以上に西洋化を受け入れた結果だろう。……というのは私の見立てであって、そこまで考えて作られているかどうかはよくわからない。
 主人公であるダーク・シュナイダーはそんな魔術時代の申し子である。近代文明崩壊とともに産まれ、何度も転生を繰り返し、魔術の時代全体を生き抜いてきた怪物的な存在である。
 そんなダーク・シュナイダーも15年前に起きた戦争で滅ぼされ、死の間際に転生したものの、すぐにジオ・ノート・ソートによって転生後の子供が発見され、ダーク・シュナイダーとして覚醒しないよう封印されたのだった……。
 しかし現代。王国が忌まわしき者に攻め込まれ、危機に直面し、ダーク・シュナイダーの宿主であるルーシェ・レンレンの保護者であるティア・ノート・ヨーコは、救いを求めてその封印を解くのだった。ダーク・シュナイダーの封印を解く方法、それは――処女のキッスだった。

 ……という、童貞くさい設定で物語は始まる。

 もともと『バスタード』はガチガチなファンタジーものというわけではなく、どちらかといえばコメディタッチの作品で、それどころかファンタジー的な世界観を茶化したところもあった。例えばコマの外に作者の言葉が頻繁に出てくる。これは作者自身、自分の書いている世界観や物語にそこまで本気になっていない。ファンタジーを“信じていない”立場で描かれている。
 むしろ『銀魂』的なライトさで物語が始まっている。『銀魂』は次第に自分が作っている物語に対して本気になっていっているのに対し、『バスタード』は最後まで冷笑的だった……という温度差はあるが。
 そうした冷笑的なファンタジーを映像に描き起こすと、そこになんともいえない「胡散臭さ」が現れてしまう。誰も世界観に対しても物語に対しても本気になっていない。書き割りの背景にコスプレ演劇をしているかのような……誰1人本気で作品と向き合っているような感覚がない。「どうせコメディですよ、本気じゃないですよ」……という空気がありありと出てしまっている。
 それが映像の世界で成立するか……というと成立していない。最初からガチガチなファンタジーは志向していないのは明らかだし、かといってその物語がコメディ的な面白さを持つかというとそうでもない(ギャグが面白いわけではない)。ただ、そういう漫画を描いて、自分で茶化しているだけ……という“戯れ”で終わっているような作品になってしまっている。
 そんな冷めたような作品がどうしてあの時代に受け入れられたのか……というとただ一つ、萩原一至がめちゃくちゃに絵が上手かったからだ。

 世界観や物語が半端……というのであれば、せめて構図がかっちりしていれば映像的に“持つ”のだけど、ここが本当にダメ。
 というのも、ほとんどのカットで「空間」が描けていない。その場所がどれだけの空間があるのか、キャラとキャラがどれだけの距離感を持っているのか……そういうのがわかる構図がほとんどない。ほとんどのシーンでキャラクターの上半身だけで演じられ、あとは声優の芝居に依存するような映像の作りだ。
 対話シーンもほとんど上半身と顔だけで映像が作られるので、するとやはり映像が“持たない”現象が起きてしまう。作り手も絵が持たないことに気付いているから、キャラクターの足元を映したり、手元を映したり、背景を映したり……と映像の単調さを回避しようとしているけれど、そのやり方が見え透いていて退屈な映像体験になっている。どのシーンもカット構造がキャラクターの顔、顔、顔、背景、顔、顔、背景……というパターンで作っている。舞台がファンタジーであるのに、その世界観や風景をまったく見せていない。
 時々、思い出したかのようにキャラクターの足元まで描かれるような構図が出てくるのだけど、ほとんどのシーンでキャラクターの足とパースが一致していない。レイアウト担当が明らかにパースを理解しておらず、足元が見えるようなシーンで手前に歩く動きはどれもキャラクターが真っ直ぐ歩けていない。そもそもパースが狂っているので、空間を見せるようなカットになると、不安定な気分になる。
 エンディングアニメーションにもキャラクター達が歩いている後ろ姿が描かれているのだが、パースもデッサンも崩れているので、かなり奇怪な動き方になっている。オープニングやエンディングといった何度も見る場面では相当に気を遣って描かれるはずなのに、ここでも狂ってしまっている。
 全体を通して見ても絵としてきちんとしている構図がほぼないので、かなり“狂った作品”だといえる。

