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母とKing Gnu

演奏と歌にノって腕を振る母。
振るとき、手を軽く閉じて開く仕草が、
「母だなあ」と感じた。

母とKing Gnuのライブへ行った。
だいぶ前、2022年11月。

母とライブに行くのは正直恥ずかしかった。
ライブに行くということはつまり、
音楽にノって腕を振る姿を母に目撃されるということだからだ。

もちろん、腕を振らなければ済む話なのだけど、
なにせKing Gnuなのだ。
落ち着いて座りながらも楽しめるような感じではないだろうし、せっかくチケットがなかなか取れないであろうに、そんなことを気にして100%楽しめないのは、とても損をしている気がする。

そう、「そんなこと」なんだけれども、
なんだかすっごく小っ恥ずかしかったのだ。

そもそも、人生で初めてライブに行った時も、腕を振るのが少し恥ずかしかった。
周りと動きやタイミングがズレたらどうしよう?
周りにはたくさん人がいるぞ……!

そんな逡巡もすぐに吹き飛ばされたのは、
パフォーマンスの素晴らしさと、
そもそも周りの人は誰も自分に注目していやしないだろ!万が一、あっあの人ズレてるっ…と思われても、その人が10秒後もあの人ズレてたなと思う訳はないからだ。
楽しまなきゃ損なのだ!

だが、母となってくると話は変わってくる。
母とは一生関係が続くし、家族という恥ずかしさがある。24歳でまだ思春期なの?と自分でも思うが、そういう距離感なのだ。

そして、一番気がかりだったのは、母の腕を振る姿を目撃するかもしれないということだった。
それがなんだか一番小っ恥ずかしかった。
(母はどう思っていたのだろう。)

結果を言うと、母は腕を振った。僕より少し遅れて振った。歌や演奏や演出は心を動かすパフォーマンスだったし、好きな曲をやってくれたときは、もう勝手に体が動き始めた。一瞬、内なる自分が「おい!右に母がいるぞ!」と言ってきたが、「ええいうるせえい!たのしむんだぁああい!」と思い切り腕を振った。
今思うと、母も昔ライブに行ったことがあるかもしれないし、ライブで腕を振る文化は昔からあることだろう。当然母も若い頃に腕を振っていたのだ。
ただ、自分より少し遅れて振り始めたということはやはり少し気にしていたのかもしれない。
ということは、僕は親孝行をしたのだ。
母がライブを全力で楽しむ土台を作ったのだ。
(チケット代は母のおごり。経緯は割愛。)

ライブはとても楽しめた。最高だった。
母も楽しんでくれてとても良かった。

だか一つ気になったのは、
母が腕を振るとき、手を軽く閉じ、振りかざした時にパッと開く仕草だ。
妙に既視感があるなあと思っていたら、
「ああ、お皿に野菜を盛るときの手だ」と気づいた。生姜焼きの皿にキャベツを盛るときの手だ。

きっと長期にわたる「母」の時間が、
腕振りの仕草にまで染み渡っていったのだ。

「ああ、お母さんだなあ」となんだか、「いつもありがとう」改めて母への感謝をしみじみ思った。
ありがとうKing Gnu。ありがとうお母さん。

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