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あのとき、君は――

 以前に読んだことがある本を、しばらく経ってから、もう一度読み返す。僕はあんまり、そういうことができない。と言うか、好きじゃない。

 もちろんなかには、何度でも読み返したくなる本もある。自分にとっての名言集、バイブルみたいな本がそう。でもそれ以外の本、小説やエッセイは特に、読むのは一度きりにしている。

 その理由は「はじめて読んだときに感じたもの」を残しておきたいから。あとから読み返すと、受ける印象が変わってしまうし、最初の感情が薄れてしまう。そんな気がするから――。

 『カミングアウト・レターズ』という本。ずっと昔、友だちに借りたことがある。当時、僕はまだ大学生で、貸してくれたのは同級生。彼とは学部が違ったけれど、バイト先が同じだった。

 お店が閉店するのは真夜中で、それから始発が出るまでの数時間を、彼の部屋で過ごした。当初は公園やネットカフェで時間をつぶしていたけれど、見かねた彼が、ウチに来なよと声を掛けてくれたのがきっかけで。それから仲良くなって、学校でも授業以外は、ずっと彼と一緒だった。

「――お前ら、いっつも一緒にいるよな。もしかしてそういう・・・・ヤツ?」
「え~、そうだったの。じゃあさ、どっちが、どっちなの?」

 そんな風にからかわれることもあった。それも仕方ない。周りの子たちは「誰と誰が付き合った」「誰とヤった」「もう別れた」とはしゃいでいる。そんな中、僕たちはさぞ異質で、奇怪なものに映っていたのだろう。

「いや、そんなんじゃないよ」

 バイト先が一緒で、お互いに男子校出身で、気が合うし、趣味も合うし。そんな風にお決まりの弁解をしながら、どうしてこんなことを説明しないといけないのか。不快な気持ちがあふれてきたのを覚えている。相手の名前はもう覚えていない。でもあの下卑た笑いは、いまも忘れることがない。

 本を借りたとき、最初は教育関係の本だと思った。彼は教育学部にいて、教師を目指していたから。当時はまだ、今みたいに「LGBTQ」の認知も高くなかったと思う。それでも「性の多様性」については、彼から聞いたことがあった。

 本を借りて数日後、母親が深刻そうな顔で話しかけてきた。

 「アンタ、大丈夫? お父さんが『アイツ、ホモなんじゃないか』って、すごく心配してたわよ」と言って、彼に借りた本を渡してきた。

 いま思い返しても、突っ込みどころが多すぎる。勝手に部屋に入ること。他人の物を持ち出すこと。一方的に決め付けては、それを「心配している」なんて、都合の良い言葉に変換すること。閉口する。
 
 まぁ、言いたいこともわかる。気に入らないのだ。自分たちの所有物が、自分たちの思いどおりにならないから。あなたたちはそういう人ですよね、なんて。両親と、そんな風に感じてしまう自分にも嫌気が差し、僕は結局、最後まで読み切れずに本を返した。

 どんな言葉を添えて返したか、読まなかった理由をどこまで伝えたかは、もう覚えていないけど。彼はいつもみたいに優しく微笑んでくれたと思う。そうだったと、思いたいだけかもしれない。

 大学を卒業して、僕は全国転勤のある会社に就職した。実家からなるべく離れたかったから。彼は教師になった。県内の、海に程近い街に着任した。実家に帰る予定はないけれど、彼に会うためなら、地元に帰省してもいい。そう思っていた矢先、地震と津波が起きた。

 心無い人にからかわれたとき、君はどんな風に感じていたのだろう

 そんなんじゃないって僕が否定したとき、君はどう思ったのだろう

 読んでみない?って本を薦めてきたとき、何を考えていたのだろう

 僕がこの本を最後まで読んでいたなら、そのとき君は――


 いつか聞いてみたい。そう思っていた言葉は、どこにも届くことがない。でもこの世界で、君のような優しい人に出逢えたことが、僕は嬉しかった。

 誰かを好きになるって気持ちを、教えてくれた君へ


 

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