 戦闘シーンでも同じ調子で、キャラクターの上半身と顔だけで進行していく。あるいはちょっと格好つけたポーズ。動いている感じがまったくしない。
 バトルシーンに入ると、後ろでザコキャラたちが「見ろ! すごい技だ!」「なんだあれは! あんなものは見たことがない!」と野次&解説を入れ始める。これは少年誌バトル漫画にありがちな一種の作法であるのだが、これは動きの表現が難しい漫画だからこそ、しかもページ枚数に限りがあるメディアの中でのみ通用する表現であって、映像でやるようなものはない。映像メディアは映像で表現すべきであって、動きを台詞で説明し始めたら、なんのための映像作品だ……となる。その「なんのための映像作品だ」という表現をアニメ版『バスタード』は全体を通してやらかしている。
 という以前に、ぼーっと見て解説していないで、大将が戦っているのを助けろよ……。
 ほとんどが動きのない止め絵、止め絵、止め絵の連続で、アクションの熱気はほぼ声優の芝居に依存。ひたすら声優の叫び声と、止め絵の連続。全体を通してどうしようもない茶番を見せられている……という印象になってしまう。映像作家が声優に頼ってはいけない。
 そのアクションの展開も面白くない。というのも駆け引きや“騙し”がない。同年代に連載がスタートした名作漫画に『ジョジョの奇妙な冒険』があるが、こちらの作品では敵スタンドは必ず主人公達を追い詰めにかかってくる。ここで毎回「どうなるんだ?」というハラハラ感が生まれてくる。
 “騙し”というのは、“敵を欺くならまず読者から”とい作劇方法だ。一瞬、「主人公が負けた」と読者に思わせる。しかしその直後、大逆転が起きる。これが一番痛快に感じる展開だ。『ジョジョの奇妙な冒険』はこれが毎回うまい。毎回追い詰められてからの大逆転の黄金パターンが描かれている。
 『バスタード』にそういうバトル漫画の定石があるかというと、なにもない。主人公は最強だから勝つ。それだけの理屈でお話が展開している。ハラハラする場面なんてただの一つもない。
 勝ったとしても特に理屈が示されない。「美形主人公が負けるわけがない」という理屈を漫画の外から出してきて、勝利を勝ち取ってしまう。そもそも「美形主人公だから負けるわけがない」という意識は漫画の外から示された指摘で、こういうところからも漫画内で世界観をかっちりと構築しようという意識が薄いということが見えてしまう。

 その中でも楽しみにしていたのがお色気。
 第4話『突入』では「服だけ溶けるスライム」が登場し、ティア・ノート・ヨークの服が徐々に溶かされていく。さて、どんなふうに裸を見せてくれるのだろうか……と期待を高めて見ていたのだが……。
(たぶんあのスライムには「催淫剤」の効果もあるんだろう)
 しかしまずデッサンが著しく狂いすぎている。気持ち悪い。たぶん質感を入れようとしたのだろうが、背中やお腹に変な皺ができてしまっている。
 服を溶かす前から服の上にオッパイが描かれていて、興醒め。布はあんな形・動き方はしない。まず絵としての原則すら守らない。露骨に表現されるエロは気分が冷める。
 エンディングも女性キャラクター達のヌードが描かれるのだけど、裸のラインが美しくない。胴体のラインはおかしいし、背中や胸や腹に意味のない線が入れられていて、それが皺に見える。脚は地面としっかり接地していないから、動くたびにぐらぐら揺れる。裸が描かれているけれど、エロスはまったく感じない。人体の構造をよく理解していない人が描いたんじゃないか……という絵になっている。ただ“エロい雰囲気”だけで描かれたものに過ぎず、そんな安っぽいもので見ている側の気持ちが高まるわけはない。
 お色気シーンは他にもたくさんあるのだが……。
 第5話ではシーラ王女がダーク・シュナイダーの体内に入った毒を吸い出すシーンがあるのだが、要するにフェラチオっぽく見せたかった……というのはわかるのだけど、いくらなんでも無理矢理過ぎ。あまり無理矢理がすぎるとやはり興醒めになってしまう。
 ダーク・シュナイダーはシーン・ハリ、カイ・ハーンと次々と手に掛けて、仲間にしてしまう。どのシーンも、いや、その触り方ではそうはならんやろ……とツッコミを入れたくもなる。
 という以前に、現代のコンプライアンス的な問題が引っ掛かってしまい、キャラクターの乳首すら描写されない。ほとんどのシーンは手前のなめ物で隠されているし、なめ物のないシーンになるとそもそも乳首を描写しない。あんな腰の引けたエロがあるものか!
 女の子の触り方がおかしいのも、たぶんコンプライアンス的な理由だ。わざわざネット媒体という場でやっているのに、どうして思い切ったエロが表現できないのか。

