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宮沢ディレクター賢治

昨年、お世話になったプロデューサーのささやかな壮行会があった。
退職をするわけではないが、定年を前に
番組制作ではない部署に移るとのことだった。

彼は、数々のドキュメンタリーを手掛けてきた大ベテランで
私にとっても、心から尊敬と信頼を抱いてる上司の1人だ。


***

初めて一緒に仕事をしたのは、伝統工芸の番組だった。
当時私はまだディレクター1年生。緊張がちがちで試写を迎えた。
上映後、彼は開口一番「綺麗なものを見せてくれてありがとう」と言ってくださった。安堵で全身がへなへなした。


彼は、プロデューサーとして
ディレクターが撮ってきたものをいつも受け止めてくれくれた。
調子に乗って面白いテイストで編集してみた時は、声を出して笑ってくれた。
私が不勉強で知識がない分野は、馬鹿にすることもなく、知識を提供して助けてくださった。

2020年4月、緊急事態宣言の真っ最中の中でコロナ特番を作ったときは、
「今、この番組を通して我々は何を伝えるべきか」と毎日議論した。
未曾有の事態に世の中が混乱する中、軸を保てたのは彼のおかげである。

構成ぐちゃぐちゃのまま試写を迎えたことがあった。
一晩悩みながら編集しているうちに、迷走して、どうしたらいいかわからなくなってまったのだ。
彼は付箋を取り出し、1枚1枚にシーンを書き込んで、順番に机に貼りつけていった。
「俺に構成を書かせるなんて、付箋1枚1000円の貸しだぞ?」なんて言いながら。
出来上がった付箋を辿ると、わかりづらかったストーリーラインが、するりと整理されている。経験の差を思い知ったのだった。




***


コロナ禍で残念ながら大々的な壮行会はできなかった。

最後の挨拶の代わりに、彼は「聞かせたい言葉があるんだ」と言い、手帳を取り出した。
そして、詩を朗読し始めた。


「雨にも負けず 風にも負けず・・・」

宮沢賢治だ。
国語の授業で勉強したので、ぼんやり覚えている。
失礼ながら、(大人ってこういう名言好きやなぁ…)なんて思いながら聴き始めた。

しかし、

「あらゆることを自分を勘定に入れずに」

小学生の頃とは聞こえ方が違う。

「よく見聞きし、分かり、そして忘れず」


まるで私たちの仕事のようだ、と思った瞬間、
読み終えた彼は「まるで僕らの仕事のようだろう?」と言った。



宮沢賢治が理想とした佇まいは、
ドキュメンタリーのディレクターの立ち位置に似ていた。

私たちは東奔西走、あらゆる現場に赴く。
でも、どんな現場にでも決して「当事者」にはなれない。

生活が苦しい方にカメラを向けたとき、何もできない自分に絶望した。
私は政治家じゃないから、この人にお金をあげることもできない。
差別から守ってあげることもできない。法律を変えることもできない。
ただ撮って伝えることしかできない。

表参道でハイブランドの華やかなパーティーを取材したとき、
世界的セレブ達と同じ場所でもみくちゃになったが、家に帰れば、
ひとりワンルームで冷たい納豆ご飯を食べた。


「西に疲れた母あれば 言ってその稲の朿を負ひ
 南に死にそうな人あれば行ってこわがらなくてもいいと言い」


私たちはどこまでも「当事者」にはなれない。
唯一できるのは、当事者に寄り添って
「見聞きし、分かろうとし、忘れず」にいることのみ。





***


帰り道、一緒いた社長がつぶやいた。

「彼は幼い頃に妹さんを亡くしているから
 宮沢賢治に思い入れがあるのかもしれないね。」

そうだったんだ。

切ない気持ちがよぎったが、
それでもやっぱり私たちは当事者にはなれない。

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