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このブログによく使われる用語まとめ 2020年1月1日追加

 このブログには一般的にはあまり使われることのない、もしかするとこのブログでしか登場してこない不思議な言葉がよく使われる。その言葉の意味をここに書き記しておく。

『絵』と『画』

 「絵」といえばキャラクター絵や背景絵のことを指す。「絵がうまい」といったら普通の意味で絵が上手、あるいは作画が良いという意味。
 「画」と表現された場合、構図や画面全体の雰囲気のことを指す。画はセンスに依存するので、「絵は下手だが画は良い」という言い方をする場合もある。
 「絵=ピクチャー」「画=ルック」という言い換えればわかりやすい。

『演技』と『芝居』

 これを呼び分けられる時というのはアニメーションを語るときに限られる。
 アニメーション感想文で「演技」と書かれた場合、それはアニメーターが作画で作り上げた動きのことを指す。「キャラクターの演技がいい」という場合はキャラクターの動きや表現のことで、アニメーターへの賞賛となる。
 「芝居」と書かれた場合は、声優の演技を指す。「芝居がいい」という場合は声優の演技が優れている、という意味。
 もちろん「演技」と「芝居」を呼び分けているのはこのブログだけ。書くときに混同するから呼び分けている。一般的には一切通じない言葉なのでご注意。
 実写作品だと演技も芝居も同じ意味で使われる。

シュールの谷

 ゲームを語るときに使われる言葉。
 ゲームによくありがちな表現、「見えない壁に遮られる」「瀕死の状態なのにドリンク一本で全回復」「間抜けな挙動で主人公を見逃す敵AI」「壁やオブジェクトにすり抜けるキャラクター」「足下にあるはずのアイテムがひろえず、その近くをウロウロする現象」「髪の毛や服の裾がキャラクターの肉体を貫通する」など。要するに「不気味の谷」の表現版のようなもの。
 最近のゲームは見た目が優れてリアルなのに、しかしだからこそゲーム的都合で作られた構造が奇妙な光景として立ち上がってくる。映像表現とゲーム表現の不一致から起きる問題。あるいは“プログラマーが構築した世界観”と“ライターやデザイナーが作り上げた世界観”との齟齬からこの現象が起きている。この不一致が大きい状態がもたらす奇妙な状況、映像を「シュールの谷」と呼んでいる。
 このブログではずいぶん長く使っている表現だが、なぜか一向に流行る気配がない。……誰もそこまで読んでないから、だな。

ポトラッチ

 もとはネイティブアメリカンの奇習。一方が贈り物をしたら、もう一方はより豪華な贈り物をしなければならない、贈り物を受け取った一方はさらに豪華な贈り物をしなければならない……、という風習。これがやがて贈り物合戦に展開し、ついには双方ともに破産してしまうという。
 ここから、「ポトラッチ」といえば双方が破産しかねない投資合戦を繰り返してしまう状況を言うようになった。また、「しょーもないことでどっちが優れているか張り合い合う・競い合う」状況もまたポトラッチ的、というそうな。
 このブログのみならず、一般的にも使われている言葉。
 現在のゲーム業界におけるAAAゲームも、無制限に制作費が膨れ上がり続けており、これもある種のポトラッチ的現象と私は見ている。

日本文化漫画論

 日本の文化の根本は漫画である……という前提の理論。これはジャンルとしての「漫画」のみに限定した話ではなく、車や携帯電話、建築、日本刀も漫画である……という考え方。

省略と象徴と凝縮

 では「漫画」とはなんであるか。定義は「省略」と「象徴」と「凝縮」。
 「省略」はそれ以外の様々な要素を削ぎ落とすこと。「象徴」はそれが持っている特徴を一つの特徴にまとめ上げ、誇張すること。「凝縮」はその象徴化したものをより精密に仕上げていくことを指す。
 だから例えば曲がった形で硬直し、徹底的に精錬された日本刀などはまさしく漫画的なものだ、と言える。
 では西洋の文化の特徴は何であるかというと「シミュレーター」。
 このあたりは特にゲームを見るとわかりやすい。日本のゲームは一部の要素を切り取ってカリカチュアされた面白さを極めていくが、欧米のゲームはただひたすらにリアルに、実物再現と模倣にこだわっていく。『マインクラフト』のようなゲームは一見すると漫画的だが、実際はシミュレーター的なゲームと私は見ている。

「身体感覚の再現」

 宮崎駿監督の言葉からの受け売り。

「正確である必要はない。実感を再現することがアニメーターの最終的な仕事」
(出典:『誰も語らなかったジブリを語ろう』P109)

 アニメーションとはリアルにシミュレートされたものが正解かというと実はそうではない。アニメーションの世界ではリアルに再現されたものが実はさほどリアルに見えない……ということは往々に存在する。そういうときに、いかにしてその瞬間の“らしさ”を再現するのか。アニメーターとしての宮崎駿はボタンをはめる仕草とかシチューをすする動きとか、そういった日常所作で達人的な動きを作り出すことで知られるが、しかしそこに“リアリティ”は表現されていない。リアリティとは違うところでいかに“実感”を表現し、見る側の身体体験を心理的に再現させられるか――これこそがアニメーターの仕事として一番大事だと語る。
 具体的にどう描けば良いのかというと「省略」と「象徴化」の考え方に結びつく。

解像度と抽象度

 「解像度」とは画面の密度のこと。例えばファミコンのドット絵は「解像度が低い」、ということになり、最近の高精細なゲーム画像は「解像度が高い」……と表現される。漫画、アニメで考える場合は、画面の密度、精細さを指す。
 「抽象度」とは画面の印象のこと。抽象度が高い状態へ向かっていくと画面は漫画的に、線も色彩もシンプルになっていく。抽象度が低くなっていくと、写実へ向かっていく。
 抽象度が高くても解像度が高い画というのは存在して、アニメでキャラクターは目の大きな抽象度の高い絵なのに画面の密度が高いと「抽象度が高くて解像度も高い」と表現する。
 詳しくは『2020年4月10日 抽象度と解像度の関係』を参考。