 Netflixで配信された『バスタード』シーズン1はアーシェス・ネイとの戦いの最後で唐突に終わってしまう。決着がどうなったかわからない。極めて中途半端。もしかして“気になるラスト”にして期待させようという作戦かも知れないが、ただ半端なだけでスッキリしないエンディング。せめてお話としてキリのいいところまで進めてから終わってもよかっただろうに……。
 最後まで残念な作品だった。
 第2シーズンはもちろん視聴しない。

 現代のアニメ技術であの『バスタード』を描いたらどうなるのだろう……。話を聞いたときは胸躍る企画に感じたけれども、そのクオリティはさんざんなものだった。まずいって絵がちゃんと描けてない。デッサンもパースも狂っているし、絵としても単調。ある場面で馬が出てくるのだけど、馬に見えないくらい下手。プロではあるがさほど絵が描ける人ではないことは見ていてわかる。「現代のアニメ技術」とかそういうもの以前に、絵の技術が伴っていない。
 絵もダメなら作劇もガタガタ。せっかくのファンタジーなのに、世界観をまったく見せていない。出てくるのはキャラクターの上半身と顔だけ。バトルシーンは中心となっている2人が戦っているだけで、周りの全員が観戦して解説するだけ。全体を通してひどい茶番を見せられた……という感じだ。
 原作は話はさておきとして、『バスタード』はあの当時としては規格外のビジュアルを作り上げていたことに称賛されていた。アニメ版はあのビジュアル感を引き継いでない。せめてそこはしっかりしようよ……というところができていない。原作には冷笑的なところがあるのだけど、そこは現代的なアップデートを入れて描けばいいのに、なぜかそこは引き継いでしまった。ゆえに何一つ真実に思えるものがないような作品になっている。原作の魅力を何一つ引き継いでいないアニメ作品だった。
 これは何が悪いのかというと、まず企画の立て方が悪い。「バスタードの最新アニメ版を作る」ということだけが優先されて、それを「どういう形でアニメ化するか」というところまで詰められていない。「アニメ化ができればなんでもいいや」感が出てしまっている。どんなアニメを作りたいか……という「理想」がない。
 まずプロデューサーがするべき仕事は、あの原作絵をきちんと引き受けられる作画スタッフを集めること。それができないくらいなら、企画を潰す……くらいの意識がないといけない。なんであの作画スタッフで作品が成立すると思ったのか……と問いたくなるくらい座組がボロボロ。プロデューサーがアニメの中身に興味がないのは見ればわかる。アニメを作ることに「志」を一切感じない。作品が面白くなるわけがない。

