しっぷ

帰り道、乗り換えの為に渋谷で降りた。

緊急事態が宣言されようとされまいと、このJRへの乗り換えに向かう瞬間の密だけは変わらない。
大人数が吐き出され、階段へと吸い込まれていく。
「いや、密すぎて草」
そう思いながら流れに身を任せ、密の一人になる。
多分、そういう人達で構成された密。
さすが、渋谷。

そんな密状態に、決して放ってはいけない臭いがある。
放屁の臭い、マックのポテトの臭い、生乾き靴下の臭い、そして、もう一つ。

みんなと足並み揃えて歩き、ちょうど階段の一段目を降りた瞬間。
鼻にツンときた。

体育祭シーズン、教室の中に充満しがちなあの臭い。
痛めた腰に貼って眠ろうとして、臭さが勝って剥がしたものの、ベッドに染み付き眠れなかったあの臭い。
ああ、知ってるぞこの臭い。
奴だ。

しっぷだ。

途端に始まる発臭元探し。
誰だ。どこだ。
見つけたところでどうする訳でもないのに、私の中に眠る全犬スキルを鼻に集合させる。
大きく息を吸い込み、嗅覚に全神経を注ぐ。
湿度の高い雨の臭い、汗の臭い、香水の臭い、それらを一蹴する突き抜けた薬臭。

「はっ」と思わず口から飲んだ息音は、マスクと足音が掻き消してくれた、と思う。

奴がいた。
下に、いた。

いつも真っ直ぐピンと職務を全うしている奴。
誰かの背中で「自分、効くんで」と、臭いを平然と撒き散らす奴。
そんな奴が私はどうにも気に食わなかった。

そんな奴が、いた。
階段の上にべたりとへばった奴がいた。
粘着部分が貼り付き合い、シワを寄せ、地面に貼り付き、人々に踏みつけられていた。
多くの靴跡を刻み、上を向いた粘着部分は黒く役目を成さないまま、踏みねじられて、平たくなった奴がいた。

いつも正論を掲げ論理的に制圧してきた憎き委員長を、会社帰りに寄った公園の薄汚れた段ボールの中に見つけてしまったような、そんな気持ちになった。
そんな同級生いたことないけど、そんな気持ちになった。
それがなんだか悲しくて、見ない振りをして上を跨いだ。

しっぷだけが落ちてるってどういう状況?
階段で剥がれちゃう事ある?
なんとも言えない気持ちを抱え、降りていく。
でもしばらく階段を降りる中で、ふと思った。

てか、あいつ、臭いスゴイな。

もう階段も終わりに近いのに、奴の臭いはまだ鼻を突いてくる。
その臭いは中々薄まらない。
ずっと臭いは付いてくる。
そして、気がついた。

これ、人の靴の裏からだ。

前を歩くおじさんも、その前にいるサラリーマンも、みんな奴を踏んでいった。
知らぬ顔で、恐らく気が付く事もなく、踏んでいった。
まるで地面を踏むように、そこには何もないかのように。
そんな彼らに、奴は平然と臭いを擦り付けたのだ。
そう気づいたと同時に、なんだかとても笑えてきた。

いやお前、変わんないなぁ。

公園の薄汚れた段ボールの中でも、委員長は正論を振りかざしている。
正論は、誰が言おうと、どこに言おうと、正しい論理だ。
奴は、どんな形になろうと、どんなに踏み潰されようと、平然とその臭いを放ち続けるているのだ。

やっぱり私は、お前が嫌いだ。
心の中で奴に語りかけてみる。
腰を痛めようと、痣が出来ようと、私は絶対お前を貼ったりしないからな。
きっと奴は、そんな私を気にも止めないだろう。
痛くも痒くもないのだろう。

「ムカつくなぁ」

マスクの中で呟きながら、奴の臭いを振り撒くおじさんの、後に続いて、歩いて行く。
車両、別のところにしよう。
そんなことを思いながら、ゆっくりと歩いて行く。

まだ、臭う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?