物語教養論

 物語を書く・読むことにも「教養」は必要です……という主張。「物語」とは誰もが平等に読めるものではなく、読む側の教養のレベルによっては読み方が違ったり、あるいはまったく理解できなかったりするもの。例えば外国の物語は、その国の文化、宗教観をきちんと理解していないといまいち理解できない、面白味がわからない、作者が意図した本来的な意味とはまったくの的外れなものをそこから読み取ってしまう、という問題が起きてしまう。どんな物語を読む場合でも、事前に頭に入れるべき基本的な知識、情報は必ずある。
 よく「テレビゲームのやりすぎで学力の低下が……」と言われるが、私の意見は少し違っていて、教養なき人間が現代の複雑かつ高度に作られたゲームをクリアすることなどできないし、できたとしてもそこに描かれているテーマやその意味を理解することができないし、また逆にゲームをやることでそこに描かれている文化を知ることができる。つまりゲームで教養を得ることができる。
 「ゲームのやり過ぎで学力の低下が……」という意見は「ゲームには教養がない」という無知からの意見だし、教養が読み取れないとしたらそれは読み手の教養がなさすぎる、という意味だ。だからどんなものでもしっかり読むことが大事だ。
 複雑な文化や政治性が裏打ちされている物語がそのコミュニティ上で流行するという状況は、教養レベルが高いから、ということも言える。流行する物語からそのコミュニティの文化・教養レベルが読み取れる。教養のレベルが低くなってくると、そもそも物語を読むことも、理解することもできなくなり、文化レベルも引きずられて衰退する可能性もある。だから物語を読むためにも、教養を身につける必要があるのだ……という趣旨。
 物語は単純に面白い・面白くないという評価基準だけではなく、そこにどんな教養が描かれているか、も気にして読み解いていくと今までと違ったものが見えてくるだろう。

同時間性  2021年1月1日追加

 今の時代、情報拡散をする場合においてもっとも大切なことは「最前線の時間」で何をしているか、何を共有したか、である。
 最前線の時間でどんな話題があったか。SNSのトレンドワードに入っていたか、どんなことで炎上しているのか……。人々はその最前線の時間にのみ興味があり、人々が話題としていることと同じことを共有したいのであって、その1日前とか1週間前に何が起きたかなど、もはや誰も見向きもしない。3日前の話題なんて、今時の人はもう誰も興味ないでしょ。
 これを、私は「同時間性」と呼ぶことにした。その時の同じ時間に、何を話題が交わされ何人くらいの規模で共有されたか……という意味を示す言葉だ。
 使い方としては、「ネットビジネスで大事なことは同時間性を意識することだ」……とか。
 インターネットの黎明期、「ロングテール」と呼ばれる概念が重要視された。過去に作っておいたコンテンツが検索され、くりかえし消費されるような状況のことだ。
 しかし実際はグーグル検索をしても出てくるのはごく最近の情報ばかり。昔の事件やできごとについて調べようと思っても、検索しても全然出てこねー。
 TwitterやInstagramとなれば、誰も過去を振り返らない。昔描いた絵なんて一切閲覧されないし、昔作った動画なんて一切閲覧されない。YouTuber達が日々コンテンツを更新し続けるのは、ユーザーが過去に作った動画がどんなものだったかとか、そういうものに全く興味を持っていない……ということを知っているからだ。
 「同時間性」という奇妙な言葉を作ったのは、10年以上昔だが、あえて今の時代に掘り起こすことにした。

透明人間  2021年1月1日追加

 神戸市須磨区連続児童殺傷事件の犯人である酒鬼薔薇の手紙の中にあった「僕は透明な存在だ」が元ネタ。『身体のリアル』という本の中で最上和子がこれを採り上げているのを見て、ハッと気付く。
 かつては共同体がその人間がいかなるものか規定していた。共同体が「私」なるものを承認し、一方で「私」も共同体という価値観の中で自己を確立させ、あるいは対比しながら自己規定していた。
 しかし現代にいたり、そういう共同体が消失する。自己を規定する社会がない。あるいは社会そのものを煩わしいと拒否する。社会も個人に対して過度に干渉しないことが進歩的な社会だという認識が今の社会に広まりつつある。その結果としてできあがるのが、社会の中での立ち位置を持たない曖昧で、曖昧だから責任も背負わなくてもいいという中途半端な自己。
 現代人はさらに進んで、自己がどこから来て、どういった人間なのか、という考え方すらも失った。あるとしたら「キャラクター化」した「私」だけ。今の若い人は、自分を漫画のキャラだと思っている。なぜならキャラ化しないと自分自身が何者か、規定できないからだ。
 自己を構成する背景を拒否し、そういった自己の有り様について語らず、考えず、身体感覚も希薄。いってしまえば現代人はみんなまるごと「透明人間」みたいなもの。
 当然ながら、社会の中での立場、あるいは肩書きを持たない私のようなニートも、透明人間。客観的に言って、私がどういった人間なのか誰にもわからないから、透明人間という認識が相応しい。
 そういう気付きがあったので、ちょくちょくブログの中で自分自身について「透明人間」という言葉を使っている。
 あなたも透明人間だよ!

 ここに紹介するのはこのブログでのみ使用される用語で、一般的には使われないし、確実にいって通用しないものばかりである。日常会話の間で使うと話が通じない、恥をかくなどネガティブな効果を発生させるので、基本的には使わないよう注意してもらいたい。
 また何か思いついたら追補していく予定である。

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