 『バスタード』という作品に数十年ぶりに触れて気付いたが、この作品はこんなに冷笑的だっただろうか。私が『バスタード』を読んでいたのは10代はじめ頃。あの当時は絵の美麗さそのものに惹かれて、あまり冷笑的な部分には目が向かず、むしろあの世界観を本気で見ていた記憶がある。
 でも改めて見ると、作者自身が世界観や物語に対してそこまで本気になっていない。冷笑的だし客観的。そこまで自分で作り出したファンタジーに対して、身を預けているわけではない。だから、どこか薄っぺらい、どこかコスプレ演劇的になってしまっている。
 ある場面で、ジオ・ノート・ソートは娘のヨーコに対して「いいじゃん、キスくらい」とそれまでのキャラクター感を無視した表情で呟く。別の場面で、占いオババが「愛」について語る場面になると、「寒っ」と失笑する。
 これはキャラクターの声ではなく、作者自身の声だ。作者がキャラクターに憑依して話し始めてしまっている。こういうところで物語自体に対する冷めた目線が現れてくる。これが世界観構築を台無しにしているし、アニメ版は絵の出来が悪い上に冷笑的な部分だけはきっちりトレースしているせいで、より作品世界に対する魅力を失ってしまっている。

 80年代から90年代という端境で連載がスタートした『バスタード』は、思えば冷笑的な時代感覚をもろに受けた作品だった。情熱を拒否し、虚無が広がっていった時代。情熱的に何か語ろうとすると、誰かが小声で「寒っ」と茶化しはじめる。誰も本気になっていない。本気になること自体が恥ずかしい。「別に本気じゃないから……」なにかに没頭しかけると、ハッと我に返ってこう言う人が多かった。本気じゃないから、本気になってないから、冷めてますから、何も好きなものもないから、僕はなんでもない存在だから……。誰もが全てを拒否し、虚無であろうと努めようとした。
 誰も人生を本気で向き合おうとしていないし、当たり前だけど政治にも向き合わない。政治と向き合わないということは、世の中を良くしようという意識がなく、すべて受け身。自分から何かを変えたい……という意思を持たない世代。
 だから創作をやっていても本気じゃない。漫画もなんとなくやっている。ジャンプ連載もできちゃったからやっている。
 今にして振り返ってみると、『バスタード』はそういう時代観をもろに反映させた作品だった。ファンタジーだけど、ファンタジーの世界観を本気で作っていない。オリジナルの世界観を本気で作ろうとしていない。たまたま絵が上手かったから描いているだけに過ぎない……。
 なにもかもがいい加減。だから物語もガタガタだし、キャラクターの行動原理もぐちゃぐちゃ。説得力も真実味もない作品だった。

 その一方で、主人公ダーク・シュナイダーは情熱の塊である(劣情の塊ともいうが)。
 ダーク・シュナイダーは欲望に任せて、奪い、殺し、若い女を見ると性交を迫る。人間というより動物的な存在。そこに見えてくるのは「童貞」のコンプレックス。
 まず「処女の接吻」によって覚醒される……という設定からして童貞くさい。ルーシェ・レンレンという性とは無縁の少年がキスによって、突如性欲の権化になる……これは「性の目覚め」を象徴的に描いたような設定だ。美女達と無理矢理な性的な関係を築いていくのだが、無条件に肯定される。奔放に性交を迫って、それが肯定されていく……童貞がそうなったらいいな、という妄想がそのまま具現化されている。
 ダーク・シュナイダーの容貌にしても、長身の細マッチョでナルシスト……という設定も普段はパッとしない、女の子からは相手にもされず、声も掛けられないような童貞の妄想そのもの。ヒョロヒョロした童貞が「こうだったらいいのになぁ」を具現化した存在だ。
 そういった童貞くさい妄想も、「少年漫画」という舞台であれば、それなりにハマる。少年漫画の読者もだいたいはそういう童貞くさい妄想を抱くものだ。『週刊少年ジャンプ』には伝統的に「お色け枠」というものがあるが、そこにハマる作品になっている。
(アニメ版は現代的なコンプライアンスの結果、エロ表現も骨が抜けて薄っぺらいものしか残らなかったが)

