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地を這う虫のように

 ――朝の電車。ふと足元を見ると、一匹の虫が這っていた。

 どこからか迷い込んだ、割と大きな甲虫。カナブン、いやコガネムシか。確か、どっちかは害虫なんだっけ。でも、肝心のどっちかは覚えていない。明日使えない無駄知識だ。

 そんなことよりこの虫は、いまはまだ、運良く生きてるけれど。次の駅、人が乗り降りしようものなら、確実に踏まれてしまうだろう。

 ドアが開いたら逃がしてやろうか。そっと手に取り、逃がせるだろうか。そう思ったものの、車内はすでに混雑していて、僕がしゃがめるスペースは少しもなかった。

 それにこの虫を救ったところで、なんの意味があるのか。一寸の虫にも。害虫かもしれないこの虫にも、価値があるのだろうか。そんなことを考えているうちにドアが開く。虫にとっては断頭台だ。僕はさっと顔を上げると、スムーズな乗り降りに協力する。――あの虫がどうなったかはわからない。

 未必の故意、と言うのだったか。踏まれてしまうのがわかっているのに、助けなかった。害虫だから。ムシケラだから。

 考えてみれば、僕もあの虫と変わらない。いまはまだ、運良く踏まれずにいるだけ。なんとか死んでいないだけで。いつどんな目に遭うか、わかったもんじゃない。むしろ、いまこの瞬間も。踏まれている最中かもしれない。電車を降りてからも、そんなことを考えていた。

 僕が地獄に落ちたとき、あの虫が助けてくれることはない。当然だよね。助けてやらなかったんだ。でも救われる可能性が微塵もないという事実に、どこか安心する。そもそもあの虫には、降ろせる「糸」がないじゃないか。助けるならやっぱり蜘蛛。

 こんな打算的な人間、いくらお釈迦さまでも救わないだろう。それでも、踏み潰されるその日まで。僕はただ這っていくだけだ。そしてできるなら、誰のことも、いたずらに踏みつけることがないように――


撮影ワールド:Seatrail by: gularis さん

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