 作品に対して物語に対して創作に対して、何一つ本気になれない。唯一本気になれるのは性的欲望だけ。とにかくもセックスしたい。セックスをして、こんな欲望を持っている僕を肯定してもらいたい。そういう人間であることを認めてもらいたい……。
 『バスタード』の中で唯一本気になっているのは、ダーク・シュナイダーという人物観とその欲望だけだった。萩原一至が向き合える唯一のものが、自身の性欲だけだった。

 『バスタード』の物語は次第にダーク・シュナイダーという人物の中に「人間賛歌」を見出すようになっていく。性欲だけではなく、人間観そのものが認められていく……というようなお話になっていく。
 それも社会的に認められたいという欲求に基づくものだけれども、冷笑的な時代にあってそれが唯一の人間らしさだったからだ。自分が自分であることの根拠。
 いってしまえば、いま流行りのご都合主義的「無双主人公」のお話とそう変わらない。そこにただ「肯定して欲しい」という願望があるだけ。しかし虚無の時代にあって、本気で向き合えるものはなく、他人が本気になっている様子を見て失笑するような時代において、いかにして自分を肯定していくか。本気になっているものはない、要するに「私」を否定していた時代。そういう時代にあって、素直に「可愛い女の子とセックスしたい」という欲望の中に、枯れかけていた情熱の一断片を見出し、そこから人間としての復活していく。

 90年代という時代において、『バスタード』は圧倒的に先進的なビジュアルを展開していた作品だった。あの時代に並ぶものなし……というくらいの凄まじさはあった。だが――物語がまったくなかった。そもそも作者自身が物語に没頭すること自体に冷笑していたような作品だ。最初から物語の軸というものなんて、ないようなものだった。
 それがふとダーク・シュナイダーという人物の中に人間賛歌を見出していくのだけど……だからといって『バスタード』がきちんとした物語の形を持つことはなかった。
 たぶん、季刊誌に入って、ビジュアルがより美麗になっていく過程で、作者も「本気になった」瞬間はあるんだと思う。この辺りでダーク・シュナイダーに人間賛歌的な肯定が生まれていった。そこで、どこかの借り物のような設定を越えて、オリジナル設定が生まれていった。ベースになったのは旧約聖書の天使と悪魔のお話だけど、そこからさらに様々なものを生み出そうとした。
 しかし――そのお話をまとめようという意識が働かなかった。出てきたアイデアをダーッと書き出して、それを放り出して新しいシリーズを始めて、アイデアをダーッと絵にしたら、それだけで物語としてまとめるのを放置する……。
 新しい世界観、新しいキャラクターが生み出されて、生み出したまま迷走し、完結しない作品になっていく。
 『バスタード』は1988年生まれで確かに歴史は長いが、積み上げた冊数はわずかに27冊。歴史は長いが、物語はあまり長くない。2010年以降は連載が中断してそれきりだ。萩原一至は時々同人誌を発表するのだけど、どれも『バスタード』関連のもので、『バスタード』の登場キャラクター達がただただ性交するだけのお話。あの頃見せたような圧倒するようなビジュアルはもうない。
 どうしてこうなったかというと、もともと物語にさほどきちんと向き合っておらず、ただ絵の才能があったから注目されただけ。ある段階で物語に本気で向き合う瞬間はあったけれども、土台がしっかりしていないから、完結させる方法がわからない。
 それで『バスタード』以降の新しいキャラクターによる作品があるのかというと、ない。同人誌を出してもそこで新しい何かを作り出そうとする感じではなく、『バスタード』を繰り返すだけ。『バスタード』1作だけで自身が持っている創作性のすべてを費やしてしまった作家だった。
 絵が上手いだけで物語の作家ではなかった萩原一至。最近だったら、物語を書ける人と組んで漫画を作る……ということになるのだけど、1990年代当時はそういうのはあまりなかった。それが萩原一至という作家を枯らせてしまうことになった。なんとも惜しい。
 なんの考えもなく描いた創作によって、作家自身が囚われてしまう。せめて完結まで導くべきだった。完結まで導けば、新しい創作の芽がその後に必ずうまれてくるはずだったから。


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